*10* 飽きるほどに、想って。
今日は学園に来てからもう三度目になる“六月十日”。
この日は毎年私にしか分からない、私だけの特別な日だ。ささやかながらも朝から鏡の中にいる自分の唇に、ラシードとカーサが見立ててくれた口紅を塗るくらいには浮ついた気分になる。
先生方にバレないようにほんのり淡く色付く程度の口紅だから、視覚的にはあまり塗っても塗らなくても代わり映えしないけれど、それでもこの日は何かいつもと違うことをしてみたくなるのだ。
「……今日でクラウスが私を見つけてくれて三年目なのか」
そう口にした鏡の中の私がニッと笑う。
「ううん、違うか。今日で私がクラウスを見つけて三年目、だ」
この世界と前世の狭間で迷子になっていた“私”を見つけてくれた、大切な君の為に。今の【私】が出来ることは何だろう? 自問自答の先にあるその答えを、【今】の私は欲していない。
「ん~……本当に難儀なもんだ。普通こういうのは、ヒロインちゃんに転生するのがお話のお約束じゃないか。それをこの世界の星女神様は意地悪だよ」
文句を言って眉を吊り上げても、鏡の中にいるのは情けない顔の冴えないモブ。それがルシア・リンクスなんだろうけれど。机のひきだし一杯に入っている家族からの手紙を思えば、星女神様はやっぱりきっと慈悲深い。
「家族か、恋か。どっちかだけのランダム配置だったのかな?」
呟いてちらりと横の推しメン祭壇に視線を向ければ、そこには初めて手に入れた生スチルと一回り小さな天体望遠水晶。ここにはいない星火石の首飾りも、今頃どこかで頑張って働いていることだろう。
「ああ、でも……それにしては時限爆弾みたいな恋もさせてくれてるし、その時が来て弾けてしまうまでは好きでいさせてくれるんだもん。欲を言えば私に兄弟がいれば良かったし、家格が釣り合えばもっと良かったんだけど。それを差し引いたってやっぱり奇跡だもんねぇ」
今日が始まるこの嬉しさと、カレンダーを見て残りの日数が一日減ってしまう悲しさと。どっちもあるから頑張れる。この想いと戦って戦って倒れても、きっと私は幸せだ。
「よしよし、今日もモブにしては愛嬌があって可愛いぞ」
パンっと両頬を叩いて、鞄を手に勢い良く部屋を飛び出す。今日も早く会いに行きたい、教室で私を待ってくれている君がいるから。
***
地獄のような午前の授業がようやく終わり、一日の学園生活の中で一番最初にクラウスと長く過ごせる休み時間……お昼休みが訪れた。これを逃すと放課後まで長いお喋りが出来なくなってしまう。
しかし特別な日だというのに哀しいかな、この頃夏が近付いて来たせいと、板書を必死で追いかけたせいで文字酔いを起こしているせいで、現在元気が全くございません。朝の元気を残しておくべきだったわ。
だけど今日はどういう風の吹き回しか、クラウスがカフェテリアに行こうと言い出した。
いつも人気を嫌う彼がそんなことを言うのはとても珍しいし、何より初めて逢った日の再現のようで懐かしかったから、私もその提案に二つ返事で頷いたんだけど……カフェテリアに来て早々に後悔したね!
座れる席が陽向のベンチしか空いてないんだもんなぁ。そんなところまであの日の再現をしてくれなくたって構わないのに。
だけど太陽で熱されたベンチを前に溜息を吐いたら、隣にいたクラウスが「俺が歩くのが遅かったせいですまなかった」と言うから「あ、全然気にしないで。私陽向のベンチ大好きだから」と答えた。
はっはっは、嘘じゃないですよ? ……季節によるだけですから。
誰も座りたがらないだろうけど、ベンチに場所取りように持ってきていた前の授業のノートと教科書を置く。その時に不意に隣から視線を感じてそちらを向けば、クラウスがダークブラウンの瞳で私を見つめていた。
おお? これはもしかして口紅に気付いて――。
「少し顔色が悪いように見えるが、やはり場所を変えるか?」
あ、あ~……そっちか。そもそも今日を特別だと思ってるのは私だけだし、自意識過剰が過ぎるわ恥ずかしい。付き合うようになったのだって、私がやらかしてる現場を見られただけの、いわゆるラッキースケベみたいな状況だったもんね。その場合覗かれた私が良い目を見た訳だけど。
「違う違う、最近日に焼け始めただけだって。私は都会のお嬢さんじゃないからね。日焼けしても赤くならないせいで顔色が悪く見えるんだよ」
顔の前で手を振りながらそう答えれば、まだ完全に納得しきってはいないのか、クラウスが少しだけ不服そうな、心配そうな表情を見せた。それだけで一気に落ち込んでいた気分が上向くのだから、私の身体は相当クラウスの見せてくれる気遣いに甘いに違いない。
それを確認出来ただけでも今日はやっぱり特別な日だ。
まだ何か言いたそうなクラウスの手を引いて、一人脳内再生であの日の再現をしようとカフェテリアのカウンターでオムレツサンドを一つ注文したら、何を思ったのかクラウスも同じ物を注文してくれたのでさらに期待値が高まる。
勿論それを一緒に食べたからって、あの日の記憶が蘇るわけではないのだと分かってはいるさ。私だけの特別が通じる訳ではないからただの自己満足の行為だったんだけど――……。
「朝から気になっていたんだが、口紅はラシード達の見立てか?」
二人並んで昼食を食べ終えた後、オムレツサンドにかぶりついたせいで口紅が剥げてしまったことを少しだけ気にしていたら、ふと隣のクラウスが自分の唇を指さしてそんな言葉をかけてきた。
「え、ああ、そうだけど……何だ、気付いてたの?」
何となく、一人で朝から浮かれていたと指摘されたような気がして気恥ずかしくなった私は、手で唇を隠して苦笑する。それに対してクラウスは「当然だろう。ただ、クラスメイトのいる場所で似合うとは言い辛いからな」とはにかんだ。
その言葉に大いに幸せを噛み締めていたら、クラウスは「今も持っているのか?」と訊ねてくる。妙な圧力を感じて「う、うん?」と軽く身をひいて答えれば「良ければだが、少しだけ貸してくれないか?」と言う。
いまいち意図が掴めないものの、口紅を塗っていることに気付いてくれたことが嬉しかったので、あまり細かいことは気にしないでおこうという単細胞な結論を出して胸ポケットから口紅を取り出す。
差し出された掌に「はい、どうぞ~」と落とせば、クラウスは一度それをしげしげと眺めてから蓋を開けた。そして本体を捻って現れた、ごく淡いピンクの口紅を眺めていた彼は、何を思ったのか「俺にも塗ってみてくれないか?」と耳を疑う要求をしてくる。
ええ……そんなにこの色がお気に召したのか!? ラシード化するにしても“いきなり方針転換するにしても難易度が高すぎると思うんですけど?”とは、その真剣な表情を前に言い出せず。
結局クラウスが何を考えているの分からないまま、言われたようにその唇に私の口紅をのせていく。唇に口紅を直接塗ってから小指の先でちょっとずつ馴染ませる間、ダークブラウンの瞳が私から逸らされることはなくて。
“何このスチル、ちょっと退廃的で萌える!”と鼻息荒く叫ぶ内なる私を黙殺することに、どれだけ苦労したことか。喩えるならば【逆上して拳銃の引き金を引こうとしていた指を直前で止める】くらいの離れ業を成し遂げるレベル。トン単位の負荷が私の忍耐にかかったじゃないか。
――って、ああああああ、何で直に塗っちゃったんだ私は!? 次から使う時に“間接キッス”とか気色の悪いことを考えないでいられる自信が全くないんですけど? お巡りさん、白状します。変質者は私です。
今の私は騒がし過ぎる心を抑えつけようとするあまり、傍目には授業中並の真剣な表情だと思う。下手をしたら眉間に皺も寄っていることだろうよ。
――しかし。
「こんな話を知っているか、ルシア?」
突然の問いかけに“何を?”と訊ねる間もおかずに、私の掌にクラウスの唇が押し当てられて……る? るよね?
えええ何これ何これどういう状況でこんなことになってるんでしょうか?
混乱しきって全く使い物にならない頭で、それでも状況を整理しようと考えてる間にも掌が熱くなっていくのが自分でも分かる。ということは、手を握って口付けてる状況のクラウスにしてみたら、この私の動揺ぶりが筒抜けな訳ですよね?
結局無言のまま固まっていることしか出来なかった私の掌から、クラウスの唇が離れると、そこにはアーモンドの花弁を載せたような跡が一つ。
「こうして相手の掌へ落とす口付けはな、ルシア――、」
こちらを試すような、窺うような、少し狡い声音でクラウスが続ける。
「その相手への愛を懇願する行為だそうだ」
大真面目な中に若干の照れを覗かせるクラウスが、眩しそうに目を細めて突然そんな不意打ちを言うものだから、鼻につんときた。危ない。こんな特別イベント聞いてないぞ。もしや朝から星女神様を崇めたサプライズ?
領地に帰ったら絶対に祭壇造ろう。そうしよう。迷える子羊から邪な信徒に鞍替えをした喜びを反芻するふりをして、実際のところは失神寸前な私を相手に、それでもクラウスの猛追は終わらない。
「前回は俺の想いの押し付けばかりで、ルシアから答えをきちんと聞いていなかった。あの時聞いた“嬉しい”だけだと、お前はラシード相手でも言いそうだからな」
うん……そうか、またしてもそうやって君はやや斜め上を狙ってくるのか。
「何でわざわざ訊くんだよ……分かれよ、それくらい。しかも、どうしてそこにラシードが出て来るのさ。馬鹿なの?」
「ああ、馬鹿だ。だから――この馬鹿な俺を安心させてはくれないか?」
「ふふ……嘘、良いよ、許すよ。私の方がうんと馬鹿だから」
悔しくて強がりを言った声は緊張で上擦ってしまったけれど、今度は自分の唇に口紅を足し、クラウスがしてくれたようにその掌に口付けて、淡い印を残す。
そんなお揃いの印が付いた掌を嬉しそうに眺めていたクラウスが「今日が何の日か思い出したぞ」と、ちょっと得意気な表情を浮かべて私の顔を覗き込む。その瞳が二年前に初めて逢った時とは比べ物にならないくらい柔らかく細められて。
「口紅が自惚れでなければ今日は、俺がルシアに初めて話しかけた日だな?」
幸せすぎて、今日が怖い。
たぶん明日も明後日も、この幸せが終わるまで。




