人形さん
『お待ちください、お嬢様!』
人形の声から耳を塞いで奥に走る。
長い廊下は、十分走れるくらいには広い。
少し小学生時代を思い出す。
友達と追いかけっこをした記憶が蘇ってきた。
おあつらえ向きに追いかけてくる鬼役もいることだし。
『ここはグリム様のお屋敷。勝手に入っていい場所ではありません!』
そんなの知らない。というかグリム様って誰だ。
こんな森の中に住んで童話でも書いてるんだろうか。
『いけません、お嬢様――』
夢の中はいつだって自由だ。
空を飛んでもいい、子供に戻ってもいい、ちょっと位なら悪い事だって。
現実はあんなに厳しくて理不尽なのだ。夢の中くらい優しくてもいいと思う。
というか夢まで厳しかったら心が折れそうだ。
「あっはははははは」
『お嬢様――』
人形から逃げるように屋敷の中を駆け回る。
広いダンスホールのような所。
絵画が沢山飾られている場所。
本で埋め尽くされている場所。
そして、今いる所は遊戯室らしき場所だ。
ここは映画の中でしか見ないようなものがいっぱいでとても楽しい。
何があるかわからなくて、びっくり箱みたいだ。
夢の中でこんなものを生み出せるなんて、僕の想像力も捨てたもんじゃないと思う。
「これ、なにに使うんだろう」
ふと、遊戯室の片隅、大き目の石版に目を引かれた。
桝目のような模様が書かれていて、将棋や囲碁が連想できる形をしている。
『お嬢様、困ります』
「う、もう追いついてきたの?
今ちょっとこれを調べるのに忙しいのに……」
駒みたいなのがないか、探しているところだった。
どこかに収納されているのか、ぱっと見では見つからない。
『そちらですか?その石版はポートと呼ばれる遊戯に使われるものです。珍しいものなのであまり見ないかもしれません。駒はそちらの戸棚に収納されています』
……え、教えてくれるんだ……。
この人形思ったより優しい……。
「どうやって遊ぶの?」
『これはですね……』
……
……
……
しばらく遊び、遊戯室を出る。
ちょっとおなかが空いてきたかもしれない。
「確かキッチンがあったよね」
『お嬢様、いけません。それは窃盗ですよ』
小言を聞き流し、キッチンに入る。
とりあえず戸棚をあさってみた。
「あ、ケーキがある」
『お嬢様……』
見た目はパウンドケーキみたいなやつだ。
ちょっとちぎって口に入れてみた。
「……! 美味しい……!」
バターの味が濃厚でいくらでも食べられそうだ。それに口の中でとろける。
今まで食べたどのパウンドケーキより美味しい。
……あー、でもちょっと口の中がパサパサするかも。
「人形さん、紅茶かコーヒーない?」
『……』
呆れた雰囲気を出しつつ、人形さんは紅茶を淹れてくれた。
この人形さん、本当に優しいなあ……。
最初、夢のくせにとか思ってごめん。
……
……
「ごちそうさまー。美味しかったよ」
『それはよかった。しかしお嬢様、流石にこれ以上長居されると困ります』
あーはいはい。
それにしても、おなかがいっぱいになったから眠くなってきたなー。
立ち上がり、さっき見つけた客間らしき場所へ向かう。
この屋敷の構造はもう大体理解した。
客間っぽい部屋の中でも一番広かった所に入る。
「天蓋付きのベッドなんて初めて見た」
高い天井に複雑な模様の絨毯。
ベッドは細かい飾りの付いた天蓋つきで、いかにも高そうな感じだ。
靴を脱ぎ、ベッドに潜り込む。
いい生地を使っているのか、とても寝心地がいい。
「おやすみー」
『お嬢様……』
人形さんに見守られながら布団を被る。
夢の中で眠るというのも不思議な話だが、そういうこともあるんだろう。
……ああ、でもこれ多分、眠ったら現実で目を覚ましちゃうよね……。
楽しかった夢もこれまでか。
最初はなんだこれと思ったけれど、人形さんが登場してからは文句なしに楽しかった。
これほどはしゃぐのも久しぶりだし、いい気分転換になったと思う。
「あー、目なんて覚めないといいのに……」
夢と現実との差にげんなりする。
ちょっと悲しい気分になりながら目を閉じた。
◆
「この子は…………な……」
『もう……あり…せん』
……?
どこかから、声がする。
眠気が急速に薄れていくのを感じた。
「どこか……来たのか……」
『彼女は……も言って…………せんでした』
いつもの目覚まし時計の音とは違う。人の声だ。
あれ、昨日は会社で寝たんだっけ?
「…………?」
うっすらと目を開ける。
近くにいるのは誰だろう。あの上司じゃなかったらいいんだけど。
「…………?…………!?」
え?人形さん?
目を開けると、そこにはあの人形さんの姿があった。
そしてもう一人、見覚えがない男性の姿もある。
……あれ、もしかしてまだ目を覚ましてない?
視界の端にベッドの天蓋が見える。
細やかな彫刻が光を反射して、まるで光っているように見えた。




