*16* これが流れ星の気持ちなのかな。
クラウスの腕が徐々に抱擁を強めて、私の身体を圧迫する。壊れ物を扱うように怖々とした風でありながら、次の瞬間には全身の骨を砕かれてしまうような緊張感が私を襲う。
でもそれすら甘美な物として享受しながら、クラウスの肩越しにぼんやりと夜空に輝く星達を眺めていた。まるで夢を見ている気分だ。このまま呼吸が止まってしまったとしても、私はきっと幸せだろう。目を閉じて目蓋の裏に星空を閉じこめていると、ふと耳許に吐息を感じて目蓋を持ち上げる。
「今のその言葉が本当なら、ルシア……俺はもうお前を手離せなくなる」
そう再び耳許で囁かれた言葉に、全身の血が沸騰しそうになった。喉からせり上がる嗚咽に混じって「私もだ」と囁けば、無言のまま抱擁はより一層強くなる。
――このままクラウスの身体に飲み込まれて、彼の一部になれたら良いのに。
今まで繰り返し続けた罪過がクラウスを苦しめ続けているのなら、いっそ伝えてしまいたい。“これだけ長く苦しんだ貴男の人生は、私の知っている遊戯の中の出来事だから貴男のしてきた行為は罪ではない”と。
だけどそれを言ったところで何になる? 生真面目なクラウスがそれを聞いたところで納得するとはとても思えない。最悪やっぱり信じていないのかと疑われてしまう。
それに少なくとも今私達が生きているこの世界は、前世の“私”が知っている遊戯プログラムの世界ではないのだ。この世界は喩えるなら別の時空にある別の歴史を持つ世界のようなもので、そこでも殺人は前世と変わらない罪となる。
考えろ、考えろ。まだ今世で何の罪も犯していないクラウスが、過去の自分が犯した罪過を贖い赦せる道を……と、ふとその時に何かが私の記憶を刺激した。それはささくれのような僅かな取っかかりで、だけど無視出来ない何かがある。
それにクラウスの肩越しの夜空を見ていると何か心がざわつく。周囲に他の明かりがない中だと、まるで夜空に寝転がったような不思議な気分だ。そうだ、夜空だ……夜空に何か……。
すっかりこの乙女ゲームの世界に馴染み過ぎて失念しかけていたけれど、こういうゲームは大抵パッケージに記載されているタイトルと、シナリオの内容にリンクする部分があったはずだ。
ああ、だけどこんな時に限って最近思い出す機会がなかったから、肝心のタイトルがかなりうろ覚えになりつつある。確か“星が導く”だとか“星座に”何とかだった気がするけど……。
すると考え事に没頭してすっかり気付かなかったけれど、腕の中で無言になった私を心配したのかクラウスがジッと私の顔を見ていた。
「急に黙り込んで、これからのことが不安なのか? それとも――……やはり幼い頃の婚約話を真に受けて、何度も道を踏み外す人格の破綻した異常者は嫌か」
そう弱々しく微笑むクラウスに、そんな場合ではないのにかなりキュンと来てしまった。こんな台詞を聞けるだなんて感慨深い。推しが尊いわ。
「人格の破綻したって……そんなことないでしょう。子供の方が大人より真剣なことなんて一杯あるじゃない。その時に感じた気持ちは幼くても二人とも本物だったし、きっと普通にもう一度出逢えていたら変わったんだよ。クラウスは人よりちょっと純粋で、再会の仕方に運がなかっただけ」
他にフォローの仕様がないのでそう言うと、クラウスは一瞬だけ表情を和らげる。けれどまたすぐにその表情が翳ったかと思うと、クラウスはぽつりと「だとしたら、父上もそうだったのだろうな」と呟いた。
ここでまた今度はクラウスの会話内容が引っかかる。ゲームでいうところの会話内容の一部の単語が意味深に光ったりする感じだ。何だろう、今の短い会話のどの単語が引っかかった?
しかしそれを探りたくても、亡くしたばかりの家族の話題を振ってクラウスを苦しめたくはないし……どうしたら良いんだ。ああ、でも取り敢えず落ち込んでいるから慰めた方が良いのか。
こういうことは思い立ったが即実行。うなだれたクラウスの頭を抱え込んでその髪を指で梳く。だけどやや波打ったクラウスのダークブラウンの髪は、むしろ私の心を落ち着かせる。慰めるどころか癒されてどうするんだ。
……しかしこの手触り和む、癒される。
難しい事を考える時にはちょうど良いかもしれないなぁ。
などと思いながら撫でていたら、不意にクラウスに手首を掴まれて「その、頭を前から抱えるのは止めてくれ」と真剣に言われた。何で余計なことを考えているのが分かったんだろう。エスパーなのか?
今後の為にも「ゴメン、嫌だった?」と感想を訊いてみたら、意外にも「嫌……ではないが」という歯切れの悪い返事。嫌でないのなら撫でさせてくれたら良いだろうに、おかしな奴め。
渋々頭を離したら「軽々しくこういうことをするな」と酷く疲れた声で言われてしまった。何がいけなかったんだろうか。もしや季節的に汗臭かったとかなのか!? それなら有り得る。クラウスは上級貴族でお育ちが良いから、やんわり伝えようとしてくれたのか!
慌てて身体を離したら「たぶんルシアが今考えたようなことじゃない」と笑われた挙げ句、再びその腕の中に囚われてしまった。しかも今度は身体を捻らないでもお互いの顔が見えるように向かい合わせで。世の中には随分幸せで贅沢な拷問があったものだなぁ。
形勢が逆転した途端に緊張が戻ってきた私が身を堅くしていると、クラウスが「急に大人しくなったな?」と目を細めて笑う。そんな表情や言葉を見聞きするたびに、一分一秒毎に彼を好きになる自分が怖かった。
「お前は……ルシアは不思議な存在だな。今までの円環でどうして出逢えなかったのか分からない。こんなに大切な存在になるのなら、どこかで出逢っていてもおかしくないはずだというのにな」
うっわあぁ~……シナリオ設定ではないにしても、ここでその乙女ゲームの台詞は危険だ。このままでは殺られる。何それあざとい。あまりにあざと可愛過ぎてキュンギレしそうだ。
今までのシリアスが逆回転して通常運転に戻って来られたのは嬉しいけど、それはそれで人として駄目な気がする。もう感情の振り幅が大き過ぎて自分の中間の感情が分からない。
――ただ、
「えっと、そう思うならそれはきっとあれだ。私がいつも空から頑張りすぎて苦しんでいるクラウスを見てたから。ずっと君を幸せにしたくて堪らないと弱々しく輝くだけの屑星。それでそんな屑星を哀れに思った星女神が、地上のクラウスの元まで落とした星の欠片が私なの……とか言ったら信じる?」
まさか“こっちは画面越しに君を観察してたからね”とは言えまい。いや、ストーカーの自覚は充分過ぎるくらいあるのだけれど、私は存在を知られたくない系の内気なタイプなのだ。
けれど即席にしても酷すぎる出来の三流ポエムだったから、てっきり“馬鹿にするなよ?”と返ってくるのかと思ったのに。
「ふ、ふふ、はははっ!! ここで星女神を引き合いに出すとは、随分と不敬な【星詠師】もいたものだ。だが、他の連中が言ったらただでは済まさない冗談なのに……何故だろうな。お前が言うとそうなのかもしれないと感じる。本当に俺を、この苦しみから解放してくれるような気がするな」
心底おかしくて堪らないというように、弾けるような軽やかさで。
初めてクラウスが声を上げて笑った。
画面越しでも、学園に来てからも。嘲笑でも、卑屈でも、自虐的でもない笑い方で。私は今、クラウスの一度も聞いたことのない本物の笑い声を聞いたのだ。
“心が喜びで震える”という感覚が、初めて分かった。
小説の中に出て来る文章でも、ニュース番組のコメントでもない。他人の教えてくれる形容としてではなく、私の体内を巡る血液中の細胞の一つ一つが鳴り出すような、そんな味わったことのない感覚が身体全体を乗っ取ってしまう。
私をこんな気持ちにさせたのだから、せめて今までの事故的な口付けではなく、四度目の真剣な口付けはこちらからさせて欲しい。そう思い立ち、まだ目の端に笑みを残したクラウスの襟首を引き寄せて、少女漫画でたまに見る歯をぶつけるような痛い失敗にはしたくないから、そっと触れるくらいの口付けを落とす。
照れくさくてすぐに離れた私の視界には、驚いた表情のまま固まるクラウス。何と良いスチルだろうか。もうこのまま額装して納めたいくらいだ。
と、まあ……だいぶ雰囲気も和んだところで、私は若干動揺しているクラウスの意識が元のように沈まない内に、さっき引っかかった会話内容をもう一度詳しく聞き出そうと試みた。
すると、ここへ来て意外な新事実がうっすらと浮上してきたのだ。
「えっと、それじゃあちょっと教えてもらったことを整理するけど……クラウスのお父さんは円環していることには気付いていなかったけど、クラウスが幼い頃にティンバースさんと出逢って結婚の約束をしてたことは知っていた訳だ」
クラウスに抱き抱えられる姿のままというのは恥ずかしいけれど、離してくれる気配がないので仕方なく平静を装いながら訊ねれば、クラウスが小さく頷く。
それを確認してから自分の頭の中にある大雑把な仮定を、さらに細分化しながら落とし込む作業を続ける。
「普通ならまあ子供同士の約束だし、ずっといる訳でもない避暑地での出来事だから身分差に目くじらを立てるほどのことじゃないよね。だけど何故かクラウスのお父さんはそれを本気にして、その後はその避暑地に訪れることはなくなった、と」
はっきり言って不自然というか、不可解な行動だ。極端に身分差を気にするにしても、たったそれだけのことでわざわざ別邸のある避暑地を訪れなくなったりするものだろうか?
私がそう首を傾げていると、クラウスはやや躊躇いながら「それは……父上の若い頃の恋人が、恐らくアリシアの母親だったからだと思う」と爆弾発言を投下した。訊きにくいし話しにくい話題だけれど“円環を本当に今回で止められる物なら止めたい”と言うと、クラウスも承諾してくれた。
詳しく訊こうとすれば、どうしても屋敷に火を放ったところまで掘り返さねばならず、クラウスの身体は【父親】の最後を思い出すせいでカタカタと震える。その身体を抱き締めながら促す先に必ず何かこの円環を終わらせる鍵があると信じて。
しかしこうして訊けば聞くほど思うのは、あれかな? 親子揃って面食いな上に女性の好みが似ているのか。しかももっと言うなら、そんなに運良く避暑地で元恋人とその娘がいたりする?
避暑地にはクラウスのお母さんも一緒に行っていたらしいから、だとすればあまりにもお父さんの脇が甘すぎるでしょう。まさか結婚後も二人の関係は続いていたとかだったらお父さんの屑感が凄いけど、クラウスの話ではお父さんは生前避暑地にはほとんど滞在しなかったらしい。
だとしたら二人の関係性はすでに白だ。お父さんの方には未練があったようだけど、クラウスのお父さんらしく生真面目ではあったみたいだし、ヒロインちゃんのお母さんにはクラウスも会ったことがないそうだ。
それと、クラウスにはまだ王都でやらなければならない仕事が一つだけ残っていて、それはヒロインちゃんの未来に大きく関係することだと言う。けれどそれが何かを聞き出そうとすると、クラウスは表情を曇らせて黙り込んでしまった。
彼曰く「ルシアに知られるのが怖い」ということらしい。でもそうは問屋が下ろさないぞとばかりに脅し宥めて吐かせれば、それはスティルマン家という家の特殊な能力にあるのだと言う。
内容的には以前私がこそこそと調べようとした、彼の家が持つ秘密の核心をつくものに通じていたのだけれど、そういえば私はいつの間にかその禁忌に触れなくなっていた。
一番の理由はクラウスが触れて欲しくなさそうだったからだけど、ラシード達と四人で楽しい時間を前に無意識に蓋をしてしまったのかもしれない。
「我がスティルマン家は崇める星から、一般的に【孤独星】や【禍星】と呼ばれて来たが、それとは別に王家からは【選定星】とも呼ばれている。それはスティルマン家が代々【星喚師】を見つけ出すことに長けているからだとされていて、歴代の大自然災害を予知した【星喚師】を見つけ出したのは我がスティルマン家だけだ」
そう口にしたクラウスの硬質な声音から、まだ隠していることがあるのだと感覚的に察知したけれど、それは今は良しとする。こういうのは芋づる式にバレて行くものなのだから、最後まで隠し通せるものではないしね。
「以前から薄々この奇妙な現象が何なのか知りたくて、何度も円環をする中で古い文献を読み漁ってもみたのだが、結果はどれも芳しくなかった。どの円環でも“カヒノプルス”は【孤独星】としか記載されず、それに代々選ばれる一族はほとんどが我が家系の者だ」
クラウスから説明されるその内容を聞きながら、また頭の中で何かが閃く。
「ああ、ただ……いつの円環の中だったか忘れたのだが、学園にある閲覧禁止の本棚を外から眺めていたら、それまで見たことのない背表紙の星女神神話の原本があった気がするな。もう何度か巡る間にどこかへ移されてしまったのか、今世ではまだ見ていないが」
ああ、ほら、また“星”と“神話”だ。
星、星座、導く――……何を?
「一応アリシアは学園に入る際【星喚師】の才があると見出されてはいるが、それでもそれが本物かどうかはまだ未知数とされている。父上は最後にそのことを気にしていたが……それを決めるのは俺ではないと思ってもいる。だが何にしても、もう一度アリシアに会う必要がある」
クラウスはそこで一旦言葉を切り「今はここまでしか話せない」と苦しそうにこの話題を締めくくった。
その瞬間、頭の中に浮かび上がったのは以前空き教室で見た擦り切れた古い星座表。変色した紙に潰れた文字で記載されていたあの中に、私は何か違和感を持った。思い出せ、思い出せ、何かないか? 何かあの星座表に感じた違和感は――。
“何よりこの星座表の記載の仕方が古いのがまた悪いんだよ”
そういえばあの空き教室にあった星座表は随分古かったし、どことなく星の配置が違ったはずだ。空き教室とはいえそんな紛らわしい物をどうして保管しておく必要があったのだろう?
それに私にあの教室の鍵をくれたのは――前世のゲームに登場しない、恐らくこの続編での隠しキャラクターの名前が私の頭の中に閃いた。
「……エルネスト先生だ」
口に出した途端、それはパズルのピースのようにカチリとどこかにはまり込んだ。一番最初からうっすらと見えた星のエフェクト。どこで会ったのかも分からない内から彼に浮かんだ星の存在がずっと気にかかっていた。
彼は恐らくこのゲームの裏シナリオに絡む“鍵”だ。クラウスにエフェクトが出た時に一番長く、強くエフェクトを輝かせていた。
「そうだ、エルネスト先生だよ! だってエルネスト先生の専攻は天文学だもん。クラウスが何回目かの円環で見たっていう、閲覧禁止の本棚の中にある本の中身だってきっと憶えてるよ!」
これはあくまで私の憶測だけど、クラウスとエルネスト先生は続編のこのゲーム内で対になっている隠しキャラクターだ。そして恐らくこの二人のルートに入るまでに、他のキャラクター達との関係を全部断ち切っていないと最後の隠しルートは開かない。
うーん、このゲームの新シナリオはなかなか面倒な性格の人が書いたに違いないね。きっと女性ファンから来るクレームの嵐に若干苛ついたんだろう。新キャラクターを落としたければ、お前達が散々嫌った悪役キャラクターと抱き合わせ販売にしてくれるわ、と。
……生前知り合えていたら良いお酒が飲めそうだったのに残念だ。
一人でうんうんと頷く私に向かい、話の見えないクラウスが「何故ここであの教師の名が出て来るんだ?」と少し困惑した表情を浮かべている。
「今はそんなことはどうでも良いでしょう? 大事なのは、ねじ曲げられる前のスティルマン家に関する記載のある原本の内容を、先生が知ってるかもしれないってところなんだよ?」
まだ仮説の段階を抜けないうちから興奮して詰め寄る私に、クラウスは上半身を少しだけ後ろに反らした。前から思っていたけれど、クラウスは押されると弱いなぁ。ちょっと心配になるぞ。
「わ、分かったから落ち着けルシア。それに仮にそうだとしても、スティルマン家の当主達が赦されることなど……」
「煩いなぁ、私が嫌なんだよ。ずっと歴史の中でクラウスの星が悪く言われるのなんて我慢出来ない。それをクラウスが負い目に感じるのも嫌だ」
語気を強めてそうさらに詰め寄れば、今度はジッと真剣に私の顔を見つめてくる。くそう、その顔をされると次はこちらが不利になるのに……一体どこに感情の照れと攻めの分岐があるんだよ。
「それに言ったでしょう? 私はクラウスを幸せにする為に来たんだよ。クラウスが幸せになれないなら死んだ方が、星になって夜空に戻った方が――」
“マシだ”と言いかけた私の身体にクラウスの腕が回されて、肺の中の空気が全部漏れそうなほど強く抱き締められた。首筋に埋められたクラウスの表情は、私からは見えないけれど。
「――それは駄目だ。お前がいないなら、今更俺も生きてはいけない」
異世界だろうが、現実世界だろうが、好きな人に耳許でそんな風に切なく囁かれて“うん”と応えない女性はいないだろう。例に漏れず「うん」と応えた私は、どさくさに紛れてダークブラウンの髪を指先で梳く。
「……ねえ、クラウス。私が王都に戻る手伝いをするからさ、クラウスの長年拗らせきった初恋を終わらせようよ。君が気にしている円環から完全に逃れられるように、この屑星様も一緒に答え合わせをしに行くから」
拗らせきった初恋云々に関しては、私も人のことは言えないけれど“一緒に”という部分でクラウスが僅かに身体を硬くした。でもそれもほんの少しの間だけで、すぐに小さく「ああ」と答える声に頬が緩んだ。
「それでさ、全部の答え合わせが終わった時に……まだ私と一緒にいても良いと思えたら、もう一回教えてよ」
私のその問いにまだ何の謎も解けていないうちから、もう答えようとするクラウスの唇に自分の唇を重ねて封じる。だって今ここで答えたら、もしかしたら後悔することになるかもしれないからね。
――――幸せな君が見たいんだ。
その姿さえ見られるのなら、君の隣に立つ女性は、私じゃなくても構わない。




