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花畑


 日々、足が重くなっているのを感じる。

 まるで足に重りをつけられているように、水の中を歩いているように。


「……はー」


 大きく吐いた息が、白く染まった。

 道を照らす街灯の光がそれに一瞬反射されて、消える。 


「……」


 会社から帰れることが嬉しいことではなくなったのは、いったい何時からだっただろう。

 帰宅途中の胸の中。そこを占めるのが仕事が終わった喜びではなく、またすぐにやってくる仕事への諦観にすり替わったのは。


 終わらない仕事。当然のように強要されるサービス残業。

 休みを最後に取ったのは何ヶ月前のことだったか。


「……つかれた」


 思わず口から出た声は、深く、重いものだった。

 

 ……すっかり独り言が多くなったな、なんて思う。

 もっと前、学生だった頃は違った。足もこんなに重くなくて、帰り道はもっと楽しくて、こんな愚痴っぽい独り言なんて言わなかった。


 変わってしまったのだ。

 駄目な方に。


 あの頃の僕には、今の僕なんて見ていられないだろう。

 楽しくて順風満帆の未来、なんて想像できるほど明るい性格じゃないけれど、こんな未来なんて考えたこともなかった。


 就職活動で失敗してしまった。

 ただそれだけで、僕は今、こんなことになっている。

 

「……嫌になるな」


 駄目な方に変わってしまった自分も。そうなる原因を作った、労働基準法を当然のように無視する会社も。正直、人としてどうかと思う上司も。

 

 何もかもが嫌になる。本当に。


「……あーあ、どこかに行きたいなあ」


 明日も仕事は山積みだ。

 そんなのは無理だとわかっていても、そう思う。


 故郷に顔を出すのでも、旅行に行くのでもいい。

 ここではないどこかに行きたかった。

 嫌な仕事も、嫌いな上司も、将来の不安もない、どこかに。


「……ん?」


 ――だから、そんなことを考えていたから。

 ――それを見つけてしまったのは、魅入られてしまったのは、もしかしたら、当然の事だったのかもしれない。


「あれは……」


 既に光の消えた商店街の一角。

 建物と建物の間の路地の先。それはそこにあった。


「……鏡?」


 なぜか興味を引かれて近づくと、それは古ぼけた鏡だった。

 表面のメッキが剥がれた額。そしてそこにはめ込まれた、表面が少し曇った鏡。


 見た限りでは、近所のゴミ捨て場に捨ててあってもおかしくないと思う。

 どこにでもありそうな古い鏡だ。


「……なんなんだろう、これ」


 ……目が、離せない。

 どこか、この鏡に引き付けられるものがあった。


 不思議だった。本当に不思議だった。

 どうして僕は、こんなにも――この鏡のことが気になるのか。


「……」


 まるで何かに導かれるようだった。


 半ば無意識に僕はその鏡に手を伸ばし、触れ――

 ――そして、そこで意識が途絶えた。





 ◆





「……ん」


 遠くで、鳥が鳴いている。

 以前聞いたことがあるような、ないような、そんな鳥の声。


「……うぅ」


 次に感じたのは花の香りだった。

 続いて手から伝わる、柔らかいような、硬いような感触。


 ――これは……?


 普段の僕の生活では縁のないそれらに違和感を覚える。


 一体何なのだろうか。

 僕はそう思いながら、急速に薄れていく眠気を振り払い、重いまぶたを開けた。


「…………え?」


 開いた目、開けたばかりで少しかすんだ視界に映ったのは、花畑とその周りの森だった。

 呆然とする僕の耳を、木のざわめく音が撫でる。



 ――――ああ、夢か。



 素直に、そう思った。


 だって、これはありえない事だ。

 目が覚めると森の中にいた、なんて、現実では起こるはずがないのだから。

 

 これが知らない部屋にいた、とかなら拉致されたという可能性もあるけれど、森の中ならそんなこともないだろうし。


明晰夢(めいせきむ)、てやつなのかな」


 状況を確認するようになんとなく呟き、そしてその声に新しい違和感を覚える。

 

 ……声が、高い。記憶にあるものよりも遥かに。

 まるで幼い少女のような声だ。


「え……」


 続いて、別の違和感に気付いた。


 服がおかしい。フリルがたくさん付いている。

 それにそこから伸びる手も足も驚くほどに細かった。 


「……もしかして、女の子になってる、のかな」


 確かめるように手や足を動かし、その感覚の違いに驚く。

 動作の一つ一つに違和感があった。


 ――――ま、まあ、夢だし。

 こんなこともあるのかな。


 何でもありなのが夢だ。

 驚きつつも納得する。


「……っと」


 ふらつきながらも立ち上った。


 軽く周囲を見渡すと、今いる場所が花畑のようになっていて、その周囲を木々が取り囲んでいるのがわかる。

 少し離れた所に見える木々は先の見えない深い緑色で、まるで森のようだと思った。

 

「……変わった夢だなあ」


 何もかもがよくわからない。

 これはどういう夢なんだろう。


 どこかで夢はその人の深層意識や欲望を表している――なんて聞いたことがあるけれど、それならこの夢は僕のどんな欲望を表しているんだろうか。


 少なくとも僕は女の子になりたいだとか考えたこともないし、花にも興味はないんだけど。


「……まあ、いいか」


 軽く頭を振って、何となく足を前に出す。


 目的地は当然ない。

 でも、何となく動きたい気分だった。

 

 深い緑色の中に一本走る茶色の線。

 見た限り唯一の道に向かって僕は歩きだした。




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