★☆ 双雪祭の対となる日に。
一月某日。
分厚いコートの上からさらに幾重にも毛皮をかぶり、真っ白な雪景色の中を依頼者の元へ走る。この季節は仕事が増えて稼ぎは良いものの、家を空けることが多くなるのが困りものだ。
ルシアは『それだけクラウスの星詠みが、天候に振り回される皆の役に立ってるんだよ』と笑うが、皆だの誰かだの、本当はそんな有象無象の役に立つことなど望んでいない。
ずっと家にいてルシアと星を詠む練習をする方が……いや、むしろ練習などせずにずっと俺に頼り切ってくれる方が良い、ルシアとそのほんの周囲の人間にしか興味がないと言ったらどんな顔をするだろうか。
まぁ将来的に親になるのなら苦労はさせたくない。相応の蓄えが必要なので、四の五の言わずに馬車馬の如く働くしかないのだが。義父が聞けばきっと『こんなに幸せな労働なんて、世界広しと言えどもうちだけだぞ』と言いそうだ。しかし同感ではある。
――と、雪上を軽快に走っていた犬ゾリを操っていたヴォルフが、徐々に速度を落としていく。どうやらそろそろ小屋での休憩に入るらしい。
風を避けるために深く座っていた身体を起こし、ゆっくりと止まったことを確認して降りた。雪の上に腹這いになる犬達の頭を撫で、褒美の干し肉をやってから小屋へ入る。暖炉に火を点けている間に表で大鍋に雪を汲んだヴォルフが戻ってきた。
大鍋を火にかけてから沸くまでの間は特に何もすることがない。お互いに思い思いの場所に腰を下ろして休憩をする。ヴォルフは懐から煙草を取り出し火を点け、俺はステッキをテーブルに立てかけて横の椅子に座り、ベルトに帯状にした目の粗さが違う鞣革を下げた。
本来は刃物研ぎの仕上げなどに使うものだが、ここ最近覚えたある作業に必要なものだ。次にベルトにつけたポーチからヤスリを数種類、そして布にくるんだそれを取り出してテーブルに広げる。
どれも前々回の仕事で一緒になった隊にいた職人達から買ったものだ。移動中に道具の使い方と研磨の方法を教わってから、ずっと練習を続けている。最初は安い素材から始めて、徐々に質の高い素材を試していくように言われたので、今はまだ安い素材ばかりだ。
歪な形と大きさもまばらなそれらの中から、比較的まだマシな出来の物を摘み上げ、目の細かい鞣革で力を込めて磨く。表面に傷が入り鈍い輝きしか持たなかったそれが、僅かに滑らかな輝きを放った。それだけで寒さでかじかんでいた指先が温もる気がする――が。
「ヴォルフ……何か言いたいことでもあるのか?」
「あー、じっと見てて悪かった。ただな、最近休憩中と夜に星詠みするまでずっとそれやってるが、星詠み師辞めて石の研磨師にでも転職するのか?」
「別にそういうつもりはない。これはただ来たるべき日に備えてるだけだ」
「備えるったって……何にだよ、物々しいな。おまけに使ってるのが星火石だろ? 等級を問わなければそんな高いもんじゃない。素人がわざわざ磨かなくたって買えば良いじゃねぇか」
そう言って眉を顰めるヴォルフの胸元には、俺がルシアに贈った星火石の首飾りが揺れている。自分が贈った物が人手に渡るのは気分が悪いものの、この首飾りのおかげで命が助かったのも事実だ。しかし屈強な男の手元に渡った複雑さはずっと残る。
「普段ならその言い分に全面的に賛成だが、これは素人の俺がわざわざ磨くことに意義があるんだ」
手持ち無沙汰なのだろうが、やたらと絡んでこられると作業にならない。邪魔だと分かるようヴォルフを睨むと、両手を上げて「はーん、さては嬢ちゃん絡みか」とにやにや笑う。
その通りではあるものの余計な詮索はあまりされたくない。かといってこの男をここで適当にあしらえば、領地に戻った時にルシアに直接尋ねかねない。仕方なく「そうだ」と答えてから、それだけだとルシアを相手に口を滑らせそうなので、渋々「双雪祭に贈る」と続けた。
「それはまた気が早いなおい、まだ一月だぞ? それにそれならやっぱり本職の研磨師に頼んだ方が良いだろ。嬢ちゃんだってあれで貴族なんだ。きっと市販品を寄越すぞ。第一素人がやったところで磨きが足りねぇ、光源としては心許ない歪なのが出来るだけだ。あ、それともこれ返すか?」
悪気のない駄目出しと無神経さが少々苛つくも、本当に首飾りを外そうとするヴォルフに向かって首を横に振って見せる。
「必要ない。ルシアは必ず手作りの物を用意してくれている。だからこそこちらも素人だが、少しでも良い物を贈れるよう今から練習しているんだ。第一、一度他の男の肌に触れたものなどルシアに返せるはずがないだろう」
「だとしても星火石の首飾りなら、一回贈ったことのあるもんだろ? 別のものを贈った方が喜ぶんじゃないのか?」
「彼女は星火石が好きなんだ。暗闇を照らす星のようだと気に入っていた。それに一点ものだと留守中の虫除けにもちょうど良いだろう」
「あ、あー……成程なるほ、グフッ、クヒヒ、ハーハハハッ! 双雪祭に手作りの品がもらえる自信はあるくせに、嫉妬はするんだなぁ坊っちゃん!」
「もう何でも良いから黙っていてくれ。時間がないのに気が散るだろう」
やはり話すのではなかったと後悔しながらも、こうしている今この時も、家で帰りを待つオレンジの香りを纏ったルシアを思い浮かべれば、無神経なヴォルフの言動も不思議とそれほど腹立たしくはなかった。
***
本日は三月二十二日。双雪祭の時と立場が逆転する対雪祭当日。
この日だけは絶対に仕事を入れないように調整していたため、ここ最近では珍しく朝からずっと領地での仕事を手伝えた。ルシアの機嫌も上々で、今は夕食後のお茶のためにあのオレンジピールと、ラシードが贈ってくれたチョコで作ったオランジェットを用意しにキッチンにいる。
こちらは先に珈琲と紅茶のセッティングをし、らしくもなくそわそわしながら彼女が戻ってくるのを待っていた。
スラックスの左ポケットには、昨日届いたカーサとラシードからの手紙が入っている。曰くカーサからは〝いいか、今日のルシアの笑顔はクラウスにかかっているぞ! 死ぬ気で勝ち取るんだ!〟であり、ラシードからは〝余計なことは言わずに、素直に贈れば良いわ〟とのことだそうだ。
そして右ポケットには――……学生時代に初めて贈った素朴なものより、さらに不格好な星火石の首飾りがある。流石に石に孔を開ける作業だけは自分でやるのが恐ろしく、五日前に町の宝飾品工房で開けてもらった。
台座となる金具とチェーンもそこで購入したものの、王都の工房とは違い銀製ではなく真鍮製だ。正直見劣りはする。しかし今自分が持てる技術と想いの全ては出し切ったと思う。
深呼吸をして待っていると、オランジェットを盛り付けた皿を手に、ルシアがキッチンから戻ってきた。
「あれ、クラウスってば座って待ってれば良かったのに。それともそんなにこのオランジェットが楽しみだったのかな〜?」
「あ、ああ、まぁ、そうだな」
「そっかそっか。そこまで喜んでもらえると嬉しいなぁ。とは言っても半分はラシードのお手柄なんだけど」
「いや……素材を提供したのがラシードであっても、作ってくれたのはルシアだろう。ならこのオランジェットの手柄はルシアのものだ」
「おお、手柄総取りしちゃった。ラシードには悪いけど、クラウスがそう言ってくれるならそうしちゃおっと。そうと決まればほら、座って座って」
くるくると良く変わる表情に魅入っていたら、いつの間にかソファーに腰かけさせられていた。すると隣に座ったルシアが「それじゃあどうぞ召し上がれ?」と、皿から摘み上げたオランジェットを手に微笑む。
目の前に差し出されたそれを唇で迎え、少しずつ口内で咀嚼すれば、ふわりと爽やかな柑橘の香りが広がり、上質なビターチョコがその甘さの余韻を引き締める。極上の代物だ。
果たしてこれに右ポケットのアイテムが釣り合うだろうか。そう一瞬臆病風に吹かれたが、すでに新しいオランジェットを摘んで待ち受けているルシアを見たら、肩から余分な力が抜けた。
これは双雪祭を教えてくれたこの暢気な妻は、今日が対雪祭であり、自分にも与えた分の愛情が返ってくると思っていない様子だ。
何たる傲慢。
何たる謙遜。
何たる屈辱。
だというのに……どうしてこうも愛おしい。
差し出された二本目のオランジェットをルシアの指ごと口に含み、目を見開いて驚く表情から一転、口づけをされると思って慌てて目蓋を閉じる姿に笑いそうになる唇を、その唇に重ねながら右ポケットに手を滑り込ませて。
角度を変えての口付けで彼女があたふたしている間に、その細い首筋へこの不格好で捻くれた愛情と執着の証を贈ってしまおうか。




