お礼のマフィン
しとしと、雨が寮の窓を濡らしている。
今日は休日。エリスはイオと同じエプロン姿で、女子寮の共用キッチンを使いマフィンを焼いている。それも『出会い』について、イオに相談をしたことから始まった。
「イオ、私やっぱり『出会い』とかよく分からないわ……」
あの海祭りの日、エリスは第四寮の騎士レオンと出会った。
レオンはとても親切な人だった。おまけに同い年で親しみやすく、人当たりの良い笑顔が素敵で。別れ際、手を握られてドキドキした。ただ……
「レオン様と知り合ったけれど、これからどうしていいのかも分からないし。そもそも私、レオン様とどうしたいとか、そういう欲も無いもの」
「なに弱気なこと言ってるの! 『出会い』こそチャンスでしょ。気持ちなんて何度か会ううちに変化していくものなんだから」
イオはハッキリと言いきった。世の中の女子とは、そんなものなのだろうか。最初は気持ちが動かなくても、何度か会えば相手の事を好きになったりするものなのだろうか。自身と世間とのズレをひしひしと感じてしまう。
「レオン様と会う口実を作れば良いのよ。エリスの場合、手伝って頂いたお礼がまだなんでしょ? 会う理由なんて簡単じゃない」
なんだかイオが生き生きとしている。彼女の勢いには気後れしてしまうけれど、その姿勢を見習いたくもあった。この消極的な性格のお陰で、三年間も出会いが無く、親をハラハラさせているのだから。
「お礼……確かに、お礼は必要だと思っていたの。お礼の手紙を送ればいいかしら」
「堅いわ!!」
間髪入れずイオに叱られてしまった。もはや先生と生徒だ。それほど、二人の経験値には歴然の差があった。
「お礼に手紙って……会う口実作ろうって言ってるのに、それ、会わずに終わっちゃうじゃないの!」
「あ、本当だわ!?」
「そうね……何かお礼の品を持って、第四寮の前で待ち伏せしましょ。手作りのお菓子なんかで良いんじゃない?」
「手作りのお菓子? 買ったほうが美味しいし、手作りって男性にとって気味が悪くないかしら」
よく知らない女からの手作りプレゼントは少し恐いと、どこかで聞いたことがある気がする。それに、お店で買ったほうが美味しくて上等なものを贈れるのではと思ったのだけれど。
「味はね、大して問題じゃないの。『貴方の為に作りました』ってアピールして、意識してもらうことが目当てなんだから。大丈夫、レオン様には手を握られてるんでしょう? きっと喜ばれるわよ」
「手作りのお菓子に、そんな用途が……」
目からウロコだった。極貧令嬢のエリスにとって手作りのお菓子とは、節約おやつという立位置でしか無かったのだから。
そんなこんなで、二人してお菓子作りに至ったのだった。
作るお菓子は少し奮発して、たくさんチョコレートを混ぜ込んだマフィンに決めた。マフィンなら得意だ。故郷のプルトン男爵家ではよく弟達に焼いていて、評判も良かったのだ。
「ねえ、これ……バーナード様にもお渡ししてもいいかしら」
エリスが呟いた意外な人物の名前に、イオは目を丸くした。
「バーナード様?」
「あの日、バーナード様にも助けていただいたから……」
彼のような名のある人間に、手作りのお菓子を贈るなどかえって失礼かもしれない。ただ、エリスにはずっとわだかまりが残ったままだった。どうしてもバーナードに改めてお礼を言いたかったし、仕事に対する反省を伝えたかった。
それで今日、レオンへのお礼を考えるうちに思い付いたのだ。バーナードにも、お礼を伝えるきっかけになるのではないかと。その事をイオに話すと、彼女も納得したようだった。
「そうね、バーナード様にもお手伝いのお礼が必要だったわね。私もアイラス様にお渡ししてみようかな」
どうやらイオもアイラスにマフィンを渡すようだ。俄然、バーナードへ渡す勇気が湧いてきたエリスは、これまでで一番丁寧に、美味しく作ろうと意気込んだのだった。
***
翌日、仕事を終えたエリスは、第四寮の前でひとり立っていた。
イオから聞いた『待ち伏せ』作戦だ。手には紙袋が二つ。中にリボンでラッピングしたマフィンを忍ばせてある。一つはレオン用に。もう一つはバーナード用に、後ほど渡す予定だ。
(これは……視線が痛いわ……)
こうしてレオンを待っているだけで、人々からの視線をびしびしと感じる。時折、第四寮に入っていく騎士から「君は誰の恋人?」と声をかけられたりもする。恥ずかしさもピークで頭が沸騰しそうになった頃、こちらに駆け寄る足音が聞こえた。
「エリスちゃん!」
「アイラス様?」
駆け寄ってきたのは、アイラスだった。手にはエリスと同じ紙袋を持っている。どうやらイオは無事にマフィンを手渡せたようだ。
「イオちゃんに聞いたんだけど……なぜこんなことを?」
寮の前で待ち伏せをするエリスを見て、アイラスは『こんなこと』と言った。どうやらこれは、走って駆け付けるほどマズいことのようだ。
「ええと……レオン様に、先日のお礼をと思いまして」
「こんなところで待ち伏せなんてしていたら皆から誤解されちゃうでしょ? それとも、レオンのこと好きになっちゃった?」
「えっ!?」
なんと、この『待ち伏せ』は好きな人相手にやるような事らしい。沸騰しかけていた頭からは湯気がたちのぼりそうになり、慌ててアイラスに否定する。
「いえ、まだ好きとかそういうのでは……! でもレオン様は良い方だったから、私みたいな相手もいない人間はこういう出会いを大事にしたほうが良いかと思って……」
「寮の前で年頃の女の子が待ち伏せなんて、『この寮の騎士目当てです』って公言しているようなものだよ」
アイラスの言うことはもっともだ。エリスは皆からの視線の意味がやっと分かった。レオンとの縁を繋ごうとしていたのは事実なので間違ってはいないのだが……恥ずかしすぎて、もう消えてしまいたい。
「それに出会いなんて、バーナードと既に出会っているじゃない」
「え?」
アイラスが思ってもみないことを言うので、エリスは耳を疑った。
「えっ? バーナードも騎士だよ? 駄目?」
「いえ、駄目とかでは無く、そんなこと思いもしなくて……騎士様でもバーナード様って……あのバーナード様ですよ?」
あまりに格の違う相手の名前が飛び出したので驚いただけだ。彼は名門ガラクシア伯爵家の次男であり、女性達にとって憧れの的。そんな人との出会いは『出会い』のうちに入らない。それにバーナードには特定の女性がいるのでは? と思わず言いそうになってしまったが、本来エリスが知り得ることではないので口をつぐんだ。
「ねえ、エリスちゃん。僕はイオちゃんから貰えたけど、バーナードにはお菓子ないの?」
「あ、あります。お手伝いして頂いたお礼にと思って用意していたのですが」
「よかった! 早速渡そうよ。バーナードも戻ってきてるから」
アイラスは嬉しそうに笑うと、有無を言わさずエリスの手を引いていく。流されるままにグイグイと第四寮から引き離され、結局レオンにマフィンを渡すことは叶わなかった。
第五寮の玄関には、騎士達が続々と戻ってきていた。ちょうど退勤の時間と重なったようだ。
「ここで待ってる? バーナード呼んでくるけど」
「は、はい」
寮に一歩足踏み入れると、やはりじろじろと騎士達からの視線を感じる。この視線の中、バーナードへちゃんとお詫びが伝えられるだろうかと、エリスは少しだけ不安になった。
「あの……出来れば静かな場所でお渡ししたいのですが。バーナード様と二人きりになれるような場所はありますか?」
「……………………」
落ち着いて話せるようアイラスに頼んでみたが、彼はなぜか真顔のまま無言である。何かまずいことを言っただろうか。
「ご都合悪いようでしたら大丈夫です、図々しいお願いをしました」
「いや……君って本当に危ないね……」
「えっ?」
「いいや、こっちおいで」
アイラスに連れてこられたのは、バーナードの個室前だった。確かに個室であれば静かで、二人きりにはなれる。けれど……経験値が低いエリスでも、さすがにこれは駄目だとわかる。
「アイラス様、わ、私は入れません」
「でしょう。もう今度から、静かな場所で二人きりにしてなんて言わないこと」
「はい……」
「今日は僕も一緒に入るから。いい?」
アイラスになだめられ、エリスは小さく頷いた。本当に今日は恥をかいてばかりだ。顔が熱い。エリスはギュッと紙袋を持ち直し、気持ちを奮い立たせた。
見慣れたドアをアイラスが三回ノックする。
「バーナード。お前にお客様だよ。入れてもいい?」
「誰だ。またティエラか」
部屋の中から、硬質なバーナードの声が聞こえた。
『ティエラ』。『ミラ・エンハンブレ』とは違う、初めて聞いた名前だった。この返事の様子だと、『ティエラ』は何度かこの部屋に入ったことがあるのだろう。以前イオが見た、バーナードの部屋から出てきた女性。それはやはり『ミラ・エンハンブレ』ではなかったようだった。『ティエラ』が朝までこの部屋で過ごしたのだ。
バーナードにちらつく、複数の女性の影。やっぱり胸がちくりと痛む。
「違うよ。エリスちゃんだよ」
アイラスがドアに向かって返事をすると、部屋からは何も応答が無くなった。不自然にシンと静まり返り、なんだか心配だ。不安に思い始めた時、突然大きな足音が聞こえたかと思うと──バタン! と勢いよくドアが開く。
扉の陰からは、慌てた様子のバーナードが現れた。
「エリス? どうして部屋まで」
「いきなりお邪魔して申し訳ありません。すぐ帰りますので」
「あ、ああ……」
「バーナード、入っていいかな」
アイラスは戸惑うバーナードを部屋へと押し込む。そして半ば強引に部屋へ入ってしまった。急に来てしまって迷惑だっただろうか。彼はラフなシャツ姿で寛いでいたようだったのに。
ドアを閉めた後、アイラスがそこにもたれ掛かった。
外の喧騒と切り離された室内。急に静かで、なんだかそわそわと落ち着かない。
(ここが……バーナード様の部屋……)
室内には備え付けのベッドと文机、棚が置かれており、物も少なくきれいに整えられていた。部屋にはバーナードの良い香りが漂っている。
……例の『ティエラ』は、ここで朝まで過ごしていた。すぐそこにあるベッドに生々しさを感じてしまって、顔に熱が集まってくる。
(だめ、私ったら何を考えているの……)
しばらく部屋を見回したあと、中央で無言のまま立ち尽くしすエリスに、アイラスが「エリスちゃん!」と声をかける。そうだった、夢見心地で我を忘れていたけれど、目的があってここへ来たはずであったのに。
「あ、あの。私、バーナード様にお礼をお持ちしたんです」
「お礼?」
「……先日、清掃係のお手伝いをしていた時の……本当に、ありがとうございました」
エリスは紙袋の一つをバーナードに向かって差し出した。中のマフィンが崩れていないといいのだが。
「イオから聞きました。バーナード様から、配達係をうろうろさせないようご忠告を受けたと。イオは悪くないのです。私が軽率に申し出たのです」
緊張して、バーナードの顔を見ることが出来ない。伝えたい事も、つい早口になってしまう。
「バーナード様や親切な方々の手助けが無ければ、私は自分の仕事に間に合わないところでした。反省をしたのです。バーナード様にご注意を受けて当然だと……」
俯いたまま向き合っていると、不意に手元から紙袋の重みが無くなった。恐る恐る顔を上げると、バーナードが紙袋を持ち上げ、嬉しそうに微笑んでいる。
「これは……お菓子ですか? ありがとうございます。甘い香りがしますね」
「あ……はい、マフィンなのです。バーナード様のお口に合うかどうか……」
「――君は、本当に真面目なんですね」
「えっ?」
「俺なんかの言ったことを、こんなにも真剣に考えてくれて」
(そ、そうかしら……?)
むしろ、不真面目であったから忠告を受けたのだと思っていた。安易にイオの手伝いを申し出て、自分の業務を蔑ろにしていたと。しかし、忠告の理由はそこに無かったらしい。では、なぜ――
「私は自分の子供っぽさに反省をしています」
「バーナード様が……子供っぽい? なんの事ですか?」
「嫉妬したのです。エリスに頼ってもらえたレオンに」
バーナードは、エリスを真っ直ぐに見つめたまま話を続ける。
「以前、騎士には気をつけてと言ったでしょう。貴方は、騎士達にとって格好の餌食なのですよ」
「はい?」
「花のように可憐で、清楚で。擦れておらず、人を疑うことも無い。だからあまり騎士達の目に触れる場所にいて欲しくないと思いました。だから、イオにあのようなことを……」
バーナードはどこかバツの悪そうな顔をして、突然エリスを褒め始めた。イオに忠告したのは、騎士達にエリスを見られたくなかったから。
そんな気持ちを聞かされては、困惑せずにはいられない。
「現に、あの日清掃係として少し出歩いただけでレオンに目を付けられたでしょう」
「目を……? 彼にはたまたま手伝っていただいただけなのですが」
「いえ、違いますね。レオンが手伝ったのも、貴方への下心からですよ。寮暮らしの騎士達にとって、エリスのような女性は貴重なのです。彼らは常に出会いを求めていますから」
「ま……まさか」
「下心ね。そう思うよ、僕も」
ドアにもたれていたアイラスも口を挟む。
「私も、エリスでなければあそこまでしませんよ。意味が分かりますか?」
バーナードがエリスを見つめながら、きっぱりと告げた。
「私も貴方が欲しい男の一人なのです。……分かってくれますか」
先程からバーナードに思いもよらないことばかり言われ、エリスの思考は完全に停止している。固まっている彼女を心配したバーナードは、エリスの顔をそっと覗き込んだ。
「エリス?」
突然、目の前いっぱいにバーナードの美しい顔が現れた。彼の探るような瞳に、エリスの心臓は止まってしまうかと思った。
ぐらりと傾いていく心。すべて暴かれてしまいそうな胸騒ぎ。
「……わ、私は、これで失礼します!」
危機感を覚えたエリスは、素早く彼との距離をとった。そして無理矢理に話を断ち、アイラスを押しのけてバタバタと部屋を出たのだった。
女子寮へ帰るなり、エリスはベッドへ倒れこむ。
危なかった。あのままバーナードといれば、コロリとおちていただろう。『ミラ・エンハンブレ』『ティエラ』に続き、『三人目の女』になっていたところだった。
鈍いエリスでも、さすがに口説かれていることは分かった。あのバーナードから――こんな夢のようなこと、もう二度と無いだろう。
でも違うのだ。エリスが求めているのは『一生に一度の出会い』だった。バーナード相手では、その願いは叶わない。火遊び相手になりたいわけではない。
ずっと憧れていた雲の上の人は、女の影がチラつく危険な男だ。知らずのうちに流れ落ちた涙は、シーツへじわりと染み込んでいった。
誤字報告ありがとうございます!




