*28* 鏡の魔法にかけられて。
さあ、本日は“十一月十一日”。
ゾロ目の放課後で天気はこの季節らしく薄曇りだ。
頭上遠くに聞こえる鳥の声と、時折すきま風にカサカサと音を立てる朽ちた木の葉。透明だったはずの天井には長年の雨風で埃が積もって、本来の機能を何ら果たしていない薄暗い元・温室。こうまで荒れてしまうと、全盛期はいつ頃だったのかと思ってしまう。
立派な学園の敷地内にこんな場所があったのは驚きだ。前世のゲームの背景スチルでも見たことがない――とは言っても、私の行動範囲になかっただけで、実際はちゃんと存在していたのかもしれないけれどね。何にしても人目の少ない場所の確保が出来るとはありがたい。
特にラシードのように見目の良い奴や、一躍クラス内で時の人になった推しメンのような人物が友人だと、こういった場所は助かることこの上ない。紅一点がこんなモブでは、学園の女子生徒達が絶対に納得しないからなぁ。
そんなとても場違いな場所にある随分と古びた四阿の中で、向かい合わせに座った私とラシードの間には、綺麗な見た目の小瓶が三本と、可愛らしいコンパクト型をしたものが一つ、そうして先日購入した整髪クリームの入った掌サイズの陶器で出来た容器が一つの全部で五点セットの化粧品。
そう、四日前の休日一緒に買いに行ったあの化粧品である。場違いな場所に、場違いなアイテム。綺麗なオネエさんに、地味で性別不詳の私。なんという混沌。
そしてそれらを前に悲壮な気分で向き合う私に、ラシードはその瓶を一つ一つ摘まみ上げると、ラベルをこちらに向けて子供に言い聞かせるようにゆっくりと説明を始めた。ああ、止めて……丁寧に教えれば理解されると思うのは……。
「この一液を付けたら二液のこれを塗って、最後の仕上げにこの三液を塗るの。その後この専用のパフでこのパウダーをクルクルっとこすり付けて、粒子をさらに細かくしたら……肌にポンポンって力を入れないで置くみたいにのせる。この時に面倒だからって擦っちゃ駄目よ。これで簡単には崩れないようになるから。ここまで分かったわね?」
「…………」
「分かったわね?」
「……その眼力に免じて分かったと答えたいところなんだけど……ごめん」
一瞬頷いてしまおうかと思ったけれど、こういう時に安易に頷くと後で手痛い失敗を招くものだ。そんな私に明らかに呆れた表情を浮かべたラシードは、それでも「次で最後だから、しっかり憶えなさいよ?」と語尾に力を込める。
実のところ、これでこの説明を受けるのは三度目なのだけれど、一液、二液、三液と手に取る量や塗り始めの場所などが少しずつ違う。
私とて前世は受験戦争を経験した人間だ。そこまで馬鹿ではない。しかし興味のないことに関しては前世と同様にとことんパッとしないんだよなぁ。
これが全部が同じ分量で同じ手順ならすぐ憶えられるのに。その不満が顔に出ていたのだろうか、ラシードが困ったように微笑んで小首を傾げた。
「ほら、おブスな顔してないで……良いこと? 化粧っていうのはね“自分のここさえこうだったらな”っていう欠点を補うもんなのよ。アンタの場合だと顔の中心に集まってるソバカスと――……この額の傷ね。アタシはソバカスも可愛いアイテムの一つだと思うけど、アンタは嫌なんでしょう? だったらしっかりカバーしないと」
そう言って私の頬を少しだけ引っ張るラシードは、何だか凄く出来る姉のようだ。前世も今世も一人っ子だったから“お姉ちゃん感”にちょっぴりときめくぞ。ちょんちょんと私のソバカスを数えるように長い指が視界に映り込み、つつかれたところがむず痒い。
「――……次は、頑張って憶えます」
「はい、よろしい。それじゃあもう一回丁寧に教えてあげるから……そうね、実際にお化粧していきましょう。鏡も小さいけどアタシが持ってるから、アンタはこの鏡持ってそっち向きなさい。アタシが後ろからお化粧していくから、分量と手順を憶えるように。良いわね?」
「了解です、ラシード先輩!」
「あらぁ~、良いわねぇアンタに先輩呼ばわりされるのも。良いお返事だわ。こうなったら元・プロの腕前しかと見せつけてやるわよ~!」
燃えるオネエさんと喪女の女子道を求める戦いがいま始まる――!
取り敢えず古びたベンチを跨ぐように後ろに座ったラシードの前で、私も鏡を覗き込む。
流石にここでは私の持っている星火石の首飾りの光量では足りないので、四日前のお買い物の時にちょっと石に欠けがあるからという理由で、他より安くなっていた星火石ランプを購入した。ラシードがデコレーションしてくれたお陰で、元の売り物だった時より格段に可愛い。
センスのある人っていうのは何でも出来るなぁ。魔法らしい魔法がないこの世界だと、こういう才能は前世と同じで憧れの対象になるもんね。
「はいはい、ランプが可愛いからってそっち向かないの。アンタが見るのは鏡の中の自分の顔よ。そうだ、せっかくだから仕上がったら“鏡よ鏡……”ってやつやりましょうよ。それっぽくて面白そうだわ」
「えぇ? 子供っぽいよ」
「良いの良いの。それに遊び心は大事なのよぉ? 騙されたと思って言ってみなさい。さて、それじゃあ一番最初の一液から。これは掌にこれくらい載せて――……」
耳許で囁かれる甘い声音にもだいぶ慣れてきたせいか、鏡に集中出来る。この色気の塊みたいな友人に慣れるとは……自分が恐ろしい。それとも単にそういう可愛らしい乙女回路が死んでいるのか。たぶん後者だな。
元・本職の素早く肌に化粧品を塗り込めていく指先と、鏡の中の自分から視線を逸らさないように、私はいつもは眠たげな瞳をグッと開いて意識を集中させた。
――――三十分後。
「おぉ……鏡よ鏡、この世で一番美しいのは誰だい?」
「そ・れ・は・勿論アタシがメイクアップしたルシア様でございますぅ!」
「ぶっ……あははは! やだ、裏声気持ち悪い! 見てよ、鳥肌立ってる」
「なぁんですって~? このちんちくりん、前髪逆立てるわよ」
「調子に乗ってすみませんっしたぁ!」
私達が当初の打ち合わせ通り爆笑しあっていると、背後から「何をやっているんだ、まったく」と呆れた響きを含んだ声がした。
「あらスティルマン、遅かったじゃない。申請ちゃんと通ったの?」
「……遅かったはないだろう。それに本来学年が上のラシードが届出を提出した方が早いと最初に言ったはずだが?」
「そうだったかしら。ゴメンナサイね?」
振り向けない私の背後で「まったく……」と推しメンが苦々しい溜息を突く音が聞こえ、ラシードが「眉間の皺が酷くなると老けて見えるわよ」と余計な一言を添えている。
「それで結局ここの使用許可を取るのに何で提出したの? もう学園でウケが良さそうな部活の数は足りているものね。新しい部の新設は難しいでしょうし、何よりも人数が足りないわよ」
「ああ、だと思っていたから部ではなく同好会で申請してきた。そもそもここを遊ばせていたのも園芸部が廃部になったからだそうだしな。火気の使用は厳禁だが、綺麗に清掃して使用する分にはどう使おうが構わないと言っていた」
背後で繰り広げられる会話に聞き耳を立てつつ、その会話に振り向いて混ざる勇気が出ない。お化粧したのは転生してから初めてのことだし、いざ勇気を出して振り返ったところで推しメンに“似合わない”と言われたら立ち直れないぞ……。
しかしいつまでも背中を向けているわけにもいかないし――どうすれば良いのでしょうか鏡さん! 咄嗟に私は星火石ランプの光りを手にした鏡で反射させて、鏡の精ことラシードの目を狙う。
すぐにその緊急信号に気付いたラシードが、推しメンに聞こえないように身体を捻り、私の耳許に唇を寄せると「大丈夫よ、このアタシが可愛くしてあげたんだから。自信持って振り返りなさい」と悪戯っぽく微笑んだ。
その言葉に鏡の中に映る自分の顔を見つめる。ソバカスのない顔はいつもより愛嬌が薄れて少しだけ賢そうに見えるし、額の傷もお化粧のお陰でうっすらとしか見えない。あちこちに飛び跳ねていた髪は、ラベンダーの香りの整髪クリームで整えられて落ち着いたウェーブに見える。
ちょっとだけ櫛で逆立てるように梳いた前髪は、良い感じに額の傷の上に被さって目立たなくしてくれていた。襟足は内側に向くように毛先を捩ってあるので広がりも少ない。そのせいか多少首が細く見える。
……鏡の中の私は美人ではない。それでも前よりは可愛らしく見えた。
うん、そうだよね。何もしないでいたときよりは断然手間暇かけた今の方が可愛いはずだ。それに背後からいよいよ不審に思ったのか「ルシアはさっきからずっと黙りだがどうしたんだ?」と訝しむ推しメンの声。
私は意を決して鏡に「私は美人?」と訊ねた。調子に乗ったわけでも血迷ったわけでもなく、要は気分の問題です。それに対して鏡からの答えは「勿論よ」だ。力強く頷き合い、腹を括る。
次の瞬間私は勢いよく振り返り、推しメンに向かって最大級の“笑顔”を浮かべて訊ねることにした。何をって? 勿論そんなことは決まっている。
「スティルマン君、結局その同好会申請って一体何の同好会として提出したの?」
振り返った先で推しメンが少しだけ目を見開いたのと、呆れた表情をしたラシードからの「ホント意気地なし」と言う呟きが飛び込んできたのはほぼ同時だった。




