第五寮の夕べ
一日の業務が終わり、エリスは女子寮の自室へと帰宅した。
イオも同じ寮に住んでいるため、このあとの夕食などは彼女と共にすることが多い。今日は女子寮の食堂にしようか、それとも外へ食べに行こうか。そんなことを考えながら、エリスは部屋に備え付けられた文机に日記を広げた。赤い表紙の分厚いノートに、茶色い木目がつやつやとしたペン。几帳面な彼女は、一日の終わりに日記をつけることが日課となっていた。
『緑の月一日
今日はイオとシーツの洗浄をした。山のようなシーツを次々と洗ってゆくイオは本当に格好が良い。
色々な話をしてくれたけど、バーナード様の部屋から女性が出てきた話には驚いた。ミラ・エンハンブレ様だろうか。どんな方なのだろう? 彼女からは小包も届いていたけれど』
ここまで書いて、エリスは「あれ?」と気付く。
ミラ・エンハンブレが今朝部屋まで来ていたのならば、あのくらいの小さな小包……手渡しできたのでは? わざわざ小包を送る必要もなかったのでは……と。エリスは、再びペンを動かす。
『……もしかしたら、部屋にいた方はミラ・エンハンブレ様ではないのかもしれない。となるとバーナード様には女性の影がお二人。イオが知ったら大騒ぎになりそう。
けれど、あれだけ素敵なお方だから、良い仲の女性が一人や二人、三人や四人いても不思議では無い』
彼女は、まかない後の管理室で微笑まれた時のバーナードを思い浮かべた。
エリスのような色恋に免疫の無い者だと、あんなたった五分間程度の会話でくらりときてしまうのだ。バーナードが本気を出せば五人や六人、七人や八人……簡単に堕ちてしまうことだろう。
(……いえ、バーナード様はきっとそんな人じゃないわ)
エリスは思い直し、ぶるぶると首を振る。
『午前、第一便は手紙の量がいつもの倍以上で、皆で手分けしても時間がかかった。海祭りの日が近いから、騎士様へのお誘いのお手紙が増えたのだろうとセドナ主任が仰っていた』
セドナ主任とは配達係主任の大ベテラン女史で、第一寮を担当している。彼女の仕分けは目にも止まらぬ速さを誇り、振り間違いも全く無いという。エリスも出来ることならセドナのようになりたいと、憧れの人物であった。
『さすがのセドナ主任も今日は疲れたと仰っていたので、私がくたくたでも当たり前な気がする。くたくたのなかで母からのあの手紙を読んだので、気持ちまで疲れてしまった。
今日のまかないはグリルチキンとトマトスープでとてもボリューム満点だった。疲労からなのか、いつも以上に美味しく感じた。
イオと食べていると、昼休憩中に戻られたバーナード様・アイラス様とまかないをご一緒することになった。お二人とも沢山召し上がっていた』
バーナードもアイラスも、とてもきれいな食べ方なのだけれど、食べる量が半端なく多かった。そして食べ終えるのも、とてつもなく速いのだ。あのすらりとした身体のどこに、あんな大盛りの食事が吸い込まれているのか……エリスはいつも驚いてしまう。
『イオと母の手紙について話していると、バーナード様達に聞かれてしまった。とても恥ずかしかったけれど、管理室でも少しだけそのお話をした。バーナード様へ自分のことを話したのは初めてかもしれない。とても緊張した。私が自嘲すると、そんなことないですよと気遣って下さった』
(それで、えっと……)
本当は、それだけでは無い。バーナードからは「皆、あなたが欲しいのですよ」と言われた。二人きりの空間で。しかしエリスにはそんなこと書けなかった。今思い出すだけでも顔が熱くなって、書いている字も動揺してひどく歪む。
何度も、彼はただ気を遣ってくれただけなのだと思い込もうとした。しかし朝の話のこともあって、どこか性的に受け取ってしまったのだ。そんな風に意識してしまった自分が恥ずかしくてたまらなかった。
『午後は、……』
(午後は……何をしたんだったかしら……)
赤い顔のまま、エリスは考え込んだ。確かに第二便の仕事はした。量も多かったはずだ。五時の退勤までやり終えたから今ここで日記を書いているのだ。なのに頭が真っ白で何も思い出せない。
バーナードとのやりとりが鮮烈過ぎて、あの去り際を思い出した瞬間、他のことが吹き飛んでしまったのだ。思わず顔を机に突っ伏せる。
(バーナード様……)
エリスは気持ちの整理をするために、そばに置いてある過去の日記をパラパラとさかのぼった。配達係の職についてから三年間、欠かしたことのない日記だ。イオと出会った日のこと、ホームシックで泣いたこと、セドナに叱られた時のこと、逆に褒められた時のこと……辛いかったことも嬉しかったことも全部、この部屋で、一人きりで記した。この日記はエリスの回顧録のようなものだ。
もちろん、バーナードとの出会いも記されてある。エリスは数ヶ月前のページをめくった。
『白の月八日
今日はとても仕事が少なかった。こんな日もあるんだなと少し得をした気分だ。
手が空いていたからイオと徹底的に掃除しようということになって、寮の玄関から廊下にわたり、窓も床もピカピカに磨いた。すごく達成感があって、イオにとても感謝された。
タウロさんも褒めてくださって、今日のまかないにはデザートにミルクゼリーまでつけてくれた。なんて良い日なんだろう』
その日はとても良い日だった。日記の文字からも絶好調だったことが伝わってくる。カボチャのグラタンに燻製肉のスープ、白パンにミルクゼリー付き。まかないのメニューまで覚えている。
『まかないといえば、今日は忘れ物を取りに戻ったバーナード様が食堂に現れた。良い香りに釣られたとのことで、初めてお会いしたバーナード様は、イオに聞いていた通りとても素敵な方だった。タウロさんがお誘いして、バーナード様も一緒にまかないを召し上がることになった。旨い旨いとかなりの量を平らげていて驚いた。また来ると仰っていたので、またご一緒出来るかもしれない。イオと一緒に喜んだ』
エリスはこの時点で丸二年以上、第五寮勤務だったのだが、バーナードと会ったのはこの時が初めてだった。
朝早くから寮に出入りしているイオからは常々噂は聞いていた。そのため、この日は「この方があのバーナード様か」と感動したものだ。そのくらい、騎士と寮従業員……特に配達係との接点は少なかった。
(確か、バーナード様からは『新しい清掃係の方ですか』と声をかけられたのよね)
イオと二人で大掃除をした後だったからかもしれない。なにせエリスは汚れたエプロンを身に付け、靴も掃除用のブーツを履いていた。どこからどう見ても清掃係だった。配達係だと伝えると「君が!?」と驚かれたのだ。
(ふふ、懐かしい……)
懐かしさに浸っていると、扉をノックする音がしてエリスは現実に引き戻された。
「エリス! ご飯行こう!」
イオが仕事から戻り、夕食のお誘いに来たようだった。今日は食堂にしようか、それとも外に食べに行こうかと相談すると、イオは「今日行くところは決まっているの」と意味ありげに囁いた。
「え? どこへ行くの?」
「まあまあ。付いてきてみてよ」
女子寮を出て、イオの足取りは迷い無くずんずんと進んでいく。
一体どこへ行こうというのか、不思議に思いつつ付いていくと……二人は見慣れた建物の前に到着した。
それは騎士団第五寮だった。
「お昼の終わりにアイラス様と少しお話をしたら、第五寮は夕食も絶品だから、よかったらエリスと食べにおいでって誘って下さったの。タウロも来て良いって。はあ、かっこいいアイラス様……」
イオは胸の前で手を組み、ぼんやりと呟く。
その様子にエリスは驚愕した。イオも、今朝までバーナードのスクープに心を痛めていたというのに。
「ちょっと嘘でしょう? もうアイラス様に乗り換えたの!?」
「だってバーナード様にはもうお相手の女性がいるじゃない。憧れるだけ不毛だもの」
なんとあっさりしていることだろう。切り替えが早過ぎてついて行けない。いや、それよりも。
「おいでって言われても、やっぱりご迷惑よ。休息のお時間に部外者が入り込んでは」
「私達、部外者じゃないわ。第五寮の従業員よ」
「そうだけど……」
二人が入り口の前で押し問答をしていると、急に入り口の扉が音を立てた。中から出てきたのは私服姿のアイラスだった。
「声が聞こえたんだ。やっぱりイオちゃんとエリスちゃんだったね。どうぞ、入っておいで」
アイラスは茶色の柔らかそうな髪を耳にかけながら、扉を開いて二人を招いた。彼を見つめるイオの目は、既にとろんと蕩けている。その様子を見て、もう何を言っても無駄だろうとエリスは諦めた。
ざわざわとする館内。あちらこちらから聞こえる足音。すれ違う騎士達が皆、エリスとイオをじろじろと眺めていく。
いつも騎士の留守中が勤務時間であるエリスは、騎士達が戻ってきている時間帯に来るのは初めてだった。思わず、緊張で身がすくむ。
「ア……アイラス様。これはやはりご迷惑では……」
もともと男性慣れしていないため、この刺さるような視線に言いようの無い居心地の悪さを感じる。毎朝このような中で清掃作業をしているイオを尊敬してしまった。
「迷惑なわけ無いでしょう。タウロも待っていたよ」
アイラスはにこにことしながら食堂のドアを開けた。その途端、食堂内の視線がエリス達へと一気に集中する。
ざわつく中で「よお、イオ」と声をかける騎士もちらほら。エリスはというと、いたたまれない気持ちでイオの背に隠れて移動した。
「エリスとイオ……? どうしてここに」
突然、名前を呼ばれ振り向くと、一番奥のテーブルでバーナードが手を振っている。彼はちょうど今、食事をとっているところだったようだ。ゴロゴロと肉が入ったシチューと熱々のパンが湯気を立てている。
「アイラス様が夕食に誘って下さったんです。タウロも来て良いと言ってくれたので」
話しつつ、イオとアイラスはバーナードと同じテーブルに座ってしまった。これではエリスもここに座らざるを得ない。しかしバーナードは食事中だ。お邪魔して良いのだろうか。
困って立ち尽くしていると、後ろのテーブルに座っていた赤髪の騎士に声をかけられた。
「美しい方。こちらへ座りませんか?」
「えっ。私ですか?」
「はい、あなた以外誰がいるというんです」
エリスは驚いて後ずさった。まさか自分が誘われるなんて。
騎士とは皆、こんなにスマートな誘い方をするのか。誘われたら座ったほうが良いのだろうか……どう反応していいのか困っていると、見かねたバーナードが食事を中断し、傍までやって来てくれた。
「彼女達はアイラスと約束をしていたみたいだ。さあ、こちらへ」
バーナードはエリスを自分のテーブルへ促すと、小さく溜め息を落とした。そしてアイラスをじろりと睨む。
それをエリスは見逃さなかった。当のアイラスは睨まれても笑顔を崩さず「今日のメインはシチューかムニエルなんだ。どちらにする?」なんて、何処吹く風だ。
イオはバーナードのシチューを見て同じものが食べたくなったと言うので、エリスはムニエルを選んだ。タウロの作る料理なのだから、絶対にどちらも美味しいに違いない。
間も無く、厨房から出来上がりを知らせるタウロの声が聞こえた。料理を取りに行こうとエリスが立ち上がると、バーナードが手で制し「私が取ってきましょう」とカウンターへ向かう。
(駄目だわ……何から何まで、ご迷惑をかけてしまっているわ)
食事まで取りに行かせてしまい、やはり来るべきではなかったのではと気後れしてしまう。
「お待たせしました。さあ、どうぞ」
バーナードはエリスのムニエルとイオのシチューを手に戻ってきた。お礼を言いつつトレーを受け取ると、彼は彼女達の飲み物まで用意した。なんて気の利く男なのだろうか。
「お……美味しすぎるわ……」
エリスが選んだ白身魚のムニエルは、外はカリカリ、中はふわふわでとんでもなく美味しい代物だった。魚は貴重なので、昼のまかないでは滅多に出されることがない。これは夕食ならではのメニューだった。しぼんでいた気持ちが復活するのが分かる。
そんなエリスを見て、アイラスとイオも満足げだ。
「ね、来てよかったでしょう?」
「そんなに美味しそうに食べる姿を見てしまうと、私もムニエルにすればよかったと思ってしまうな」
バーナードがこちらを見て微笑んだ。やっと彼の笑顔を見ることが出来てホッとする。今夜は迷惑をかけどおしだったからだ。
「シチューも、とても美味しそうでした」
「ではまたシチューの時にお呼びしましょう」
機嫌の良さげなバーナードはそう約束し、最後にワインまでご馳走様してくれたのだった。
夕食を終えると、もう外は真っ暗だった。
夜道は危ないからと、アイラスは女子寮までの帰り道を送ると申し出てくれた。イオも喜んでいるし、せっかくの言葉に甘えようかと帰り支度をしていると……なんとバーナードも「私も行きましょう」と席を立った。
エリスはぎょっとした。アイラスとバーナード、女性達に人気の二人組が女子寮の前まで来たりしたら、女子寮はちょっとした騒ぎになってしまう。しかし今になって「やっぱりいいです」とは言えない。
「あの、途中までで大丈夫です。女子寮の周りは明るいですから……」
なるべくやんわりと伝えてみた。申し出に対して失礼だっただろうかと心配したが、アイラスには意図が伝わったらしい。「では少し手前まで送るよ」と言ってくれた。勘の良い方で助かった。
イオとアイラスが歩く後ろを、バーナードと並んで歩く。こちらに合わせてゆっくりと歩いてくれる彼に、エリスはずっと気にしていたことを謝った。
「今日は、お食事中にお邪魔してすみませんでした。ご迷惑をおかけして……」
彼は食事中、アイラスに刺すような視線を向けていた。そんな様子を見てしまったから、やっぱり食事時にお邪魔したのは図々しかったのではないかと申し訳なく思っていたのだ。
「邪魔どころか……毎日でも来てくれてかまわないのですよ。タウロも歓迎するでしょう」
しかしバーナードはそれほど気にしていない様子。なら、あの睨みつける目は一体何だったのだろう。
「でもエリス、騎士達には注意してくださいね」
「え……?」
「私も含めて、騎士達は男ですから。今日言ったでしょう、男達は皆、あなたが欲しいと」
金色の目が薄く微笑み、エリスを見つめる。
(『私も含めて』……?)
ばっちりと目が合ってしまった。冗談なのかどういうつもりか……分かりかねるその言葉を流そうと思っても、視線を逸らせないでいる。
彼もそれ以上、何か言うわけでもない。エリスはバーナードの言葉に何も反応できず、ただ帰り道を歩いた。
エリスは部屋に戻ると、日記を書き足した。
『今日の夕食は、第五寮の食堂でいただいた。
騎士様達が往来する寮というものを初めて経験したけれど、皆に物珍しげに見られて緊張してしまった。やはり少し迷惑だったのではと思う。バーナード様のお食事も、中断させてしまって申し訳なかった。
ただし、タウロの作るムニエルは絶品だった。イオとバーナード様のシチューも、とても美味しそうだった。帰りはアイラス様とバーナード様に送っていただいて――』
そこまで書くのが、エリスには限界だった。
今日一日で、バーナードが生々しく感じられた。“憧れの偶像”でも“才能ある騎士”でもなく、生身の「男性」だと。
エリスはベッドへ倒れ込んで目を瞑り、頭からバーナードを追い出そうとした。しかし彼の言葉も、あの金色の瞳も、脳裏からなかなか消えてくれない。
真っ赤になった顔を両手で覆うと、彼の姿はより鮮明に思い出される。エリスはバーナードを追い出すことを諦めて、彼に思いを馳せながら眠りについたのだった。




