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そのことばかり


 昨日、バーナードから言われた言葉がこたえたのだろうか――勤務開始四日目にして、ティエラはとうとう来なくなった。

 彼女のいない第五寮は心なしか寂しくて。イオはティエラの事情を知り「もっと優しくすればよかったかしら」と呟いていたし、タウロは一人分余ったまかないを言葉なく見つめていた。

 バーナードも、ティエラにあのような言葉は言いたくなかったのだろう。彼女の傷ついたような瞳が頭から離れない。いつも明るく振舞っていたけれど、バーナードの兄レグルスのことをまだ想っているのだろうか。他の女性を選んだ彼のことを。 

 一見平穏が戻った第五寮で、エリスは心が晴れないまま一日を過ごした。

 

 業務が終わり女子寮に帰っても、ぼんやりとティエラのことを考えてしまっていた。すると扉からイオの声がする。

「エリス、エリス」

「イオどうしたの? もう食堂に行く?」

「ううん、ちょっとエリス……出てこれる?」

 改まって口ごもるなんて、イオにしては珍しい。エリスは急いで日記を片付けると部屋を出た。

「イオ、どこに行くの?」

 イオは意味ありげに振り返りながら、何も言わずにどんどん歩いた。女子寮の玄関を出て、いつもの慣れた通路を進んでいく。

 わけも分からずイオに連れてこられたのは騎士団第五寮の屋上だった。ついこの間、バーナードと話をした場所だ。期待と戸惑いが入り交じる。

「イオ……もしかして」

「仕事終わりに、バーナード様に頼まれちゃったの。エリスを呼び出せないかって。大丈夫! 私、口は固いから」

 イオはとてもいい笑顔で「じゃあね」と手を振ると、エリスを残して帰っていった。突然一人取り残されてしまって、心の準備が追いつかない。急いで必死に髪や服を手直ししていると――

「エリス」

 背後から、こちらを呼ぶやさしい声がした。振り向くと、夕陽の中で佇むバーナードが嬉しそうに微笑んでいる。

「ありがとうございます、来てくれて」

 エリスはバーナードの隣に促され、二人ならんでベンチに座った。予想以上に距離が近くて、心臓の音が聞こえてしまいそうだ。もう少し離れて座れば良かったかもしれなかった。もう遅いけれど。

 隣に座るバーナードはというと、仕事が終わったばかりだというのに嘘みたいに爽やかだった。風に乗って、彼からは良い香りまで漂ってくる。

「今日はティエラが来なかったそうですね。気に病んではいませんか」

「えっ……?」

「昨日の話で、私とティエラのことをエリスがどう思ったのか気になっていたのです」

 横目でバーナードを見遣ると、彼は身体ごとエリスに向け、心配そうな眼差しでこちらを伺っている。

「そ、そうですね……心配です。彼女の気持ちを考えると――」

「……どうか、ティエラのために結婚してあげて、など言わないようにしてくださいね」

「え?」

 彼の言葉にドキリとした。そこまで考えていたわけではなかったけれど、実家からの縁談を渋り続けている自分よりも、ティエラの方がずっとバーナードに相応しい……くらいには思っていた。気まずくて彼から目を逸らすと、バーナードが「図星ですか」と苦笑する。

「ティエラにはティエラの人生が、私には私の人生があるのです。それをお忘れ無く」

「はい……すみません」

 エリスの思うことなどバーナードにはお見通しなのだなと、恥ずかしくなりコクコクと何度も頷いた。頬が熱を帯びていく。

「……私も、以前は納得がいかなかったのです。ティエラという婚約者がいるのに、他の女性を選んだ兄のことが。ティエラの気持ちを考えれば、兄がしたことは許されるものではありません」

 バーナードとティエラは、幼なじみだと言っていた。それなりに付き合いの深い彼女が兄からそのような扱いを受け、バーナードも少なからず心が傷んでいたという。

「ティエラの傷が癒えるのならと、これまで好きにさせていました。私で良いのなら、ガラクシア家の罪滅ぼしとして兄の代わりになっても構わないと思いもしたのです」

「そんな……」

「──ただ、私の前にはエリスが現れた」

 バーナードが、囁くように呟いた。その声はささやかなものだったのに、吸い込まれるようにエリスの耳に届く。

「エリス、私は貴女がいいのです。もう兄の代わりになどになれそうにない」

 彼が真っ直ぐにこちらを見つめている。夕陽に透けたバーナードの瞳が美しくて、目が離せなかった。

「バーナード様……」

 その眼差しに誘われるがまま、エリスは彼の手に触れた。震える指先を手の甲に滑らせると、その指をバーナードがそっと握ってくれる。それだけで、胸は溺れるほどの喜びに満たされる。

「私、ずっとバーナード様のことを考えていました」

 これは二人きりだからなのだろうか、普段なら言えないような言葉がすらすらと溢れてくる。こんな恥ずかしいことを言っても彼なら受け止めてくれるだろうと、そんなふうに思ってしまっている自分がいる。

「あの日触れたときから、またこの手に触れ合いたいと……私は、そんなことばかり考えていて」

 バーナードはエリスが言い終わるのを待たず、その手を引いて小さな身体を抱きしめた。互いの鼓動が伝わり合い、さらに胸を高鳴らせる。

(バーナード様……ずっとこのまま……)

 ここに来るまで、彼との未来に悩んでいたはずだった。それがバーナードを前にしてしまうと、あっという間に甘い気持ちに取り込まれてしまう。

 まさか自分が、こうも変わってしまうなんて思いもしなかった。幸せのあまり胸が震えて怖いくらいで、エリスは知らずのうちにバーナードの胸へとしがみついた。

「エリス……いつまでもこうしていたい」

 バーナードも同じ気持ちでいてくれる。その声と体温にジンとする。

 二人きりの屋上。咎めるものは誰もいない。エリスとバーナードは互いの身体を抱きしめながら、穏やかな夕焼けに包まれた。


***

 

 エリスは後ろ髪を引かれながら女子寮へと戻ると、引き出しの奥にしまい込んでいた便箋と封筒を机に広げた。

 バーナードの腕に包まれながら、心に決めたのだ。一度プルトン男爵家へ帰り、母が集めている縁談に待ったをかけてもらおうと。

 こうなった以上、もうバーナードから離れるなんて無理だった。彼がなぜ自分のような何の取り柄もない人間に執着するのか、エリスにはさっぱり分からない。でもバーナードはエリスを欲してくれている。手を握っただけで、あんなにも幸せを感じてくれている。

 なら、彼が相応しい人と結ばれるその時までは傍にいたい。多くは望まない。彼の隣にいたいだけなのだ。

(これが、恋に恋しているということなのかしら……)

 エリスにとって、これが人生で初めての恋である。バーナードに会うたびにもっと触れたいと胸が焦がれて、自分が自分じゃなくなったようだった。我が身ながら信じられなかった。こんなにも周りが見えなくなるなんて。 

 エリスは母に宛てて手紙を書いた。強い思いを込め、筆跡を限りなく強くして。


 翌朝エリスは、主任であるセドナに休暇の相談をした。

「実家に帰るの?」

「はい。久しぶりに母と会いたいと思いまして」

 あまり休みをとらないエリスに、セドナは休暇の申請を快諾してくれた。休みの間はセドナが第五寮を担当してくれるということになり、とても頼もしく感じる。

「実家に帰るなんて言うから、てっきり辞めると言われるのかと思って焦ったわ!」

「まさか! 私はセドナ主任のように、ずっとこちらで働いていたいくらいです」

「あら、ありがたい話ね。でもエリスさんも、そろそろ結婚を考える年頃ではないの?」

 セドナが鋭い質問を投げかける。

「それは……そのことも含め、話をしてきたいと思っております」

「そう。私としては、エリスさんにはずっといて欲しいくらいだけどね。仕事に縛られて、私みたいにならないようにね」

 セドナが自虐的に笑った。それが切ない。

 彼女は「私みたいにならないように」なんて言っていたけれど、エリスは出来ることならセドナのようにずっとここで働いていたいのだ。それは本心だった。

 エリスは十七歳で騎士団本部へやってきた。何も分からぬまま、時には叱られながら無我夢中で働いた。すると一ヶ月後、初めての給料を貰えたのだ。対価として『働けばお金を貰える』と言う当たり前のことが、エリスにはとても新鮮に映った。

 給料を貰えるだけではない、仕事をすればそのぶん、正当に評価してもらえることも嬉しかった。働くことで『貧乏令嬢』としてではなく『自分自身』の価値を見出だせたのだ。

 辞めてしまえば、せっかく評価されたことも消えてしまう。そう思うと、エリスはどうしようもなく寂しく感じてしまっていた。

 バーナードと、なるべく長くそばにいたい。仕事も出来るだけ続けたい。考えれば考えるほど、エリスの心からは結婚が遠のいていった。

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