◇8◇ この一戦で、決別を。
“拝啓・父上、母上。前回の食事会での一件以来連絡を絶っておりましたが、ご健勝でしょうか。こちらは日々鍛錬に精力的に取り組み、当家の恥とならぬように邁進致しております。――と、回りくどいことは苦手ですので用件を手短にお伝えさせて頂きます。この手紙が到着しました二週間後に、ワタシの婚約者との手合わせをお願いしたく存じます。もしも受けて頂けない時は、家を棄ててでも彼と添い遂げるつもりです”
――というような過激な文面の手紙をラシードとルシア、それから途中参戦のクラウスと一緒に練り、実家に送りつけてから早二週間。今日が手紙で指定しておいた約束の日だった。
前回の食事会で啖呵を切って別れて以来、初めての顔合わせになる。そのせいで朝から試合当日でも感じたことのないほど緊張し、目眩と頭痛がした。手紙を出した直後から睡眠不足はもとより、あまり食欲もないのだが、ルシアが『しっかり食べて寝ないとせっかく順調な月の障りが出なくなるからね~』と言って、毎日クラウスと一緒に食事に誘ってくれた。
ラシードはその間ずっとお店での仕事と、学園側に無理を言って開放してもらっている鍛錬場での剣の最終追い込みで忙しく、手紙の文面を考えに集まって以来、あまり顔を合わせていない。
そのせいか、王都に来て仲直りしてからは片時も離れない幸せそうな親友夫婦に、ちょっぴり嫉妬してしまう。
嫉妬を心の中にしまっておけない質のワタシが二人に『こっちはまだ成功するかも分からないのに……そんな幸せの見本を見せつけてくるなんて、狡いぞ』と理不尽な不満をぶつけてしまった。
すると一瞬だけ目を瞬かせたルシアは、すぐに苦々しく溜息を吐いて――、
『私に言わせればさ、カーサ達がここまで順調すぎたんだよ。恋に障害は付き物とかってよく言うけど、あんなのないならそれに越したことないもん。カーサ達はこれが最初で最後っぽい恋の障害なんだから文句言わないの』
と、呆れたように腕組みをしながら言われてしまい、その言葉にこれまで彼女が切り抜けた恋の障害物の数々を思い出して納得する。
それからはルシアと一緒になって、色々あった学生時代の恋の障害について熱く語っていたのだが、そのせいで隣にいたクラウスがいつの間にかその場から姿を消していることに気付くのが遅れた。
けれどルシアはそのことに気付いてもほんの少し苦笑しただけで。まだ不安に囚われたままだったワタシに向かい『でもまぁ、この障害物を乗り切るのも恋の醍醐味だからさ。それでもしも困ったことがあったら、私達を頼ってよ!』と頼もしい言葉をくれたのだ。
その親友達は今、ワタシの背後で息を殺して約束の時間がくるのを一緒に待っていてくれている。風と鳥の声以外の物音はほとんどしない。今日勝負の場所に指定したのは、クラウスが以前世話になったらしい犬ゾリ便の人間達が休憩所として使用する小屋のすぐ傍にある野原だ。
一応非公式であるとは言え、ベルジアン家の当主と、その一人娘であるワタシの婚約者との一戦。誰の邪魔の心配もない場所で試合わせたいという思いと、もう一方でどちらの負ける姿も他人に見せたくないという思いがあったのもある。
この二週間、あの父上が負けるという場面を何度も想像してみたものの、どうしても想像が出来ずにどの想像でも引き分けか、ラシードの負ける姿を思い浮かべて不安になった。
ラシードは父上達をここまで先導するために、ここから少し先にある小さな村の入口付近で待つと言い出したので、現在単独行動をして迎えに行ってくれている。
ワタシはもう朝から何度目になるかという時間の確認のために、胸元から取り出した懐中時計を開こうとして――……直後に馬の蹄が地面を蹴る音と振動が近づいてくるのを感じ、その蓋を閉めた。
すると背後にいたルシアとクラウスがワタシを守るように両端に立ち、段々と馬蹄の音が大きくなる方角を見据え、三人で固唾を飲んで到着を待つ。一番最初に見えたのは、ラシードが乗って行った濃い栗毛の牡馬で。
次にその後ろから現れたのは先の栗毛馬よりも二回り大きな馬体をした、父上の愛馬である夜空の色をした黒馬だった。馬上には父上の身体に寄り添うように母上の姿もある。
身体の弱い母上をこんな場所まで連れて来たのかと、内心穏やかでない気持ちにはなったものの、呼び出したのは他でもないワタシだ。ここまでの道のりと、今日の結果次第で体調を崩さないで欲しいと思いながら、一度心を鎮めるために目蓋を閉じた。
両側から背中に掌を当ててくれる親友二人の体温に、安堵を感じる。全体的にそう体温の高くない方がクラウスで、指先だけが少し冷たいのがルシアだ。
そんな時ではないのにクスリときてしまったワタシに、二人が「そうそう、何事も余裕が大事だよ。怖がってたら駄目」「何事にも最悪の結果を想定しておくべきだが、悲観しすぎるのも考えものだ」と真逆の心得を指導してくれるあたりで、堪えきれずに噴き出してしまう。
そのおかげでフッと身体から余計な強ばりが抜け、目蓋を持ち上げる頃には背筋を伸ばして、馬上から降り立つ両親を真っ直ぐに見つめることが出来るくらいに冷静になれた。
「あら~、三人ともここで待っててくれたのね。でもわざわざここで待っててなくても、小屋の方で寛いでくれていたら呼びに行ったのに。試合を見る前に疲れたんじゃないの?」
そう言ってさり気なく手の甲で頬を撫で上げ、ワタシを安心させようとしてくれることが嬉しくて、両隣の二人からの「「こいつ、もう勝負に勝った気でいるのか」」という息のあった突っ込みが気恥ずかしかった。
そんな二人に対してラシードは「ふふ、そうよ。どんな時でも成功を思い描ける者が勝つの。アタシの中ではこの二週間ずっと完勝だもの」と悪戯っぽく目を細めた。まるでワタシの不安を見越したような発言に、思わず胸が熱くなる。
するとラシードは「あら、まだ涙は取っといて頂戴ね。どうせ泣かれるなら勝った後の方がドラマチックじゃない?」と色気たっぷりに微笑んだ。
こんな時でも本気なのか、冗談なのか分からない余裕のあるラシードや、両側で「うわぁ、自信家~」「こんな時でもなければ、一度痛い目を見ればいいと思った」と苦笑を漏らす親友二人に支えられてここまで来た。もう後戻りは出来ないし、するつもりもない。
――――覚悟は、決まった。
ワタシは居心地の良い三人の囲いを解いて、こちらを見ていた両親の方へと一歩ずつ歩む。
「カサンドラ……お前は自分の出しておいた婚約者の選定方法も、婚約を認める条件だった食事会も開かずにいたかと思えば、いきなり自分の婚約者と手合わせをしろだと?」
久々に耳にした父上の声は、やはりワタシを畏縮させるに充分な重みがあって。その隣に佇む母上の儚さは、今回のことで心配をかけることが申し訳なくなるものがあった。
「はい、その通りです父上。お送りした手紙にもそう記しました。それとも……今日はそのおつもりでいらして下さったのではないのですか?」
思っていたよりもはっきりとした声が出たことに安心するワタシの前で、父上が眉間に深い皺を刻む。以前までなら怯んでしまったその表情に、今はもう動じない自分がいた。
「いいや、そうではない。それにあんな手紙を受け取って、出向かない親がいると思うのか? わたしが訊いているのは、何故このようなことを急に言い出したのかということだ」
“何故”だとか“急に”だとか、この人は“娘”のワタシの何を見て、知ったつもりでいたのだろうか? それともやはり“息子”としてしかワタシを見ず、跡取りとなる夫を迎える時に初めて“娘”として扱おうと思ったのだろうか?
そう感じた途端に、腹の底から長年に渡って澱のように積み重なっていた憤りがわき上がって。けれど唇から零れた声は、その憤りの熱を持たなかった。
「ワタシは……ずっと、父上と母上の娘になりたかった。物心ついた頃から、ワタシは自分の性別が重荷でした。年頃になってからは“武芸の誉と称されたベルジアン家に娘はいらない”と、いつも空耳が付きまとうようになりました。男になろう、息子になろうと剣の鍛錬に打ち込んでいる間も、どこかで誰かが囁き嘲っているのではないかと――……怖くて、寂しかった」
ラシードが勝つまで、涙は取っておかないと。
そう自身に言い聞かせながら、食いしばった歯の隙間から細く息を吐き出し、ルシアがクラウスに叩き付けた最後通牒を無言の両親に向ける。
「今日ラシードが父上に勝てば、ワタシは彼の妻になる。今日ラシードがもしも父上に負ければ、ワタシはその場で家名を棄てます」
あれだけ認めて欲しくて追いすがった両親を、家名を、棄てると口にした時に、初めて。父上の表情に、威圧的なものではない変化が生まれたように見えたような気がした。
「本日この場において、ベルジアン家当主と、ベルジアン家長子の代理人との一戦を設ける。公平性を期すために、勝敗条件は圧倒的な勝利の場合のみ有効とする。――各々方、善き戦いを」
――――斯くてここに、ワタシが人生で唯一望んだ戦いの幕が上がる。




