屋上のふたり
蒸し暑い屋上に、心地よい風が吹く。
定時で仕事を終えたエリスは、そのまま第五寮の屋上へと向かった。日中はイオによって大量の洗濯物が干されている屋上も、今は広々と辺り一面を見渡せる絶景となっていた。
(……バーナード様、来て下さるかしら)
今日はバーナードを屋上へ呼び出している。落ち着いて話ができるように、騎士達があまり来ないような場所を選んだつもりだ。
『話があります。明日の夕方、屋上でお待ちしております』と、バーナードの手紙受けへメモは残した。果たして、彼は気付いてくれるだろうか。念のためにもイオかアイラスに言伝を頼めばよかったか。
でも、エリスにはそんな余裕がなかった。昨夜なんて緊張してなかなか寝付けなかったのだ。結局なにも覚悟が決まらぬまま、ここでバーナードを待っている。
言うべきことを整理しようと目を閉じていると、バタバタと階段をかけ登る足音が聞こえた。もしかして……と扉を見つめ続けていると、ゆっくり開かれた出入口からバーナードが顔を覗かせた。
「バーナード様……」
彼の髪は乱れており、それだけで急いでくれたことが分かった。所々汚れた練習着のままで、きっと部屋にも戻らず真っ直ぐに来てくれたのだろう。
「お疲れのところ、わざわざお呼び立てして申し訳ありません」
立ち上がって彼に向かって頭を下げると、黙ったままのバーナードはやっとエリスの傍までやって来た。近くで見ると、端正な彼の顔が少し痩せた気がする。表情にも力が無く、イオが心配するのも頷けるほどだ。
「エリス……本当にすみませんでした」
「えっ」
「あの日、貴方の気持ちを考えず、自分の気持ちを押し付けすぎました」
意外にも、バーナードから先に謝られてしまった。彼を徹底的に避け続けたエリスだって、罪悪感を感じていたところだったというのに。
「い、いえ……避けていた私も悪いのですから」
「いいえ、恐がられて当然です。貴方が自室に来てくれ、浮かれていました……私は大馬鹿者です。アイラスも呆れていました」
少し会っただけで、バーナードが想像以上に落ち込んでいることが分かった。エリスに避けられたことでここまで弱ってしまうなんて……想像していたよりも、彼は自分のことを想ってくれていたのかもしれない。バーナードからは縋るような瞳で見つめられ、頬が熱を帯びていく。
「あの……私も申し訳ありませんでした。私、こういうことには人一倍疎くて、どうしていいのか分からなかったのです」
「……分からないとは?」
「私、バーナード様には仲の良い女性がいらっしゃることを知っています。部屋から朝帰りをするような女性がいらっしゃることも。それなのに、あの日私のことも欲しいと仰ったのは……束の間の遊びとして、なのかなと」
「そんな!」
これまで胸の内で思い悩んでいたことを伝えると、バーナードは大声で否定した。その顔には驚きの色が浮かんでいる。よほど思いもしないことだったのだろう。
「す、すみません大きな声を……ですがエリスを遊びだなんて、そんなことあるわけがないでしょう」
聞いたこともない必死な声と、真っ直ぐにこちらを見つめる彼の瞳が、それは嘘ではないと証明しているようで……どうしても胸が早鐘を打つ。
ただ、それならますます分からない。婚約者もいるというのに、なぜ――
「それなら、どういうつもりだったのでしょうか? バーナード様のような婚約者もいらっしゃる方が、私などとどうなるつもりで……」
「婚約者?」
バーナードは思い当たる節がないとでもいうように、怪訝な顔で首を傾げた。もちろん、婚約者とはティエラのことである。何度も騎士団寮に出入りしていて、彼にとって無視できない存在のはず。今なんて清掃係として、彼の個室に入り浸っているというのに。
「ティエラ様という、ご婚約者がいらっしゃるでしょう? 昨日から第五寮の清掃係として勤務されております」
ティエラの名前を出すと、バーナードの目が急に険しくなった。少し、怒っているようにも見える。
「ティエラが、寮で働いている?」
「やはりご存知無かったのですね。実は、その事でもご相談したいと思っておりました」
どちらかというと、今日はティエラの働きぶりについてが本題かもしれない。バーナードに相談するのは告げ口をするようで気が引けるけれど、イオのあの疲れようを思い出すと使命感を抱かずにはいられない。
「ティエラ様は、清掃係という名目で雇用されました。けれど時間を守らず、お仕事するつもりも無いご様子です。このまま働かれては、同じお給料を受け取っている従業員同士で不満が生まれてしまいます」
「……あいつが働けるはずがない」
バーナードは、きっぱりと言い切る。ティエラの気質を良く把握しているようだった。やはり二人は深い付き合いなのだ。エリスは痛む胸を落ち着かせながら、なるべく冷静に話を続ける。
「働こうと考えた理由も、婚約者であるバーナード様の傍にいたいからだと仰っておいででした。ですので、バーナード様もティエラ様に会う機会を増やしていただければ、彼女の寂しさが紛れますし……寮で働くなどという不相応なことも諦めて下さるかと」
「もっとティエラと会えと言うのですか、貴方が」
エリスの言葉を、バーナードのかたい声が遮った。
彼の表情は暗く、鋭い。
「ティエラは婚約者ではありません」
「えっ」
「ティエラは勝手に婚約者と言い触らしてますが、私には婚約者はいません」
(婚約者じゃない……?)
驚いたエリスが呆然とバーナードを見上げると、彼は思い詰めた表情のまま、一歩、また一歩とこちらへ近付いた。その顔はどこか傷ついているようにも見えて、かける言葉が何も見つからない。
「私は、エリスが欲しいと言いました。欲しいのは貴方だけです」
エリスは混乱した。一体どういうことなのだろう。ティエラはきっぱりと『婚約者だ』と言っていたし、朝帰りの目撃情報もある。イオが嘘を言うはずはない。
けれど今、バーナードは『違う』とティエラの存在を否定した。そして、あんなに綺麗なティエラよりエリスを欲しいと諦めない。
(な、なぜ私なの……?)
バーナードとは、数ヶ月前にやっと会ったばかりだ。食堂でたまに顔を合わせることがあるだけの、騎士と従業員という関係だった。ティエラよりも全然他人で、地位にも立場にも隔たりがある。なのにどうしてここまで思いを寄せられているのか、エリスには心当たりが無い。こうして想いをぶつけられても、簡単には受け入れることができなかった。
「わ、私は、もう二十歳です。親も心配していて、結婚相手を探しているのです。だから……」
だから、未来の無いお付き合いは出来ないと。中途半端にバーナードの気持ちを受け取ることは難しいと、そう言おうとした。
けれど唇が震えるばかりで、なかなかその言葉が口から出てこない。だって目の前にいるバーナードは、エリスが密かに憧れていた人だ。そんな人から、こんな真っ直ぐに貴方だけが欲しいなどと言われたら――どうしても彼を拒否することが出来ない。
根気よくエリスの言葉を待っていたバーナードは、もう一歩近付いて。そっと、こちらの手を取った。
「エリス……私の気持ちは迷惑ですか」
バーナードの大きな手が、エリスの小さな手を包む。彼の優しいぬくもりが、自信の無い心を絆していく。このような先の見えない恋はいけないと分かっていても、エリスの胸に沸き上がるのは――レオンに手を握られた時とは違った気持ちだ。それは大きな喜びだった。
「迷惑なわけありません……ただ、私は結婚相手を考えなければならない歳なので」
「それは、私では駄目なのですか?」
「えっ」
「私は、エリスの未来ごとすべて欲しい」
バーナードから有り得ないことを言われ、エリスはさらに固まった。
以前、アイラスにも『バーナードじゃ駄目なの?』と言われたことを思い出す。あの時だって、冗談だと思って本気にはしなかった。
名のある騎士を多く輩出する名門、ガラクシア伯爵家のエリートであるバーナード。騎士団唯一の魔法騎士であり、常に陽の当たる道を歩んできたような、そんな人だ。
かたや、極貧プルトン男爵家の令嬢エリス。実家から結婚相手について心配され、騎士団の片隅で、しがない配達係として働いている。駄目もなにも、世界が違いすぎるではないか。
しかし目の前のバーナードを見てみる。冗談を言っているような顔ではない。彼は熱を帯びた瞳でこちらを見つめ続けたまま、エリスからの返事を待ち続けている。
「貴方は先ほど、私の気持ちを『嫌ではない』と言ってくれました」
「は、はい」
「今、即答しなくとも、少し考えてくれませんか」
「――――はい……」
繰り返し想いを伝えるバーナードに、エリスはついに頷いてしまった。頭上からは安心したようなため息が聞こえてくる。
ティエラのこと、ミラ・エンハンブレのこと……バーナードには聞きたいことが沢山あったはずなのに、彼から気持ちをぶつけられるとそれらが全て吹き飛んだ。
先程までの重苦しい緊張が嘘のように、胸の中は甘い感情でいっぱいになる。彼の眼差しに呑まれてしまって、今はこの感情に身を任せても許されるだろうかとさえ思えた。
これまでは恐れ多くて触れたいとも思わなかった彼の手を、エリスは確かめるようにぎゅっと握り直した。バーナードは息をのみ、再びエリスの手を握り返す。どちらともなく指は絡められ、見つめ合えば、甘くとろとろとした気持ちが溶け出す。
言葉は無くても、こんなにも優しく幸せな時間があったなんて。
「また、こうして会ってもらえますか」
「は、はい。でも、なるべく周りには知られたくないので、私としては秘密にしていただきたいのですが」
「なぜ? 私は言いふらしたいくらいなのに」
「でも……」
エリスはまだこの関係を人に知られたくは無かった。明らかに釣り合っていない自覚はあるからだ。未来あるバーナードに、あまり変な噂を立てたくない。どうなるかも分からないあやふやな関係を大っぴらにするのは憚られた。
「……まだ、もう少しだけ待っていただけませんか」
「そこまで言うなら……分かりました。エリス、どうか私を選んで下さい」
切なげな声を絞り出したバーナードは、エリスの指先にそっと唇を落とす。そのしびれるような幸せに、エリスは恋心を自覚したのだった。




