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噂の彼女


 バーナードの部屋を逃げ出した日から、ひと月ほど経った。

「エリス、タウロのまかない食べるのは久しぶりね?」

「そうね……ごめんね、イオ。いつも一人にさせてしまって」

「別にいいわよ。いいんだけど……」

 第五寮のガランとした食堂で、エリスは焼きたてのキッシュを幸せそうに噛みしめている。向かいの席からその姿を眺めるイオは、微笑ましげにクスクスと笑った。

 

 あれ以来、エリスは第五寮の食堂で昼のまかないを摂ることを避けている。バーナードと会う可能性があるからだ。

 なので昼はわざわざ女子寮へ戻り、一人で簡単なものを食べていた。昼さえ会わなければ、彼との接点は皆無なのだ。もともと二年間、全く会うことが無かったのだから。

 今日ここで昼食をとっているのは、バーナードが絶対に来ないと分かっているからだった。彼を含む騎士団の精鋭達は、王城の式典に参加している最中のはず。タウロのまかないが恋しくなったエリスは、この日だけこっそり食堂に舞い戻っていたわけだった。

 急にバーナードを避けはじめたことについて、イオは何も追求しなかった。勘の良い彼女が何か察しているような雰囲気はあるが、わざわざ口にする事はない。きっと、こちらから話すのを待ってくれているのだろう。それがエリスには有り難かった。

 このひと月の間にも、バーナードへは当たり前のように『ミラ・エンハンブレ』からの手紙が届いている。業務上見ないわけにもいかないのだが、それにしても以前よりも頻繁なくらいだ。二人の仲は順調なようだった。

 そのように仲を見せつけられては、あの日「貴方が欲しい」と言われたことも嘘のように思えた。本当に、冗談か何かだったのかもしれない。

 けれどエリスの胸は、ずっと重い靄のようなもので覆われていた。バーナードの事を考えるだけで、ズンと気持ちが重くなる。それに……

「エリス、また裏口に例の騎士が来ているよ。お断りするかい?」

 まかないもそろそろ終わりという頃、タウロがテーブルの傍までやって来て、いつものように気遣ってくれる。

「はい……タウロさん、いつもごめんなさい」

「良いんだよ。彼も諦めないね」

 例の騎士とは、レオンのことだ。彼は仕事終わりや休憩の合間などに度々、エリスに会うため第五寮まで顔を出すようになった。その度にタウロやイオに頼んで、お引き取り頂いている。

 以前のエリスなら、わざわざ会いに来てくれるレオンに胸が高鳴ったことだろう。この出会いを大事にしなくては、と。

 しかしバーナードからレオンの下心を指摘され、エリスは急に恐くなった。好きなわけでもない男性から、知らぬうちにそういった感情を向けられることが。特定の相手がいるというのに自分を望む、バーナードのことさえも。

「……私、本当に恋愛は向いていないみたい。母の言う通り、田舎に帰って縁談をお受けするのが一番良いのかもしれないわ」

 思わず大きなため息が漏れた。こんなことで悩むなんて、良い年をして潔癖すぎるのも自覚している。

 母からは、また手紙が届いていた。内容はやはり同じ。『何度も熱心に求婚してくださっている方がいる』と、やたら大袈裟に書かれてあった。それならもういっそ、その方に嫁いでしまえばいいのかもしれない。母も自分もすっきりするし……と、エリスは半ば自暴自棄になりかけている。

「そんなことないわよ、エリスにもきっと合う方がいるわ」

「三年間も、そんな人は現れなかったのに?」

「うーん……」

 イオのフォローも今や虚しく響くだけ。イオも分かっているのだ。奥手で恋愛に免疫の無いエリスにとって、立ち回るのが難しいということを。

「だって、いなくなっちゃ寂しいよ! とにかくエリスはずっとここにいなきゃダメ!」

 イオがエリスをぎゅっと抱きしめた、その時。

 廊下の向こうからコツコツと軽やかな足音が聞こえてきた。


「……誰?」

 普段聞き慣れないヒールの音は、食堂の入り口で止まった。エリスとイオは食堂の扉を見つめる。

 視線の先の扉が開き、現れたのは――栗色の髪をふわふわとなびかせた美女だった。

「あなた方は、ここの従業員ですか?」

 見かけない顔だ。彼女の問いかけに、二人は抱き合ったままコクコクと頷く。素朴な食堂に似つかわしくない、華やかなワンピースにピンヒール。彼女の洗練された雰囲気に戸惑っていると、イオがコソッと耳打ちをした。「この子、見たことがある」と。まさかこんな綺麗な子、どこで……

「私はティエラ・メテオリートと申します。明日からこちらの清掃係としてお世話になりますわ」

 その名を聞き、エリスは頭が真っ白になった。

 この子が『ティエラ』。

 あの日、バーナードの口から出た名前だ。

「私、こちらでお世話になっておりますバーナードの婚約者なのです。出来るだけ傍にいたいと思いまして」

(婚約者……)

 なるほど。そういうことだったのかと納得した。ティエラはバーナードの婚約者だった。それもそうだ、個室に入り、朝まで過ごすような仲なのだから。

 胸がズキズキと痛む。バーナードに、こんなにも美しい婚約者がいたなんて。しかも彼は『ミラ・エンハンブレ』とも仲睦まじく、その上自分にまで言い寄った。エリスはどうしても理解出来ない。


「明日から清掃係に? 私、ここの清掃係ですが、そのような話は上の者から聞いておりません」

 イオは立ち上がり、ティエラにきっぱりと告げた。寝耳に水だったのだろう。

「それもそうですわ。だって、今朝思い付いたのですから」

 イオからの冷たい視線を物ともせず、ティエラは優雅に微笑んでいる。一方、驚きの発言にエリス達は言葉を失った。そのまま話し続ける彼女の話を聞いてみると、その動機は更にとんでもなかった。

 もっとバーナードといたいティエラだったが、彼からは度々追い返されていたという。寮に度々出向いてみても、その度に「関係者以外は寮に立ち入るな」と言われてしまうのだ。それならいっそ、彼の住む騎士団寮で働けば良いと彼女は思いついた。そして今朝、メテオリート伯爵である親を通して騎士団に相談したところ、清掃係なら空いていると言われ、それなら清掃係として働くと即答したらしい。

 一途ながら、なんと安易な決断をしたのだろう。伯爵令嬢が清掃係とは、初耳だ。

「清掃係は……朝も早いですし、ゴミを扱ったりしますし、とても大変ですよ? 大丈夫ですか?」

 イオはティエラに問いかけた。純粋に、彼女にはやっていけないだろうと心配しているのだろう。

「大丈夫です。できますわ」

 ティエラは自信たっぷりに、にっこりと微笑む。そう言われてしまえばこちら側は何も言えず、ただ彼女を信じるほかなかったのだった。


***


 翌日。ティエラは宣言通り騎士団寮に現れた。

 ただし、勤務開始時間を大幅に過ぎた午前十時頃に。

「ティエラ様。清掃係の勤務は朝七時からと決まりがあります。朝は朝食後の清掃がありますので……」

 イオが彼女に告げると、ティエラは悪びれることもなく笑顔を浮かべる。

「それなら、朝の清掃には参加しませんから大丈夫ですわ。そうだわ! 私はバーナードの部屋の掃除に専念することとしましょう、ね?」

 彼女はまるでとても良いことを思い付いたかのように言い放ち、掃除するには不向きなフリルたっぷりのスカートをひるがえしながら二階へと消えていった。

 エリスはちょうど第一便の配達物を持ち帰ったタイミングで、ティエラの強烈な出勤風景に出くわしたのだが。恐る恐るイオを見てみると、口を開けたまま呆然としている。

「イオ、イオ」

 そっとイオの腕を揺すると、彼女ははっと気がついた。エリスが居合わせたことにも気付いていなかったようだった。

「あっ、エリスおはよう。えっと……彼女どうしよう?」

「なんていうか……規格外ね」

「まあ、仕事の邪魔をしないならいいのだけど……」

 戸惑いつつも、エリスとイオは各々の仕事に戻るしかなかった。その後、ティエラの姿は見かけなかったのだけれど――


 エリスが昼食を女子寮で食べ、管理棟配達室で仕分仕事を終えて寮へ戻ると、管理室ではイオが真顔でコーヒーを飲んでいた。

 甘いカフェオレが好きな彼女には珍しく、濃い目のブラックコーヒーがイオ専用のカップになみなみと入っており、彼女はそれを一気に飲み干している。

「イオ?あの……彼女は?」

「ティエラ()はお帰りになったわ。明日も来るそうよ」

 イオは表情を崩さぬまま、深い深いため息を吐いた。

 ティエラはあの後、バーナードの部屋に入ったっきり出てこなかったのだが、まかないの時間が近くなり寮によい香りが漂ってくると、ふらりと食堂に現れた。そしてタウロの作る美味しいまかないを『まあまあね』と平らげ、イオに『暇だ』と八つ当たりをしたらしい。『バーナードが全然帰ってこないじゃない』と。 

 仕方がないので、イオは『バーナード様は勤務中なので昼間は戻らなくて当然だ』という旨を優しく噛み砕いて説明した。すると『じゃあ帰るわ』と出ていったそうだった。これがイオのため息の理由だ。

「それは……イオ、お疲れさま」

「うん……何かされたわけじゃないんだけど……疲れたわ」

 真顔のイオに、かける言葉が見つからない。バーナードの婚約者だというティエラに、強く言うことも出来ないのだろう。

「バーナード様は、ティエラ様が働きはじめたことご存知なのかしら?」

「彼女の急な思い付きだもの、知らないんじゃないかしら。もし知っていてあの方をこのまま野放しにするのなら……私はバーナード様を軽蔑するわ」

 このイオの話しぶりからして、今日だけでもティエラに相当腹が立っているのは分かった。それもそうだ、彼女は清掃係として寮に入ったのに、仕事など全くしていないのだから。

 ティエラ自体、きっと働いたことなど無いはずだ。伯爵令嬢なのだからそれが当然だった。彼女は愛するバーナードの傍にいたいというだけで、この第五寮までやって来た。清掃係が空いていたから清掃係に就いただけで、仕事などどうでもいいのだ。

 ただしここの清掃係として居座り続けるのなら、ちゃんと仕事をしてもらう必要がある。なぜなら給料が発生するからだ。これでイオと同じだけ給料を受けとるとなると、それこそ馬鹿げている。イオのみならず、従業員全体の不満も出てくるに違いない。

「困ったわね。忠告したいけれど……」

 伯爵令嬢であり、バーナードの婚約者でもある彼女に強く言える人間など、この寮ではただ一人しかいない。イオもきっと、同じ人物を思い浮かべているのだろう。こちらをじっと見つめてくるイオに、なんだか嫌な予感がした。

「ねえエリス。バーナード様に相談してみない……?」

 やっぱりだった。

 彼にティエラの仕事ぶりなどを相談してイオを助けたいのは山々だが、エリスはまだバーナードに会う勇気が無い。

「わ、私はやめておくわ」

「もう!……今まで黙っていたけど、エリスとバーナード様、本当にどうしちゃったのよ。ケンカでもしたの?」

 とうとう、我慢出来なくなったイオが捲し立てた。

「バーナード様、エリスに避けられ始めてから元気が無くなっちゃったわ。まかないにも度々いらっしゃっているけど、以前の半分も召し上がらないの」

「そんな……」

 タウロの作るまかないを、あんなに沢山食べていた人が……彼の変わり様に自分のせいだと思うと、どうしても罪悪感に苛まれる。

 けれど、バーナードにはティエラという可愛い婚約者がいる。『ミラ・エンハンブレ』との仲も順調そうだし、火遊び相手のエリスに避けられただけでそうも弱ってしまうものなのだろうか。

「そろそろ、仲直りして差し上げたら?」

「別に、ケンカしているわけじゃ……」

「何があったかは知らないけど、エリスもバーナード様も大人なのよ。話し合うことは出来ないの?」

 イオの言うことももっともかもしれない。

 特定の相手がいるバーナードから口説かれて、傷付き涙を流したのは確かに自分なのに、これではエリスがバーナードを傷付けているようだった。

 避けたりせず、ショックを受けたことはちゃんと伝えるべきだった。どういうつもりであんなことを言ったのかも、バーナードへ直接聞きたい。もし話をして以前のような関係に戻れるのなら、それが自分達にとっても周りにとっても一番良い。

 なにより、バーナードに……元気を取り戻して欲しい。

「そうね……私、バーナード様と話をしてみるわ」

 イオに背中を押され、エリスは覚悟を決めたのだった。

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