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新人OL奮闘記 後編

いよいよ新婚家庭に潜入。

あとがきにおまけ小話あり。

 年が明け、今年一発目の企画が通ったある日。


「二人ともよくやった。森口はもちろんだが、稲川さんのサポートもしっかりできていた」

「ありがとうございます、鮫島部長」

「ありがとうございます!!」


 鮫島部長と森口先輩と三人で取引先から会社に戻る途中、部長に褒められちゃった。まだまだ未熟者だけど、今仕事が楽しくてしょうがない。森口先輩の鬼悪魔なスパルタ教育も、結果的にわたしの技量を鍛えに鍛えたものでした。


「今日の仕事終わり、飯でもどうだ?」

「えっ!?」


 突然の部長の提案は、まさかのものでした。


「一段落ついたし、二人ともよく頑張ってくれたから。打ち上げの意味も込めて。どうだ、森口」

「喜んで」

「稲川さんは?」

「もちろん、お供します!」


 すっごい嬉しい! 部長とご飯をご一緒できるなんて感激!!


「店はそうだな……。稲川さん、何か食べたいものの希望はある?」

「希望ですか?」

「そう。ご褒美だと思って決めていいよ」


 うーん、和食、中華、洋食……。どれも捨てがたい。

 ここで、ふとひらめいた。恐る恐るそれを口にする。


「あの、部長。食事の希望ってわけではないんですけど……」

「ああ、言ってみて」

「わたし、部長の奥さんにお目にかかりたいです!」

「えっ!?」


 驚く部長と先輩。わたしは説明する。


「課の皆さんは部長の奥さんと面識があるのに、わたしだけないのはズルいなぁっていうか、羨ましいなって」

「何言ってるの、稲川さん。部長を困らせないでくれる?」


 先輩が呆れたように言うけど、だって会いたいものは会いたいし。


「うーん、そうか……。そうだな、森口が一緒だしな……」


 部長はブツブツ言いながら考え込んでいる。しばしの沈黙を破り、部長が口を開いた。


「一度、妻に訊いてみてもいいか?」

「はい、それはもちろん」

「じゃあ訊いてみるから」


 そう言って部長はわたしたちから少し距離を取り、奥さんに電話をし始めた。

 その間、森口先輩から意味ありげな視線を向けられた。


「……何ですか?」

「べっつにー」


 何かムカつく言い方。妙に不機嫌になった先輩とはそこから全く会話が弾まず、その場に沈黙が落ちる。少しして部長が戻ってきた。


「大丈夫みたいだから、今日は七時までに仕事を終わらせてくれ」

「はい、ありがとうございます!」


 やった~! やっと部長の奥さんに会える!!

 さぁ、仕事がんばるぞ!!







 そして七時過ぎ。仕事を終え、部長と森口先輩とともに会社を出た。


「部長。厚かましいお願いをしてしまい、すみません……」


 あの後、散々先輩からチクチク嫌味を言われ、落ち込みました。とにかく部長に一言謝ります。でも部長は笑って首を振った。


「いや。他のメンバーも何度かうちに連れて行ったことがあるし。森口はよく来るしな」

「そうなんですか?」

「……まぁね」


 何だよ。先輩しょっちゅう部長のお宅にお邪魔してるのに、わたしには小言って矛盾してない??


 腑に落ちないまま電車に乗り、駅から歩いて五分。会社から三十分ぐらいのところにある綺麗なマンションが部長のお宅でした。

 エレベーターで十階に上がり、玄関の前で部長が立ち止る。


「うち、ここだから」


 そう言ってチャイムを鳴らす。

 ほほう、鍵を持っているのに、やはりチャイムを鳴らすんだ。

 何だか緊張してきた。奥さん、どんな感じだろう。ドキドキ……。

 するとすぐにドアが開き、明るい声が耳に入ってきた。


「慎也さん、おかえりなさい!」

「ただいま。部下を連れて来たよ」


 ななっ!! 部長の口調がすっごく優しげに変わったぞ。会社では時と場合によるけど少し厳しめな感じなのに。やはり奥さんには違うんだ……。

 妙にドキドキしつつ緊張していると、部長の言葉でドアから顔を出した小柄で同年代の女性。かわいらしくて、明るい印象を覚えた。


「いらっしゃいませ。お待ちしてました」


 ニッコリ笑う奥さんに先輩がぺこりと頭を下げた。


「またお邪魔します」


 それに習い、わたしは慌てて頭を下げた。


「は、はじめまして。稲川都です。突然お伺いして申し訳ありません。いつも部長にはお世話になってます!」


 一気にそう言い切ると、奥さんは優しい笑みを浮かべて頭を下げた。


「はじめまして。ラナです。どうぞ、おあがりください」

「お邪魔します」


 少しホッとした。家に行きたいなんて言っちゃったから、迷惑がられるかなとも思ったけど、歓迎してくれたみたい。まぁ内心どう思っているかはわからないけど。


 廊下を奥へ進むとドアがあり、中に入ってすぐがキッチンとダイニング。そしてそのさらに奥がリビングだった。

 ダイニングのテーブルにはIHコンロが置いてあり、その上には大きな土鍋がある。


「今日は寒かったから、お鍋ですよ~」

「そう、楽しみだ。二人とも、そこに座って楽にして」 

「はい」


 キョロキョロしながらリビングに背に、椅子に座る。

 すごく綺麗にしてる。フローリングもピカピカだし、インテリアも落ち着いた雰囲気。窓の側の観葉植物が青々としている。

 身体を捻ってリビングをジロジロ見ていると、隣に座った先輩が小声で注意してきた。


「人の家をジロジロ見ないの」

「だって興味あるじゃないですか。部長の愛の巣」


 小声でそう返すと、呆れ顔を向けられた。


「恥さらしにならない程度にしなよ」


 むむっ。いちいち棘があるな。さすが鬼悪魔。

 ところがそんなことを言ったくせに、急に頭を掴まれて、キッチンと逆方向のリビングの方へ無理矢理顔を向けられた。


「痛いっ! 先輩、いきなり何なんですか!」

「あれ見てよ。あの観葉植物」


 はぁ? 観葉植物?


「えー……。あれが何ですか?」

「あれってさ、どういう種類なんだろうな」

「知らないですよ。先輩、植物好きなんですか?」


 先輩の顔を一瞥するが、チラチラキッチンの方を見ているようだ。


「先輩? キッチンに何か……イテッ!」

「ほら、よーく目を凝らして見てみなよ。もしかしたら貴重な種類かも」

「そんなの見てもわからないですよ……」


 先輩、変なの。なーんか隠してるっぽいんだよな。キッチンを見させないようにしているところが怪しい。

 訝しがっていると、ここでキッチンからラナさんの声がかかる。


「森口さん、稲川さん。ビールでいいですか? それとも日本酒?」


 その言葉でようやく先輩の手が離れる。もう、首が痛い……。


「あ、ビールでお願いします」

「わたしもビールで大丈夫です」

「はーい」


 どうやら部長はラナさんを手伝っているみたい。優しい旦那さんなんだ、部長って。カッコイイし、優しいし。完璧すぎるっ!


「ラナ、これは?」

「あ、それは小鉢に入れます」

「また料理の腕上げた? ちょっと味見してもいい?」

「駄目です。もうすぐ食べられるから、おあずけですっ」

「……まぁ、他のをさっき味見したから、これは後でいいけど」

「……もう」


 いいな~。何だか超ラブラブ~。わたしもあんな新婚生活、送りた~い。


 それからダイニングに来た部長にコップを渡され、ビールを注いでもらった。少し恐縮してしまう。本来ならわたしがお酌するべきなのに。

 準備が済んだようで、わたしの正面にラナさん、その隣に部長が座る。


「そろそろ食べごろかな~」


 ラナさんがそう言いながら、土鍋の蓋を開ける。蒸気で視界が一瞬白くなった後、いい匂いがわたしのお腹をぐぅっと鳴らす。


「わぁ、おいしそう」


 思わず呟くと、ラナさんが言った。


「たくさんあるんで、遠慮しないでくださいね」

「ありがとうございます!!」


 わたし、本当に遠慮しませんからね。


「で、今日は何鍋?」

「ひろみ先生から教わった最新作ですよ。鶏がらから取ったスープがベースです」


 部長の問いに答えたラナさん。その言葉に驚いた。


「え、鶏がらからスープ取ったんですか??」


 凝ってる……。もしかしてラナさん、お料理プロ級!?

 すると彼女は苦笑しながら首を横に振った。


「あ、わたしが取ったんじゃなくて、通ってる料理教室の先生が取ったんです。それをおすそ分けしてもらって」


 すごい。わたしなんて味噌汁でもインスタントだよ。やっぱり料理、できたほうがいいのかなぁ……。

 器によそった具材に、もうよだれが垂れそう。


「いただきます」


 まずは白菜を頬張る。う~ん、蕩ける。鶏の出汁がしみ込んで、めちゃくちゃおいしい。 


「おいしいです。こんなおいしいお鍋食べたの、はじめてです」


 お世辞じゃないです。鍋つゆの素よりすっごくおいしい。

 そう言うと、ラナさんは嬉しそうに笑った。


「よかった。どんどん食べてくださいね」

「はい!」


 お言葉に甘えて、ガツガツいただきました。小鉢に入っている煮物も味が染みて、すごくおいしい。煮物食べるの、久々かも。一人暮らしじゃ煮物なんてなかなか作らない……というか、作れない。


 食事が進み、先輩は部長と今日の仕事について話している。その間、わたしはラナさんとお話していた。


「稲川さんは新人さんですか?」

「はい。まだまだ新人で、未熟者です」

「会社でのお仕事って大変そうですよね。わたしは接客業なんで、オフィスワークってちょっとだけ憧れます」


 へー、接客業なんだぁ。でもラナさん笑顔が素敵だから、接客業ピッタリな感じがする。


「わたしはついていくだけでいっぱいいっぱいなんで。でも部長や森口先輩は仕事が早くて尊敬しちゃいます。当たり前なんですけどね」

「慎也さんって、仕事中はどんな感じなんですか?」

「厳しいですけど、些細なことでもちゃんと気にかけてくれます。それに怒られる相手はいつも森口先輩なんで」


 チラッと先輩に視線を送りつつそう言うと、ラナさんは意外そうな顔をした。


「そうなんですか。そういえば森口さんの下につくと長続きしないって聞いたことがあるんですけど、稲川さんは大丈夫みたいですね」

「……え?」


 何その話。わたし知らない……。

 呆然としていると、部長が話に入ってきた。


「別に森口が悪いわけじゃない。山本が辞めた後に異動してきた女子社員がことごとく仕事をしなかったからだ。教育係だった森口が厳しくするのは当然だろ?」

「そうですよ。僕がいじめたみたいに言わないでくださいよ」

「ご、ごめんなさい」


 しゅんとして先輩に謝るラナさん。部長がさらに続けた。


「でも稲川さんはよくやっているよ。この森口に喰らいついて、がむしゃらに頑張っている」

「部長……」


 ほ、褒められた……! 憧れの部長に褒められた。嬉しい!

 でも水を差すように先輩が言う。


「あれぐらいやって当然です。前の女たちが異常なんですよ。部長に色目使って、何が『わたしこんなことできませ~ん』だよ。だったら辞めちまえ!」


 先輩、お酒が入っているからか、そのときのことを思いだしたのか、若干口調が荒い。

 先輩の言葉に、ラナさんが「ふーん」と何やら納得したような顔。


「慎也さんはモテますからね~。無駄に色気振り撒くし」

「振り撒いてないから」

「振り撒いてるじゃないですか。ね、稲川さん」

「振り撒いてないよな? 稲川さん」

「えっと……」


 困る。わたしに振らないでよ。というか、部長は色気振り撒いてるし。わたしもそれにやられかけたし。でもそんなこと言えない。


「わ、わかりません」


 苦し紛れにそう答える。すると先輩がバッサリ切った。


「稲川さんみたいなお子ちゃまには、部長の色気なんてわかりませんよ」

「お子ちゃまって何ですか!!」

「そうやってムキになるところを言ってんの。淑女には程遠いね」


 ムキーッ!! 酷いよ、この鬼悪魔め。


 一瞬不機嫌になったもののそれからまた違う話で盛り上がり、そんなこんなで鍋をあっという間に平らげ、シメの雑炊までおいしくいただきました。

 ふぅ、満足。


「ごちそうさまでした。とてもおいしくって大満足です」


 わたしの感想に、ラナさんは表情を綻ばせた。


「よかったです。喜んでもらえて」


 いやぁ、勇気を出して部長に言ってよかったな。ラナさんに会えたし、会社よりも甘々な部長も見れたし。いろんな意味でごちそうさまです。






 そしてお暇するとき、玄関先にて。


「今日はありがとうございました」

「いえいえ。また来てくださいね。あ、そうそう。これ、よかったら食べてください」


 そう言って、ラナさんはわたしと先輩に小さな紙袋を手渡した。


「マフィンなんですけど、お口に合うかどうかはわかりませんが」

「いいんですか? ありがとうございます!!」


 あれだけ料理上手なラナさんだもん。お菓子だってきっとおいしいはず。

 すると少し表情を強張らせた部長が、先輩に小声で言った。


「……森口、わかっているな?」

「……はい」


 ……何だろう??

 よくわからないまま、部長のお宅訪問は終わりを告げた。






 駅に向かって歩いていると、先輩が唐突に言った。


「稲川さん。もらったお菓子、食べないでね」

「え、何でですか? 嫌ですよ」

「食べるなって言ってるの」

「せっかく貰ったのに、失礼じゃないですか」

「口答えしない」


 横暴だよ、この鬼悪魔。


「……はい」


 へへーんだ。そう言っておいて、家に帰ってから食べちゃうもんね~。


「先輩、部長のお宅によく行くって言ってましたけど、他の皆さんはそうでもないんですか?」


 ふと気になった問いを投げかける。すると先輩が面倒そうな顔をしながらも答えてくれた。


「まぁね。他の人は本当にたまにだな。あ、でも渡辺さんは当分出入り禁止になったかな」

「何でですか?」

「ラナさんに余計な知識を吹き込むから」

「あー……」


 妙に納得してしまった。あれはわたしも驚いた。


「でも渡辺さんは『そういうプレイですね。萌えます』って言って喜んでいたからな」

「そう、ですか……」


 もう、何も言うまい……。


「そういえば山本さんっていう人のあとに配属された人たち、そんなに酷かったんですか?」

「酷いよ。散々迷惑かけられたからね。もうあの手の女子は山本で懲り懲りだったから、女子社員が配属されたら僕が教育係になることになっているんだ。僕の毒舌なんかに耐えられない腑抜けなんて、いない方がマシだから」

「そうなんですか……」


 おお、結構キツイですね。それだけ大変だったってことなんだろうな。先輩、白髪増えそう。


「うちの部署で長続きする女子は、部長に色目を使わないことが条件だから。岬は年下好みだし、中野さんは彼氏いるし、渡辺さんは……変態だけど、部長に興味がないみたいだし」

「へぇ……」


 納得していると、先輩が急にくそ真面目な顔つきになった。


「正直言ってあんたも山本みたいな女たちと一緒だって思っていた。部長のこと、好きだったんだろう?」


 その指摘に驚く。まさか先輩にバレてるとは思わなかった。


「えっと……確かに憧れてはいました。でも今は上司として尊敬してるだけです」


 この言葉に嘘はない。あと目の保養的な意味だけ。


「そうみたいだね。すぐに音を上げて異動願いを出すかと思っていたけど……よくやってるよ」


 め、珍し過ぎる。あの鬼悪魔な森口先輩がわたしを褒めたよ。


「……明日は嵐ですかね?」


 ペロッと口が滑りました。すると寒気のするような冷笑を浮かべた鬼悪魔。


「へぇ……せっかく珍しく褒めたのに、その言い草……。稲川さんは褒められるより、いびられたいドMさんなんだね……。よーく覚えておくよ」

「じ、じ、じ、冗談ですよ。あはははは~」


 ヤバイ。冷や汗が止まらない。風邪ひいちゃうよ~。

 わざとらしく笑うわたしを一瞥し、先輩は「まぁいい」と呟く。


「とにかく、これからも調子に乗らず、そして僕に迷惑をかけないように頑張って」

「はい」


 これ、セーフだよね? セーフ!


 駅に着き、そこで先輩と別れた。


 先輩ってギャップあり過ぎだよな~。悪い意味で。

 でも熱心に教えてくれるし、口は悪いけど間違ったことは言わないし。

 わたし、いい職場に恵まれたな。明日からまた頑張ろっと。








 帰宅し、お風呂に入った後、いよいよお楽しみのマフィン~。太っちゃいそうだけど、もう我慢できない。

 紙袋を開けると、ファンシーなビニール袋に入れられた、おいしそうなマフィン。紅茶を入れ、こたつに潜り込む。


「いっただきま~す!」


 大口を開けて、ガブリと一口。モグモグ咀嚼し――――


「…………うっ、」


 無我夢中で洗面所へ直行。


 ……何、この言い表せない味。あんな料理上手なのに、お菓子はこれなの!?


 吐き出したはずなのに、それからずっと気持ち悪い。トイレに頻繁に通うはめになり、結局一睡もできませんでした。






 翌日。


「……おはよう、ございます……」


 げっそりとして出社したわたしを見て、先輩は呆れたようにため息をついた。


「人の忠告を聞かないからこんなことになるんだよ。本当にドMなわけ?」

「ううっ」


 反論できません……。素直に忠告を聞いておけばよかった。というか、はっきり食べちゃ駄目な理由を言って欲しかったよ!


 すると私たちのやり取りを聞いていたのか、渡辺さんが目をキラキラさせて寄って来た。


「ねえねえ、今、面白そうな話をしてなかった??」

「いえ、してません……」


 渡辺さん、ドMに反応しないでください。






 わたしは学習した。

 森口先輩は鬼悪魔だけど、間違ったことは言わない。

 仕事に厳しい部長は、家では奥さんに甘い。

 ラナさんは料理上手だけど、お菓子作りは殺人的に下手。

 渡辺さんの変態センサーは異様に鋭い。


 新人OL、都の奮闘はまだまだ続く……かも。




 おまけ小話その1 「上下に挟まれた彼の気苦労」



「じゃあ先輩、お疲れ様でした」

「うん。気をつけて帰りなよ」


 駅で後輩の稲川と別れ、森口はやっと肩の荷が下りたように安堵した。


「はぁ……無駄に疲れた」


 それから電車に乗り込み、吊革に捉まり、寄り掛かる。彼は精神的にぐったりとしていた。

 よりによって部長に憧れている彼女を、彼の新婚家庭に連れて行く羽目になるなんて……。全く、面倒なことをしてくれたものだ。


 森口は何度か鮫島の家に呼ばれている。楽しいし、仕事の話もゆっくりできるし、鮫島の妻の手料理もうまい。だが、自分一人ならまだしも今日は稲川が一緒の分、いつも以上に疲労度が大きい。


 なぜならあの夫婦は、所構わずいちゃついているからに他なかった。




 ※※※




 鮫島家に入り、ダイニングの椅子に腰かけたとき。稲川がキョロキョロしていたので窘めた。


「人の家をジロジロ見ないの」

「だって興味あるじゃないですか。部長の愛の巣」

「恥さらしにならない程度にしなよ」


 呆れながらそう言った途端、森口の目にとんでもない光景が飛び込んでいた。

 鮫島が妻のラナの腰に腕を回し、彼女の耳に唇を寄せて何かを言っていた。

 森口はギョッとして、慌てて稲川の頭を鷲掴みにしてリビングの方へ顔を向けさせた。


「痛いっ! 先輩、いきなり何なんですか!」


 当然のごとく稲川から抗議があるが、そ知らぬふりをしてリビングを指差す。


「あれ見てよ。あの観葉植物」

「えー……。あれが何ですか?」


 訝しげな表情の稲川。真っ当な反応なのだが、彼女の視線をキッチンに向けさせるわけにはいかない。彼女は鮫島に好意を持っているはずなのだから。


「あれってさ、どういう種類なんだろうな」

「知らないですよ。先輩、植物好きなんですか?」


 チラチラとキッチンの方を見て確認している森口を見て、稲川が不思議そうに首を動かし始めた。


「先輩? キッチンに何か……イテッ!」


 再び頭をリビングへ向けさせる。今、キッチンは絶対に見せられない。なぜなら二人は熱いキスの真っ最中なのだから。

 森口はまるで子供に言い聞かせるように、稲川の視線をキッチンから逸らす努力を続けた。


「ほら、よーく目を凝らして見てみなよ。もしかしたら貴重な種類かも」

「そんなの見てもわからないですよ……」


 森口本人も、観葉植物のことなど全く知らない。だが、耐えるしかない。

 彼の努力は実を結び、ようやくキッチンのバカップルは落ち着いたようだ。


「森口さん、稲川さん。ビールでいいですか? それとも日本酒?」


 ラナの問いかけに安堵し、森口は稲川の頭を解放した。




※※※




「二人きりのときにいちゃつけっつーの」


 真っ暗な窓の外をぼんやり見ながら、森口は思わずぼやいた。





 おまけ小話その2 「そのときのバカ夫婦」



 キッチンにて。


「悪かったね。急に連れて来て」

「いいですよ。もともとお鍋にするつもりだったし」

「ところでラナ、何か忘れてない?」

「えー? 何か入れ忘れたもの、ありましたっけ?」


 するとラナの腰に腕を回す鮫島。彼女の耳元に唇を寄せ、囁く。


「ただいまのキス、まだだよね?」

「っ、何言ってるんですか。そんなのナシです。お客さんがいるんだから」

「いても見てないよ。森口は心得ている」

「でも、稲川さんが……」

「森口が何とかする」

「駄目で……」


 最後まで否定の言葉を言わせず、鮫島はラナの唇を塞ぐ。


「んっ……」


 じっくりと唇を堪能した後、鮫島は解放したラナの額に口づける。


「続きは二人が帰ってからね」

「……慎也さんのバカ」


 少し頬を赤く染めた妻に、鮫島は小さく笑いかけた。




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