*15* 甘くて苦い、毒の名は。
今回から最終回に向けて、
糖分を増し増して行きますのでご注意下さい(´ω`;)
二人して無言のまま夕飯を終えて後片付けをし、さあ本題に入ろうと私が再び椅子に腰を下ろそうとしたら、クラウスが急に「外に出ないか?」と言い出した。一瞬何故とは思ったものの、そう言われてみれば私達には夜空の下の方がお似合いな気がしたので、その誘いに頷く。
蝋燭を入れたランタンとマッチを片手に外に出れば、空には黒いハンカチの上に砂糖を散りばめたように無数の星が広がっていた。王都では街明かりが多くて星が静かだったのに、ここは周りに民家がないせいか星が煩いほどに感じる。
まだ昼間の熱を持った地面からは草と土の香りが立ち上り、学園に入学してから一度も戻っていない故郷のことを思い出して、胸の内に押し込めた郷愁を掻き立てられた。
星と月はまるで上等の星火石の如く地上を照らし出し、ランタンなど必要もなさそうだ。私は一旦ランタンを小屋の中に置きに戻り、再びクラウスと周囲に人の気配がないのを確認してから星空の下へと一歩一歩踏み出す。
並んで草の上に直接腰を下ろし、久し振りに広々とした夜空を眺める。そこでふと、ここへ来てからというものこうして空を見上げる心のゆとりすらなかったことに気付く。
天体望遠水晶は持って来てあるものの、ここ最近は星詠みをしていなかった。鞄の中にランチョンマット大の刺し子にくるんだまま放り込んである。あんなに故郷では毎日明日のお天気ばかりを気にしていたのに……。こちらの世界でクラウスを見つけてしまってから、私の一番はずっと隣に座る彼だ。
思わず「二人でこうして星空を見上げるのって久し振りだね?」と口にすれば、同じことを考えていたのか、すかさず「俺もちょうどそう思っていたところだ」とクラウスが笑った。けれど痛みを堪えるように眇められた目は、笑っているはずなのにまるで泣いているようだ。
だから、並べて座った肩の間に僅かに空いていた隙間を埋めるようにくっつく。身体は暑いけど、心が寒いよりよっぽど良い。クラウスはそんな私の意図に気付いたらしく「それなら」と前置きをしてから、自分の前の地面をポンポンと叩いた。
首を傾げる私に向かい「ここに」と言うクラウス。……え、いや、待て待て待て。それって乙女ゲーム的にいう後ろから抱っこ座りですかね? 何という高難易度の技を仕掛けてきやがるんだこの野郎。さては天使ではなくて小悪魔だったのか!?
凍り付く私に痺れを切らしたクラウスは、諦めて自分から私の後ろに回り込んで座り直した。あ~……最初からこのイベントに拒否権はないのね。成程。
背中越しに聞こえるクラウスの心音はガチガチに緊張した私よりは、ほんの少し遅い。それでもクラウスが眠っている時の脈拍と比べれば充分に早いから、おあいこということにしておこう。
クラウスはしばらく無言で私と一緒に夜空を見上げていたけれど、少しずつ、少しずつ、あの夜のことを語り始めた。
その声は掠れ、時に上擦り、喘ぐように。
一言一言を噛み締めるように紡がれる。
流石に賊の主犯がクラウスだと聞かされた時は少し驚いたけれど、前世の記憶がある私には、その行動を責めるという選択肢はない。けれどクラウスはそうは思っていないようで、その部分に差し掛かると私が脅えて逃げるとでも思ったのか、後ろから恐る恐る抱き締められる。
半袖の素肌に触れるクラウスの肌は真夏だというのに冷え切って、うっすら汗が浮かんでペタペタするのに、クラウスは寒さを感じているのか震えていた。それが恐怖から来る寒さだと分かっているから、私は目の前で動きを封じるように回された腕を撫でる。
屋敷を覆った火から逃れる時に負った小さな火傷跡が所々残るその腕に、愛おしさが込み上げた。けれどそれと同時に別の暗い感情が私の中に立ち込めて、その肌に爪を立てさせた。クラウスは一瞬走った痛みに驚いたようだったし、私も背後でクラウスが息を飲む気配を感じて正気に戻る。
でも「すまない、苦しかったか?」と顔を覗き込んで来るクラウスが、哀しげに微笑む様子を見た瞬間、馬鹿なことをしてしまったと後悔した。
そしてそんな彼を少しでも妬ましいと感じる、この前世に対する浅ましい欲求が未だにあったことに戦慄する。
今際の際に肉親とほんの一瞬でも通じ合えたという、その一点が。
その一点だけを得られなかったことを妬む“私”がいることが怖かった。
けれどそれを伝えることが出来ない。知られて嫌われたくない。そんな浅ましさがやっぱり後ろめたくてきつく唇を噛み締めたら、視界に映るクラウスが困ったように目を細める。
しかしその時……ふと逡巡した様子を見せたクラウスの顔が急に近付いて来たかと思うと、私の唇に何か柔らかいものが押し当てられた。それはすぐに離れたけれど、クラウスは「あまり噛み締めると傷が付くだろう」と視線を彷徨わせながら歯切れ悪く口にする。
…………は、今のは…………もしかして…………?
「ファースト・キスってやつなのでは?」
「なっ……お前は、わざわざ口に出すな、馬鹿が」
「……え? あ、嘘、今の声に出てた!?」
だって急に乙女ゲームっぽいことしてくるから吃驚し過ぎて本音と建前がどっか行ったじゃないかっていうか前世と込みでキスしたのとか初めてなんですけど……!
意識した途端にどわっと顔に熱が上がって、血液が集中しているのが分かる。今が夜で本当に助かったと思っていたら「そうか……ファースト・キスか」とクラウスがボソッと呟く声が聞こえて、また唇に何か、いや、唇ですけど!? 何が何だかとパニックになっている私に「取り敢えずセカンドも貰っておく」と、訳の分からない宣言をするクラウス。
うおおおお……魔王か!? さては魔王なのかお前は。その魅力で私を殺す気だろう――って、馬鹿そうじゃない。
「重たいシリアスが朝食のシリアルくらい軽くなっちゃったじゃないか!」
「そうか、それは良かった。ルシアが落ち込むのは見たくないからな」
「くそ、また声に出てたっ! しかもなんか格好良いこと言っちゃって、余裕のある奴はこれだから……もうクラウスは耳塞いどいてよぉ!?」
恥ずかしさのあまり腕の中から逃れようとするも、ジタバタ暴れる私をガッチリとホールドしたクラウスの腕はびくともしない。ええい、離せ! 私のHPはもうゼロなんだよ!
これ以上余計な本音が漏れないように口を塞いで暴れる私を、ここに来てから一番良い笑顔で眺めるクラウス。もしかしなくてもドSなのかな!?
私はノーマルなので出来ればこれ以上の刺激はご遠慮させて頂きた――「ルシア、今まで黙っていたんだが、実は俺には前世の記憶がある」かったんだけどそうですか、無理ですか~……って。
「はああんっ!?」
クラウスの口からここへ来て突然飛び出した爆弾発言に、思わずおかしな声が出てしまった。
腕の中で驚く私の姿に何か吹っ切れたように楽しげに目を細めたクラウスは、不意打ちとばかりにまた唇に口付けを落とす。これでサードも奪われてしまった。ドS疑惑に続いてキス魔疑惑が持ち上がるぞ!
「俺はこの世界を円環しているらしい。らしい、と言うだけで確証がある訳じゃない。そう思い込んでいる気狂いの可能性もあるからな。ただ、要所要所で頭の中に映像が閃くのは本当だ。入学したばかりでも初対面のはずの同級生の顔を知っているし、学園のイベントなどの時には毎回何が起こるのかも分かる」
呆然とその穏やかな表情を信じられない思いで見つめる。クラウスが私と同じ前世持ち? それは確かに今までの学園生活の中で少しくらいは考えたことはあった。でもここはゲームの世界で、そんなことが現実に起こるはずがない。
――……けれど。
「そして俺はその円環の中で……ルシアも知っている、アリシア・ティンバースという女子生徒を何度も地獄に叩き堕とす悪鬼だ」
“あるはずがない”と思おうとした私の見つめる前で、そう苦悶に顔を歪めるクラウスが嘘を吐いているとは思えなかった。それにその発言内容にも何ら齟齬は見当たらない。
何より私やラシードという存在がこの世界にあるのだって、本当はおかしいのだ。ラシードはキャラクターとしてのゲームへの投入は決まっていたけれど、その中身は前世を持っている人間じゃなかったはずだし、私に至っては存在そのものが登場するはずがなかったバグである。
だとしたらこの“クラウス”も前世のあるプレイヤー……私達と同じ転生組かも知れないのでは?
そう考えが至った瞬間背筋がヒヤリとした。けれど息を飲み、食い入るようにクラウスを見つめる私を抱き締める彼の腕の力が、少しだけ緩められた。それはまるで、いつでも私が逃げ出せるようにそうしたかのようだ。
「円環の中で俺は何度も彼女と幼い頃に出逢って、短い間だが“婚約者ごっこ”を楽しんだ。無論子供の遊びで効力など何も持たないが――再び出逢った時には、今度こそ本当に婚約しようなどと……馬鹿な約束を結び続けた。そしてそれが叶わないたびに彼女を殺め、俺自身も身を滅ぼし続けた」
しかし暗い表情を浮かべてそう自嘲気味に嗤うクラウスを見て、私の立てた仮説が空振りであったのだと知る。あぁ……だけど、ちょっと思っていたのとは違うけどそういうことか。
彼はこの“ゲームの世界”のキャラクターとして自分が終わる間際までの記憶を残しているんだ。ヒロインちゃんと出逢って、恋をして、叶わないで自ら彼女を殺めたり、逆に殺されてしまったりするまでのこの世界を。
そしてそのたびに一度は完結した世界を、何の因果か再び目覚めて繰り返すのだ。元・重度の周回プレイヤーとしては当然だと思えるけれど、彼は自分が別の世界の中に出てくる遊戯の住人だとは知らない。
前世の私は求めた。
彼が幸せになるルートをただひたすらに。
ゲーム機に入れたディスクを取り出すこともなく、バッドエンドになるたびにリセットボタンを押してプレイを続けた。だけど彼はそんなことを知らないし、これから先の未来に知らなくたって構わない。
だってそんなことでここへ来た私の理由も、決意も、何一つ揺るがないし変わらないのだから。それよりもここで一番重要なのは、クラウスが私を信じてその秘密を打ち明けてくれたこと。
私を認めてくれたことだ。
私を一時でもその秘密の共有をする相手に選んでくれたことだ。
だからその思いに私も応えなければ。
「……クラーウス、そんな落ち込んだ顔しないでよ。それにそんなとっておきの秘密を私相手にバラしちゃうなんて、君は本当に馬鹿だなぁ?」
わざと明るい声を出してその頬を両手で挟み込めば、クラウスは驚きに目を見張る。その迷子の子供みたいに心細そうな表情からは、さっきまでの魔王ぶりがすっかり消え失せていた。
ほんのちょっとだけだけど、さっきのキス絡みでからかわれた仕返しが出来たので満足である。
「それにそんなこと、本当だったとしてももう過ぎたことだよ。全ては過去の出来事だ。今のクラウスには全然何の関係もないことだよ。そうでしょう?」
そう問いかけて微笑めば、クラウスはハッとしたように頭を左右に振って「やはり……冗談だと思うか」と哀しげに笑った。お、この野郎、私が信じていないと思ったのかね。今目の前にいる私は、君がその口で“明日月が堕ちる”と言ったって丸っと信じる馬鹿だぞ?
「違うよ、クラウス。私は今クラウスが話してくれたことが嘘だなんて、ほんの少しも思ってない。星女神に誓っても良いよ」
私のその答えにスッとクラウスが目を細めた。私の目を見つめて、その奥にある真偽を見定めようとしている。
というのも、この世界で【星詠師】が軽々しく星女神に誓いを立てたりはしない。嘘偽りを言った場合には星女神が怒り、罰を下してその能力を奪うとされているからだ。だからこれは国王陛下であったとしても、余程重要なことがない限りは使わない。
視線を逸らさずに見つめ返す私に、ついにクラウスも折れて「分かった」と返事をしてくれた。そのことに満足して頷き返すと、クラウスは今度は「だとしても、何故こんな益体のないことを信じる気になるんだ?」と訊ねてくる。まあ、それもそうか。普通なら頭がおかしい人で片付けられちゃうもんなぁ。
さっきまでは、前世の浅ましい自分をクラウスに知られて嫌われることを恐れていたのに――……。現金なものだけど、クラウスが決死の覚悟で秘密を教えてくれた今となっては、私だけが秘密を黙っているのは違うと思った。
ここへ来て臆病だけど貪欲な私は、クラウスからの“信頼”も“信用”も欲しくなってしまったのだ。
「あ~、それはえっと……何と言いましょうか……あれだよ、その、実は私も似たようなものだから知ってるとしか、ですね」
しかし私如きのなけなしの勇気は、非常に格好悪く唇から零れ落ちた。ちなみにクラウスの反応が怖くて視線は喉仏の辺りを彷徨っている。ヘタレは所詮どこまで行ってもヘタレですからね。
けれど流石に勇気を振り絞った告白に、よもや溜息で返されることは予想していなかった。え……反応が薄いとか以前に、むしろこれは反応が悪いのではないのか?
喉仏から視線をそーっと、クラウスの表情がギリギリ見える辺りまで上げようとしたその時「まさか……ラシードが言っていたのはこのことか?」という低い呟きが私の耳に届く。
――んん、今なんだか聞き間違いでなければ、あのオネエさんの名前が出たような……。まさかとは思うけどあの野郎自分が安全圏内に入ったからって、私の承諾を取らずにネタバレをしちゃったんでしょうか? これはちょっと次に会った時に拳の五発くらい受けてもらわないと駄目かな~、と。
「なあルシア、少し答えにくいことを訊ねても良いだろうか?」
クラウスから発せられるその酷く平坦な声に脊髄反射で頷いたけど……これ絶対に今までの経験からして怒ってる声じゃないか。いつの間にか緩められていたはずの腕がギュッと元のように力を込められている。
いや、あの待って、これって良いかどうかじゃないよね? とは言える空気ではないですね、はい。
ジリジリと追い詰められている感があるものの、この場で私が何がしかの怒りをかってクラウスに殺されるとしても……あれ、割と本望だぞ? しかしそんな少し開きかけた私の内なる性癖の扉は「ラシードとルシアは前世で恋人同士だったりしたのか?」という、クラウスの面白発言の前に再び閉ざされた。
……一体二人の間でどんなおかしな伝言ゲームをしたというのだろうか。そもそもこの場面で何でそれを訊こうと思うんだ。
私のファースト・キスどころかサードまでしておいて、何を今更言ってるんだこの人は――。ああ、それとも何か。君にとっては物の数に入らないと、そういう訳なの? とか何とかゴチャゴチャと考えている内に、段々腹が立って来た。
「あのねぇ……そんなことある訳がないでしょう! 私とラシードは前世の共通した記憶があるってだけで、口をきいたこともなければ生きてる間に会ったことだってないの! それを言うに事欠いて、ついさっきキスした相手に向かって恋人同士だったかなんて訊く?」
「そ、そうは言うがだな、ラシードが以前に意味深な発言をしたから……」
クラウスにしてみれば突然キレた私からの糾弾だろうけど、こっちにしてみれば結構傷付く。思わず「そんなことで疑ったの?」と声を荒げた私に負けじと「そんなことじゃないだろう!」とクラウスも声を荒げる。
「そうだよ、そんなことじゃないよ! 私は前世からずっと……ラシードと出逢うより前から、クラウスと出逢うずっとずっと前から君が好きだった!」
半ば釣られるように口にしたその答えは、今まで抗い続けて来たことが馬鹿馬鹿しくなるほどすんなり心に馴染んで、もう一度取り出すことなんて不可能なことに思えた。
だというのにそれを私から引き出したクラウスは、呆然とした表情で「嘘だ。いくらルシアでも、俺のこれまでのアリシアへの狂気じみた行為を知っていれば……そんなことは言えないはずだ」と顔を歪める。その表情が辛くて、痛くて、もう堪らなかった。
「違う、そうじゃなくて……違うんだよ、クラウス。そんなクラウスだから、私は安心して君を好きになれた。前世の私は愛も情も知らなかった。そんな感情があることも」
スルリとその頬を挟み込んでいた掌を首まで滑らせて、懇願するようにそう言っても、クラウスはビクッと肩を跳ねさせるだけで。瞳には依然として脅えた色が浮かんでいる。
「クラウスがティンバースさんに向けた……君が“狂気じみた”と評した愛情が欲しかった。そんな風に気が狂うほどの劇薬みたいな【愛情】を、私はこの身に浴びてみたかった。ずっとずっと、知ってみたかった。だからクラウスの言う失敗を知っていて近付いたの。もしかしたら――、」
最後の大義名分に纏っておいた鍍金が剥がれて零れ落ちて残ったのは。
「もしかしたら、答えを全部知っている私を……クラウスが選んでくれるかもしれないと思って」
浅ましい、
浅ましい、
汚い【“私”】。
最初は本当の本当に、ただクラウスを助けたいと思う一心だったけれど、途中からそれはどこか歪にねじ曲がって行って。そのことに気付いた頃にはもう手の施しようがなかった。
だけど胸の内を全部を吐き出しきって、自己嫌悪に陥り泣きじゃくる私の耳許で、ひそりと低く。
「今の言葉は……本当だな?」
――と。
背筋に響く、甘くて苦々しい声がした。




