★9★ 人の間か、人間か。
ついこの間までは、一日の授業を終えればすぐに温室に向かう日が続いていたはずが、気がつけばもうそろそろ昼間に降り注いだ日差しが、温室内に熱気を残すようになってきた。
「うーん……流石にあと一週間で六月になるし、温室で過ごすのも少し暑く感じるようになって来たねぇ」
ちょうど同じことを思っていたのか、ルシアがそう言いながら俺を見上げる。ラシード達の交際が正式に決まった日からもう一週間。さらにその一週間後には六月だという事実に少しだけ心がざわつく。
――もう一年の半分が過ぎたのか、と。
ルシア達と出逢う前は考えもしなかった季節の移ろいに、月日の経過。その日々には必ず星と家名が付きまとい、そこに自分という“個”の人格は存在しなかった。ただ毎日が液体のように流れ、留まらず、いつかせき止められた溜池のような場所に流れ着くだけの人生だと。そんな風に思っていた。
「こうなると、あれだね。お茶のセットを纏めてさ、どこか涼しい安住の地を探しに行こうか?」
しかしルシアはそんな俺には考え付かないような自由な言葉を口にし、それを実行するしなやかさを持っている。思わず苦笑して「何だそれは。季節ごとに渡る鳥のような発想だな」と漏らせば、ルシアは「お、良いねそれ」と笑いながら羽ばたく真似をした。
ずっとこうして、ともすれば退屈とも思える日常を過ごしていたい。尤もあの日のラシード達のように、確かな約束を交わすことも出来ない身で思うことではないのだが――。
一瞬だけ黙り込んだ俺に何か感じ取ったのか、ルシアが淡く微笑んで「ほら、早く必要な物を纏めて行こうよ、クラウス」と手を差し伸べてくる。片手に握る鉄のハヤブサは冷たく硬いのに、片手に温かで柔らかなルシアの手を握っていると力の加減が難しい。
『あのさ、私を番星にしてくれるのは凄く、物凄く嬉しいんだけど……“一年だけ”なのか、それとも“学園卒業まで”なのか、どっちか詳しく決めてくれないかなぁ?』
臆病で卑怯な俺が、それでも諦めきれずに番星になって欲しいと伝えたあの日、ルシアは腕の中でそう言った。一年なら今年の年末までで、学園にいる間であれば卒業の三月までということになる。
指摘されてから確かに矛盾していると思ったものの、多少のズレはあるがどの道別れるのだから、それがどう左右するのかと訊ねれば『あのねぇ、大違いだよ』と苦笑されてしまった。
『だってせっかく番星になるんだよ? だったら当然一生残るような思い出が欲しいし、その日まで妥協しないで一緒にいたいじゃないか。クラウスがいなくなるそれから先の一生分、一緒にいたいんだよ』
【一生は一緒にいられない】と思う俺と。
【一生分、一緒にいよう】と笑うルシアと。
言葉にすれば似たような誤差の範囲内だというのに、その言葉の意味は大きく違う。そんな自分だけでは気付かなかった発想の違いに驚かされた。
正直にそう伝えると『本当はここまで言うつもりじゃなかったのに。言わせないでよ、恥ずかしいな』と。その言葉通りに頬を染めたルシアが、とても愛おしいと感じる自分がいた。だからこそ、その問への答えは少しでも長いように。
「ああ。卒業までは、ルシアがやりたいことが俺のやりたいことだからな。どこにでもお供させてもらおう」
そうルシアの手を握る指先に少しだけ力を込めれば、少しだけ頬を染めて「それって結局私に丸投げってことじゃない?」と、おかしそうに笑った。けれどふと、その笑みが僅かに翳ったことに気付く。そして……自分がその翳りに、仄暗い喜びを感じることも。
***
六月に入ったばかりの日差しは、五月のものよりやや白く街並みを浮かび上がらせる。視線の先ではルシアがそんな日差しの中、店先にある小物を手に取り楽しそうにベルジアン嬢と選んでいる。前回の集まりから、約二週間ぶりに星詠み同好会メンバー四人揃っての外出だ。
前日から『ダブルデートだね!』とはしゃいでいたルシアは、街に出てからも延々と会話を途切れさせることもなく、ベルジアン嬢からラシードとのその後の近況を聞き出している。
ルシアからの一方的な質問責めにあってはいるものの、ベルジアン嬢が迷惑そうではないのでそのままにしてあった。目で追うだけでも、その姿や表情に嬉しさが滲んでいるのが微笑ましい。そんな風に我がことのように人の幸せを喜べるルシアを見ていると……。
「――こんな離れた場所から見てないで、もっと傍に行って一緒に選んであげれば良いじゃないよ」
不意にそう声をかけられて視線を上向かせれば、そこには珍しく不機嫌な表情をしたラシードの姿があった。
「いや……あの場に混じったところで、ルシアが気に入った雑貨の意見を求められても、俺には“ああ、そうだな”くらいしか言えん。もしくは……今ルシアが手にした小物入れなら“箱だな”と答えて不興をかうだけだろうな」
暗に“何が言いたいんだ?”と匂わせれば、ラシードはこちらの心を見透かそうとでもするように目を眇めた。無論そんなことで人の心を盗み見ることは出来ないし、出来たところでこの男が人の内側を土足で踏み荒らすことはないだろう。
「……アンタ達、付き合い始めたのに何か変よ」
眇められたままの探るような夕日色の瞳に、内心で鋭いなと感じつつも「そうか?」と軽く聞き返せば、ラシードは普段は穏やかに見えるその顔に一瞬だけ険しさを纏わせた。
「本当はアンタの口から聞きたかったんだけど……しらばっくれるつもりなら、それはそれで構わないわ。アタシ達に隠し事をしたまま“恋愛ごっこ”をするのだと、アンタ達がお互いに納得して決めたならね」
そのなかなか辛辣な物言いに、少しだけ唇の端を持ち上げて笑みらしき表情を作れば、ラシードは「憎たらしい顔ねぇ」と眉を顰める。けれどすぐに「“恋愛ごっこ”が癇に障ったならそう言えば良いのよ」と言われ、自分では分からなかった苛立ちに気付かされた。
だから本当に何となく「何故そう思った?」と訊ねると「男で女なアタシの勘よ」と嘯かれる。いや……それとも事実なのかもしれないが、出会った当初から常に掴み所がなく飄々としたこの男の言葉に“真実”を見つけることは、酷く難しいことに思えた。
「アンタとアタシは性格が悪い似た者同士だから良いけど……カーサはアタシと違って素直な良い子よ。アンタ達がようやく恋仲になって付き合うことを、本当に信じて喜んだの。だから――……嘘を吐くなら綺麗に吐いて頂戴」
キュッと苦しげに歪んだその双眸が見つめる先へと再び視線を向ければ、そこには相も変わらず雑貨を選んではしゃぐルシア達の姿がある。
「何というのか……意外だな」
「はあ? 何がよ?」
「いつも何を言っても飄々としていたお前に、こんなに容易く突ける弱点が出来たことがだ」
今まで俺の目から見たこのラシードという男は、人当たりの良さそうな同類だったはずなのに。いつからこんなに分かり易い表情をするようになったのだろうか?
「ラシードは、いつの間にか人間のようになったな」
「ちょっと随分な言いようじゃない? アタシはずっと人間よ」
口調とは違いあまり怒りのない声音に、今度こそ笑みの形に持ち上げた口角を咎める声はかけられない。そのことからも、さっきの“笑顔もどき”がどれだけ不出来なものだったかが知れた。
「アタシから見ても分かるくらいアンタが弱ってるってことは、ルシアにしてみたら堪らないくらい弱ってるように見えるってこと。あの子は意固地で意気地のないお馬鹿だけど……アンタがあの子を知るずうっと前から、ルシアはアンタを想ってたのよ」
「待てラシード。俺がルシアを知る前からとは、一体どういう意味だ?」
「はん、お馬鹿ねぇ、そんなの後は自分で訊きなさいよ。アタシから教えてあげられるのはここまで。ち・な・み・に、アタシとルシアはある意味凄く深い間柄なのよね。もう星詠み神話もかくやってくらいに運命的なやつ」
「何……ちょ、ちょっと待て、それはどういう意味だ?」
非常に聞き捨てならない言葉を拾って言葉尻に噛みつくが、ラシードは涼しい顔で視線の先にいる二人を眺め続けた。
今のラシードの口ぶりからすれば、知り合う前から俺を想ってくれていたというような都合の良い解釈が出来る。だがそんなはずはない。ルシアと初めて言葉を交わしたのは確か――……一年生の今頃の季節、だっただろうか。
ましてそれよりも前に言葉を交わしたこともなければ、あの慎ましい地味な見た目を視界に捉えた記憶もない。
「アンタのことだから、ルシアの記憶に残るためなら“心の傷としてでも良い”とかお馬鹿なこと思ってるんでしょうけど。アタシはそういうのは気に入らないわ。もしもまた実家のことで困ったことがあるなら、なりふり構わずにアタシ達を頼りなさい。お金はそんなにないけど知恵なら貸せるわ」
そう言うが自身のこめかみをコツコツと指先で叩いたラシードは「ほら、いつまでもボサッとここで様子を見てたって仕様がないし、行くわよ?」と俺の背中を叩いて先を歩き出す。
少しの間ラシードの背中を見つめたままぼんやりと立ち尽くしていたら、そんな俺を店先からジッと見つめている薄い鳶色の双眸に気付いて。知らず吸い寄せられるようにそちらへと一歩踏み出した足が、二歩目を踏み出す次の瞬間。
俺の名を呼びながら、子犬のようにこちらへ駆け寄ってくるルシアの暢気な微笑みが視界に入った。




