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11 幼い騎士 ラヨシュ

 ラヨシュは母が王女の髪を編んでいくのをうっとりとして見つめていた。離れて暮らす日々が長かったから、母が働く姿を見るのが新鮮で嬉しくてならないのだ。


「エルジー、まだあ?」

「もう少しですよ。お利口になさってくださいませね?」

「今動いたら台無しよ。ね、これを食べてるうちに終わるから」

「はあい」


 飽き始めた様子の王女に、王妃が焼き菓子を手渡して気を逸らす。その間に、母は編んだ髪の房を――転んでも刺さることがないように――先の丸いピンで冠のように王女の頭に巻きつける。菓子を齧りながら、時折くすぐったそうに笑い声を上げる王女は寛ぎきって母たちに甘えているようだった。


 ――母様は、すごい……。


 王宮で王妃に仕えている母は、ずっと彼の誇りだった。だからこそたまにしか会えなくても耐えることができたし、母に恥じることがないように勉学にも武術にも励もうと思っていた。けれどこんなにも王妃に信頼され、王女にまで懐かれているとは思ってもみなかった。

 王宮に引き取られ、すぐ近くで寝起きするようになってからも期待したほど母と過ごす時間が増えた訳ではなかったが――このように大事な務めがあるならそれも仕方ないことと思えた。


「さ、出来上がりましたよ」

「ありがとう、エルジー! ラヨシュ、どう?」


 掛けていた椅子から跳ねるように跳び降りると、王女は彼の目の前でくるりと回った。菓子の甘い香りが鼻をくすぐり、何かむずがゆいような気分になる。それとも王女のあまりの愛らしさのためだろうか。どうにも落ち着かなくて言葉が喉につかえてしまう。


「とても、お可愛らしいです」


 どもりながら答えると、王女は嬉しそうに頬を両手で挟んで笑う。その声も仕草も無邪気そのもので親しみやすくて、高貴な姫君なのだと構える気持ちも溶けていく。


「ありがとう、ラヨシュ」


 娘に代わって礼を述べたのは王妃で――この方もとても優しく美しい。乳姉妹である母だけならまだしも、その息子で低い身分に過ぎないラヨシュにさえ親しく声を掛けてくれる。大した役にも立てない子供だというのに分不相応なことだと思う。

 侯爵家の恩に報いよ、身命を惜しむな、と。母には常々言い聞かされているが、例えそうでなくてもこの母娘のためなら彼は何でもできるだろう。


「子犬の様子を見に行きたいの。お母様、行きましょう?」

「外は寒いわ。止めておきなさい」

「嫌! あの子私を忘れちゃう!」

「マリカ……」


 王女が頬を膨らませ、王妃が眉を寄せた時――だから彼はごく自然に口を挟んだ。


「私でよければ、お供します」

「ラヨシュ? 良いの?」


 王妃の声がわずかに明るくなる。が、眉は以前寄せられたままだ。美しく高貴な人に笑ってもらえるよう、彼は懸命に訴える。王妃様のために、と思うと舌は先ほどよりも滑らかに回った。


「はい。王女様には狐の襟巻きをしていただいて……お風邪を召されることのないように、遅くならないようにいたしますから」

「そうなの、でも……」


 王妃は困惑顔で母の方を向いた。子供だけで行かせてしまっても良いものか、と気にしているようだった。しかし彼は母の答えを知っている。


「息子は弁えておりますわ。任せてやってくださいませ」


 母に信頼されていることを確かめて、彼の胸は誇らしさに弾む。遊び相手というだけに留まらず、王女を守れるようになるように、と。それこそが彼が呼ばれた理由、母に求められた理由なのだから。


「では……マリカ、ラヨシュを困らせてはダメよ? 冷える前に帰るのよ?」

「分かってるわ!」


 外出を許された王女は満面の笑みで頷いて。母も王妃もほっとしたように笑う。それを見て、ラヨシュも安堵しつつ王女様をお守りするのだと気を引き締めた。




「ラヨシュ、手を繋いで!」


 戸外に出て母たちの目がなくなるとすぐに、王女は小さな手を差し出した。遥かに高い身分の人、それも幼いとはいえ姫君だ。馴れ馴れしすぎるのではないかと一瞬ためらうが――


「はい、マリカ様」


 言われるがまま、細い手指をしっかりと握った。すると王女は嬉しそうに笑い、彼を先導して犬舎へと駆け出した。


 朗らかなようで、この少女が周囲の不安を敏感に悟っていることは彼にも見えている。父王の不在、いなくなった人質の姫、ため息ばかりの母。王妃が娘の遠出を嫌がったのは、寒さばかりが理由ではないだろう。寡妃太后による毒殺未遂事件の記憶もまだ新しいのだ。幼い娘を危険に晒すのではないかと恐ろしいのだろう。


『ミーナ様たちが憂いなくお過ごしになれるように。私たちは心を砕かなければなりません』


 もちろん母にもそれは分かっている。だから彼にそう繰り返していた。王妃と王女のために仕えられるということ、母が私たち、と彼を仲間に数えてくれたこと。いずれも彼にとってはこの上ない名誉であり喜びだ。


 ――母様の期待に応えなくては……。


 母が微笑んでくれるところを夢見ながら、ラヨシュは雪の積もった中を進んだ。




 王女の心配とは違って、子犬は飼い主になるはずの少女を見て千切れんばかりに尻尾を振った。身体は成犬のように大きくなっているが、顔つきや四肢には丸っこさが残っていてまだ幼いのだと分かる。


「賢い子ですね、ご主人がちゃんと分かるようです」

「それはもう、しっかりと躾ておりますから。決して王女様を傷つけることがないように」


 感心すると、猟犬係は我がことのように胸を張った。猟犬を育てるのに生涯を捧げている男だということだから、事実我が子を褒められたようなものなのだろうか。


「ねえ、まだもらっちゃダメなの? お母様にも見てもらいたいのに」

「そうですね……まだ躾は全て終わっておりません。春にはお渡しできるかと思いますが」

「その頃にはお父様もお戻りかしら」


 犬に手を舐められてくすぐったそうにしながら、王女は猟犬係を見上げる。問われた男は答えに窮したのだろう、ラヨシュを見下ろす。遥かミリアールトの状況など、彼らには知る術がないのだ。助けを求められたところでラヨシュにも答える言葉はない。


「はい。きっとご無事で王妃様と王女様のところへお戻りになります!」


 それでも、母の言葉を思い出して努めて明るい声を上げると、王女の顔も輝いた。冬の雲の間から太陽が覗くような暖かな笑顔だった。


「そうかなあ?」

「そうです!」


 ――あの女性も戻るのだろうか……。


 王女の笑顔の一方で、一度だけ会った金の髪の姫を思い出して彼の胸には影が差した。王が無事に戻るならあの人も無事な可能性が高いのだろうか。彼の幼い目で見破ることはできなかったが、母によると王妃を脅かす悪い人なのだという。


 ――あの人が成功すれば陛下は無事に戻られる。でも、そうすると王妃様の敵になる……。


 もしあの人が側妃になれば、王妃から王を奪おうとするだろう。更にもし懐妊するようなら、王女の立場さえ揺らがせるかもしれない。

 そうするとあの人は死んだ方が良い……のだろうか。綺麗で優しい人に見えたけれど。でも、母はそれも偽りだというのだけれど。


「お父様がお戻りになる前にこの子に来て欲しいわ」


 王女はラヨシュの迷いなど知らない。無邪気に犬の毛並みを撫でている。猟犬係も、その様子に気を緩めたようで軽い口調で返す。


「子犬の方が可愛らしいですからね」

「違うの、お母様をお守りするの! お父様がいない間も!」


 唇を尖らせた王女の表情は、ラヨシュにも覚えがあるものだった。子供扱いに憤り、役目を与えられることを望む――きっと彼も王女と同じ思いを抱えているから。


「マリカ様が、お母様をお守りしたいのですね」

「そう! 本当は剣も教えてもらいたいのに……」


 ――この方はどうして王女なのだろう。


 跪いて覗き込んだ青灰の瞳は力強く澄んでいる。何度か拝謁した王の瞳にそっくりだ。

 母を思いやる優しさも、守ろうとする強さも。この子が王子だったなら賞賛されるはずなのに、女だからというだけで臣下の誰にもその気質が知られることは決してないのだ。


「でも、それならマリカ様ご自身はどうなさるのですか」

「私は……平気だもの。それよりお母様が……」

「私がお守りします。王妃様もマリカ様も。陛下がいらっしゃらない時でも、必ず」


 幼くも愛らしい唇が息を呑んで、瞳が大きく見開かれる。それを見てラヨシュは確信する。母のことを案じるのは本当でも、王女自身も不安でたまらなかったのだろう。必ず守ると言われるのは、きっとこの子の安らぎになるはず。


「……本当?」

「はい、何があってもお傍にお仕えいたします」


 イシュテンでは女に仕えるという意識を持つ男はいない。自身や主君の妻子には敬意を払うし守るべき対象だという認識はあるが、あくまでも女とは弱く男に劣るものなのだ。

 だが、この王女は忠誠の対象に足るとラヨシュは思った。単に身分が高いからということではない、心のあり方が誇り高く強く、それでいて優しい。だから守りたいと思うと同時に膝を折って崇めたくなる。


 この国においては非常に珍しい生き方ではあるが――ラヨシュは、王女の騎士になろうと心に決めた。

 母に決められたからというだけではない、彼の進む道。それは、今日のこの日に定まったのだ。

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