☆★ 双雪祭は甘くて苦い。
窓から入り込む陽光に照らされて輝くオレンジ色のブツを一本手に取り、ちみりと噛じる。その瞬間にぶわりと口内に広がる柑橘の香りと苦み、それを引き立たせる砂糖の甘さ。グラニュー糖は敢えてかけずにツヤツヤ感を重視した一品の完成だ。
「うむ……もしかして、私ってばオレンジピール作りの天才では?」
いや、勿論そんなわけはない。ここに至るまでのトライ・アンド・エラーで出来た元オレンジだったもの達は、全て父様のお腹の中に隠蔽済みだ。あの娘と妻が命の父様が『しばらく柑橘類は食卓に並べないでほしいなぁ……』と言うくらいだからね。
何キロ単位で食べさせたか定かではないものの、母様の『娘が初めて挑戦するものの実験体になれるのは、父親の特権ね』という言葉も後押しして、農家さんの軽トラック一台分くらいは食べさせてしまったかもしれない。ありがとう父様。娘のために尊い犠牲になってくれて。
「ふっふっふ、練習量は嘘をつかないってね。オレンジピールはこれでよしと。でも一番の問題が解決してないんだよなぁ」
爽やかな柑橘の香りと、若干の砂糖が焦げた際のカラメル臭が漂う実家の台所で、銅鍋に水を張りながら残り少ない日数に思わず唸る。前世でいうところのバレンタインデー、こちらでいうところの前世の双雪祭までもうあと一週間を切っているのに、肝心のチョコレートが手に入らないのだ。
これでも前世よりは遅めの二月二十二日と準備期間はあったのに、今年は雪が例年よりも多くて流通が滞っているせいで、その利点も飛んでいってしまった。そもそもが普段大雑把な料理しか作らない私の対極をいくお菓子作り。
前世では学生時代も興味がなかったし、ましてや会社の女性社員で部署内向けにバレンタインをやると言われても、正直面倒くさいというか、相手側もお返しに困るだろうにと思って敬遠していたのである。
でもこの世界に転生して、まともな両親を得て二人の毎年のやり取りを見て育ち、推しと学生生活を共にし、結婚してから考えが変わった。好きな人に思いを伝えるイベント、大変よろしいじゃないですかと。
王都にいた去年までなら、こんなことをしないでも美味しい既製品が当たり前に手に入った。勿論食材としても売っていた。けれどそれは偏に都会だったからである。しかし悲しいかなうちは人間よりも牛が多い。
そんなお洒落さよりは実利を取る田舎で、小麦粉とバターと卵と牛乳と砂糖があれば大抵のお菓子は作れるのに、高級食材であるチョコレートを卸している店舗などない。
領内でも大きめの雑貨屋に注文すれば届くだろうけど、わざわざ私一人分だけ注文したら仕入れ値が高くついてしまう。だとしたら商売人としてはそれなりの量を注文する。でも大体は小さい頃からの付き合いで結婚する土地柄だから、今更特別感を出して双雪祭を祝ったりしないだろう。
店主は領主の娘が注文したら嫌とは言えないに違いない。となれば確実に店側のデッドストックになる。食品のデッドストックは即ち死。如何に領主の娘と言えどもしていいことではない。
「やっぱりラシードに頼めば良かったかな。でも親友とはいえ、結婚してから初めての双雪祭に手作りチョコ渡したいから、製菓用のチョコ送っては恥ずかしくて言えないし……絶対墓に入るまで弄られるもんね」
一瞬脳裏に『初めてのバレンタインなら、オランジェットなんて駄目よ。アルミカップに板チョコ溶かして、アラザン載せた女児チョコでしょ』と笑うラシードが浮かんだ。確かにあれは入門編としては鉄板。コーンフレークとナッツ入りもあるとちょっと上級者。
でも残念、私は乙女ゲームでクラウスが攻略キャラに昇格していたら、まず間違いなく好物欄に載ったであろうものが作りたいんですよ。推しの好物プレゼントスチル欲しい。モブ令嬢から妻に昇格した今なら、絶対良い表情を見せてくれるに違いがないんだ……!
浮かれて浮つきまくっている自覚は有り余るほどある。現にクラウスが仕事で不在であるにも関わらず、家の台所で練習したら匂いでバレるから、サプライズにならないと思っての実家。
その成果の集大成が今日完成したオレンジピール。あとはこれに湯煎で溶かしたチョコを絡めて固めるだけなのに。とはいえ、黄金色に輝くオレンジピールを前に項垂れていても仕方がない。こうなればあるもので最高のパフォーマンスを目指そう。
「ココアだけはなんとか手に入ったんだし、ココア生地に刻んだオレンジを入れてココアクッキーでも焼こうかな……」
普通のクッキーなら焼いたことがある。自分的黄金配合も完成済みだ。現にカーサへの友チョコは、日持ちのするようやや固めに焼いたクッキーにした。ラシードは親友だけど友チョコはなし。
理由はヤキモチ焼きな推しの存在である。クラウスの嫉妬を受けるのなんて、私にとってはただのご褒美にしかならないけど、カーサからチョコをもらうことを考えて遠慮しておいたのだ。
代わりに刺繍入りのハンカチは二枚添えて、一週間前にすでに発送済み。送るのが早すぎかとは思ったけど、雪での遅延を考えればそれくらいがちょうど良い。あと数日で彼女達のいる王都に届くことだろう――と。
「ん……いやでも、待てよ? ココアパウダーとピールが入ると、粉とバターの配合比も変えないと駄目か」
そんな新たな気付きに慌てて小麦粉とバターとココアパウダーを引っ張り出し、この瞬間父の三食を全部ココアクッキーにする酷い誓いを立てる娘を、どうかお許しください星女神。
***
本日は二月二十二日。双雪祭当日。
父様から『しばらくは……ココアも食卓に出さないでほしいなぁ……』という言葉を得て、完成したるはオレンジピール入りのココアクッキー。あそこから追い込みで習得した割には、なかなかの出来映えだと自負している私の元にそれは届いた。
「カーサから……小包?」
「ああ、ちょうどヴォルフのところからの仕事帰りに預かった。ご丁寧にカーサからルシア宛だから勝手に開けるなとのメモ付きだ」
そう苦笑しながら外套の雪を払うクラウスの言葉に少しホッとしつつ、内心冷汗をかきながら受け取った小包を抱きしめる。まだ仕事人間のクラウスに今日が双雪祭だとはバレてない。
「中身が何だったのか、カーサには悪いがあとでこっそり教えてくれ」
「え、えぇー? 悪い旦那様だなぁ。新妻同士の秘密が知りたいなんて」
「妻の関心を買うのはたとえ親友であっても妬ましくてな」
「はあぁぁぁ……何その病みぶり好き。うちの旦那様超可愛い。一生愛すわ。でも中身は教えませーん」
「はははっ! それは残念だが嬉しいことだな」
「喜んでくれて私も嬉しいよ。てことで夕飯の仕上げがあるから、手を洗って着替えて待っててね」
私の推しが今日も健やかで可愛い。世界平和はここにあったのか――とか思いつつ、気合で顔面が溶けないように気を引きしめて一旦台所へと引っ込み、そーっとカーサから届いた小包を開けてみる。
中身は思っていた通り私への友チョコだった。可愛らしいビオラの髪留めも添えられている。メッセージカードには、髪留めがカーサとのお揃いであることが記されていた。これからの季節に使いやすいし嬉しいな。
肝心のチョコはどんなだろうと思って開けてみた瞬間、良くない考えが頭を過ぎってしまった。恐らく有名店のものなのだろう、綺麗な花の形に整えられたチョコレート達。量も結構あるのか箱の分厚さから二重底になっているのが分かる。よほど味に自信があるのか、見た感じだとすべてフレーバーらしきものが入っていない。
もしかして――これを湯煎で溶かして残っているオレンジピールを絡めれば、クラウスの好物であるオランジェットが出来るのでは?
「いや、いやいやいやいや……それは駄目でしょう。カーサからの友チョコをそんなことに使ったら。正気に戻れ私」
一瞬でもそう考えてしまったことに動揺して独り言が出る。よく伸びる頬を抓って自分に罰を与え、小包を食器棚の奥に隠した。その後は胸に過った感情に罪悪感を抱いたままシチューを完成させ、クラウスと一日の出来事を話し合いながら夕食を楽しんだ。
そしていよいよ夕食も食べ終え、二人でのんびりくつろぎながらお茶を楽しむ時間になった。いつもならここで糖衣を絡めたアーモンドや、ドライフルーツ、ビスケットなんかを食べるけど――今夜は双雪祭だ。
台所の食器棚に隠したカーサのくれた友チョコは、もっと心が綺麗な時に開けてクラウスと分けるとして。先に二人分の珈琲を淹れてリビングで待ってくれていたクラウスに、用意しておいた素朴すぎるオレンジピール入りのココアクッキーを差し出した。
受け取った瞬間「これは?」という彼に、やっぱり分かってなかったなと微笑ましく思いながら「今日は双雪祭だよ」と言えば、クラウスは嬉しそうに「ありがとう」と笑ってくれる。欲しかったはずのその表情を見て、おかしな話だけど何だか泣きたくなってしまった。
「ごめんね」
「何故謝るんだ?」
「今年はクラウスの好きなオランジェットじゃないからさ。チョコレート探したんだけど、うちってば田舎だからどこも卸してなくて」
「ルシア」
「王都だったらすぐに美味しい既製品だって買えちゃうんだけど、双雪祭自体あんまり広まってないくらいで」
「ルシア」
自分の今世の故郷が好きだ。大好きだ。それなのにたったチョコレートが手に入らないくらいで、こんな劣等感に苛まれる自分が嫌だった。だけど長らく王都の近くに領地を持っていたクラウスに、不便を感じさせるのも嫌だった。
「牛の方が人間より数が多いくらいだし、あの……田舎でごめんね」
一度堰を切ったら止まらなくなった卑屈な言葉に嫌気がさして俯けば、隣に座っていたクラウスが立ち上がる。呆れて席を外すつもりかなと思っていると、何故か彼は床に跪いて私の顔を覗き込んできた。
そしてきつく服の裾を掴んでいた私の指を一本ずつ解くと、代わりに自身の指を絡めて、こちらを真っ直ぐ見据えたまま口を開いた。
「あのなルシア、俺はもう一ヶ月以上前から、ルシアがオレンジピールの試作をしてくれていたことを知っていたんだ」
「え……?」
「ルシアは必死で練習していたから気付かなかっただろうが、あれだけ服や髪や肌から柑橘の香りがして、暦を気にしていれば分かる。俺のために頑張ってくれる姿が嬉しかったから、今日まで驚く準備をして待っていた。でもそれはこういう驚きではない」
そう言いながら指を絡めた手を持ち上げたクラウスは、まだ事態が飲み込めていない私の手の甲に口づけを落とす。領地に吹く寒風で少しカサついた彼の唇の熱が、手の甲から腕を駆け上がって、単純な私の頬へと熱を宿していく。
「オランジェットは確かに好物だが、別にどうしてもそれが良いわけじゃない。ただルシアが俺を想って俺にだけくれるというのなら、それが毒薬だって構わないんだ。ましてや今回は義父上を犠牲にしてまで焼いてくれたクッキーだろう? 嬉しくないわけがない」
目許を赤く染めてはにかむクラウスの顔がだんだんと歪んでいく。そんな私を見た彼はさらに笑みを深めて。
「ラシードからの伝言だ。〝カーサから届いた箱の二段目のチョコは、自分からだから溶かしてオレンジピールに絡めると良いわ。どうせあんたのことだから、作って持て余してるでしょう親友?〟だそうだ。まったく……妬けるな」
私の纏う甘い柑橘の香りと、クラウスの纏う苦い珈琲の香りは、きっと足して割ってもまだまだ甘い。




