帰郷⑦ ファルカス
シャスティエをミリアールトに送り出して良かったことがある。それは、頻繁に彼女の整った筆跡を目にすることができるということだ。ファルカスのもとには、数日と空けず妻からの手紙が届いている。子供たちの様子を訪ね、旅先の風物や天気を伝える文が内容の大半を占めるそれらは、それでも妻が彼のために時間と心を割いていることの表れだった。書き出しに結びに綴られる夫を気遣う言葉は、直に顔を合わせる日々では得られなかったであろうものだ。子供たちを第一に考えているかのようなあの女から、少しでも優しい想いを向けられる機会を得ることができたと思えば、たまには里帰りを贈るのも良い考えと言えるかもしれない。
とはいえ、王宮の女主人の不在は、全体としては大事であり厄介ごとも引き起こすものだった。それは、子供たちが母を恋しがって寝つきが悪くなるとか、シャスティエに同行させたジュラの手の者たちが、慌ただしくイシュテンとミリアールトの間を行き来させられるとか、その程度のことではない。より煩わしく厄介な事態が、まとわりつく羽虫のようにファルカスを悩ませ苛立たせていた。
その男との会食の間、ファルカスは妻の手紙や子供たちの笑顔を努めて脳裏に浮かべていた。リカードを討ったと言っても、あるいはだからこそ、残った有力な諸侯を疎かにはできない。目の前の男もそういった厄介な諸侯のひとり、決して楽しい席にならないのは分かり切っていたのだ。
とはいえ、今日の相手は礼儀の面ではリカードよりは大分マシだ。少なくとも、王を相手にへりくだった態度と言葉遣いを保とうという程度の分は弁えている。無論、簡単に本心を明かさないと捉えれば、そうそう油断する訳にもいかないのだが。
例えばにこやかな笑顔と共に切り出された言葉も、裏の意図があるに違いないのだ。
「クリャースタ様のご不在で、王宮は寂しくなりましたな。輝かしい月が姿を隠したかのよう、陛下も張り合いがないのではございませんか?」
「別に寂しいなどということはないぞ。子供の声で騒がしいほどだ。誰もが王子と王女を甘やかそうとするのは悩ましいと言えなくもないが」
男の仄めかしたことには気付かない振りで、ファルカスは惚けて見せた。実際、今の王宮には子供の甲高い笑い声と泣き声で溢れている。幼いフェリツィアとミハーイは母の不在を寂しがるだろうと、側近たちが代わる代わる自身の子を連れて見舞ってくれているのだ。アンドラーシなどのように、自身の子の栄達を望む者もいるだろうが。父親としては、子供たちの仲が良いのなら親の思惑にはとりあえず目を瞑ろうと今のところ考えている。そもそも王宮への出入りを許している時点で、信頼の程度はかなり高いのだ。
「とはいえ、王族の御子はただのおふたりではございませんか。臣は先王陛下の御代も存じておりますが、数多の王子殿下や姫君たちが戯れる様は華やかで、まさに壮観でございました」
――そして兄弟同士で殺し合って、たったひとりになったのだろうに……!
早くも本題に入ろうとしている相手の図々しさに、ファルカスが肉を切り分ける手つきも荒くなった。ミーナの喪が明けるか否かのうちに、王子がまだひとりしかいないことを口実にふたり目三人目の側妃を、と奏上する者がちらほらと現れている。外戚としての権を欲する野心からか、あるいは真実イシュテンの伝統とやらを重んじているのか。今の王宮に王子王女が少なすぎる、というのが、そのような連中が決まって口にする口実だった。
「王女がもうひとりいることを忘れるな。耄碌するにはまだ早いだろう」
「これは、失言でございました。申し訳もございません。マリカ様は、声を上げて駆け回るようなお年頃ではないと考えましたもので」
イシュテンの王が複数の妃を持つのは、確かに古くからの倣いではある。だからその点を真っ向から退けることは難しい。だからファルカスは相手の非礼を指摘するに留め、本心だか言い訳だか分からない謝辞を受け取った。
そして無論、この程度で相手が引き下がるはずもない。マリカの名が出されることまで織り込んでいたかのように、男はにこやかな笑顔で身を乗り出した。
「マリカ様も母君がいらっしゃらないのではお寂しいでしょう。クリャースタ様も御子様方の養育でマリカ様にはなかなか御手が回らないでしょうし――やはり、王宮にはもっと人を増やすべきかと存じます」
「近頃はマリカも妹たちと仲良くしている。そなたの懸念は不要のものだ」
――この者は娘だか孫だか姪だかが乳母代わりで満足なのか……?
そんなはずはないだろうに、と。相手の真意を内心で推し量りながら、ファルカスはあくまでも本題には気付かない振りをした。側妃を新たに勧めてくる者の言い分には幾つかの種類があるが、母のいないマリカの後ろ盾に、というのもそのうちのひとつではあった。最初から王子を生む気で推すのはシャスティエとミハーイに対して角が立つから、体裁を整えようということなのだろう。ただし、それで王の傍に上がったとして、――あり得ないと言いたいが――万が一にも子を儲けたとして、その時にはマリカをどうするつもりだというのだろう。利用するだけ利用して捨てる恐れがある者に、大事な娘を預けようとは思わなかった。
「それは――陛下もさぞ安心されたことでございましょうな」
マリカが異母弟妹たちと仲が良い、と述べたのを信じていないのだろう。男は曖昧な笑みを浮かべて相槌を打った。苦しい言い訳を並べるものだ、とでも思っているのかもしれない。それを口に出して責めてこないあたりがリカードとの違いなのだろうが。
男の邪推と違って、マリカとフェリツィア、ミハーイの距離が縮まっているのは真実だ。これも、シャスティエが王宮を空けて良かったことのひとつに数えて良いだろう。姉の住まいを騒がせることを、母に厳しく禁じられていたフェリツィアが、その不在の隙を突いてマリカのもとを訪ねたのだという。無邪気な妹に強請られるまま、マリカは側妃の離宮にも招かれた。
執務室にてそのことを報された時、夜になって離宮に足を向け、子供たち全員に迎えられた時の、ファルカスの喜びと驚きは計り知れない。イリーナがマリカに聞かせたミーナとシャスティエの交流は、彼でさえも初めて知る話もあった。母の思い出話に聞き入るうち、マリカは泣き出してしまって――そして、そのまま寝入ってしまったのだが。それでさえ、姉弟が初めて揃って朝食の席を囲む機会に繋げることができたのだ。
「そう――だから、当面新しい側妃などいらぬぞ」
ミーナの死から三年、マリカはやっと立ち直ろうとしている。ここに来てまた環境が変わることになれば、娘はまた心を閉ざしてしまうかもしれない。王と諸侯の間の力関係ゆえに、この先絶対に、と断言することができないのは悔しかったが――少なくとも今は、誰が何と言おうと、ファルカスは意見を翻すつもりはなかった。
「陛下――」
相手が切り出す前に、先回りで断ったことで、彼の頑なさは伝わったはず。その上で、男も諦めたようには見えなかった。むしろ、子供の誤りを正す時の表情で、諌言めいたことを訴えてくる。ファルカスの目には、妙に芝居がかっても見えるのだが。
「イシュテンの臣下にとって、娘を王に差し出すのは忠誠の証。ティゼンハロム侯爵を憚って長らく忠誠を示すことができなかったこと、心苦しく思っておりました。今こそ、機会をいただけるものと切望しておりますのに」
「そなたらの忠誠は既に知っている。第一、そのリカードからして大逆を犯したのだ。側妃など人質の役には立たぬということだろう」
「ティゼンハロム侯爵と同列に扱われるなど心外の極みでございます……! しかも、状況はかつてとは違いましょう。既にミハーイ殿下がいらっしゃいますのに、敢えて国を乱すようなことはいたしません。ただ――そう、ミハーイ殿下も、競う相手がいた方が張り合いがあるだろうと愚考いたしまして」
「ふん……」
ファルカスも男も、お互いの言葉を心から信じてなどいないだろう。相手が気分を害したのは振り、または揺さぶりに過ぎないのだろうし、ファルカスも野心が時に忠誠に勝ることをよく知っている。たとえ王に背く気がないのが真実だとしても、自身に都合の良い王ならば、と但し書きがつくのだろう。仮にこの者の身内を側妃に立てることに成功して、その胎の王子にも恵まれたなら、我が孫の方が才覚に恵まれ云々と言い始めるに決まっているのだ。
それぞれ異なる母親、異なる後ろ盾を持つ王子たちが競い合うことこそ強いイシュテンのための伝統、と。王位に縁のない少年の頃からファルカスも聞かされてきた。しかし、兄弟同士による王位争いは、実のところイシュテンの力を弱める役にしか立たなかった。彼と兄弟たちが争う中で、どれほどの人命が失われたことか。男が言うのは、まさに愚考でしかなかった。
「陛下の武勇に憧れるのは若者ばかりではございません。是非とも間近にお目見えしてお言葉を賜りたいと、切望する娘も多いのでございますよ」
ファルカスが苦い記憶に浸る間をどう捉えたのか。男は笑みを深めると舌を滑らかに動かした。供した葡萄酒の酔いも手伝っているのか、一度会わせてしまえばさらに譲歩を引き出すのは簡単だとでも思っているのか。
とはいえ、ファルカスにとっては既に他の者と何度もしたやり取りだ。切り返し方も、相手に劣らず滑らかに紡ぐことができる。
「側妃候補となればクリャースタも同席するだろうが。あの者を前にして霞むことがない娘などいるのか? わざわざ推すからにはよほどの美貌なのか」
「それは――」
この問いかけに、迷わず頷いた者は今のところ現れていない。ミリアールトのイルレシュ伯の乱の対応に、広間に呼び出した時。側妃になってからの数々の宴席や儀式の場。シャスティエが着飾って人前に出た機会は多い。ミリアールトの雪の女王に喩えるのがなんら不遜ではない美しさも知れ渡っている。並の娘を下手な言葉で飾ったところで虚しいだけと、大方の者は承知している。
軽く頬を引き攣らせた男が気を取り直したように述べたのも、ファルカスの予想の内でしかなかった。
「……無論、見目ではクリャースタ様に及ぶべくもございませんが。優しく思い遣り深い娘でして、王子様王女様方にも、必ず気に入っていただけるものと存じます」
まるでシャスティエは冷たく思い遣りがない女であるかのような物言いに、ファルカスは苦笑を禁じ得ない。氷の彫像のような冷ややかさはごく表面だけ、怒りの激しさを見れば炎のようだとも思うし、子供たちを見る目の優しさと言ったら、春の日差しの温かさのほかに喩えようもないほどなのに。
さらに、この男の言葉は、彼のもう一人の妻への侮辱でもある。
「優しさや思い遣りならば、その娘は他の相手と競わなければならぬな」
「は……?」
「そのような美徳で言うならば、亡き王妃に勝る者に会ったことはない。俺の気を惹きたいのなら、もっと気の利いた売り込み方を考えるのが良いだろうな」
口をぽかんと開けた、間抜けな顔を晒した男を肴に、ファルカスは葡萄酒をひと息に飲み干した。とはいえ舌に感じる味は苦かったが。
彼のふたりの妻のいずれも、互いに劣らず優しく美しいのだ。それぞれが片方の美点しか持たないかのような言い方で、それも、新しい女を断るための口実として引き合いに出すのは夫として不実としか言いようがない。マリカのためを考えながら、未来永劫に渡って側妃を断り続けられる確証もない。王への忠誠や協力の見返りに、王家との繋がりを求める諸侯はこの先必ず出てくるだろうから。
今のところは、シャスティエには不要な雑音は聞かせていないが。側妃を新たに娶るなどと伝えることがあったなら、あの女は一体どんな顔をするだろう。
――きっと、子供たちさえ無事なら構わない、などと言うのだろうな。
そう思うと、酒の味は一層苦く感じられた。シャスティエの心を第一に占めるのはふたりの子供たち。彼との絆も、子供たちの両親としてのもの。嫉妬で理に合わないことを述べることなど、きっとないのだ。だが、妬いて欲しい止めて欲しいなどと考えることこそ傲慢の極み、妻に想われていると確かめたいという歪んだ願望でしかないのだろう。
今度こそ妻を幸せにしたいと望んでいるのは真実のはずなのに、王の権も何らその役に立たないとは。リカードを降してなお、ファルカスが自身の無力を噛み締める場面はあまりにも多かった。
シャスティエの里帰りの話のはずが、他キャラ視点が続いてしまいました。次回こそミリアールトが舞台になるはずです。




