◇2◇ 好きも過ぎれば困りもの。
四日にも渡る巡回警備当番を終え、職場から寮に直帰しようとしていたら、入れ替わりで夜の巡回に出る同僚からメッセージカードを受け取った。
渡してくれた同僚は「彼氏さんからメモ預かったよ。良いね、あんな男前に愛されて」とからかわれたが、ラシードからそんな手紙が来るのは初めてのことなので、むしろ胸騒ぎの方が大きい。
前回の……あの、デート……からすでに二週間が経っているが、その間も今回のようなカードの一枚も来ていなかったし、そもそも予定は月初めにお互い仕事の空いている日を指定するから、こんな回りくどいことはしない。
次に会う約束はまだ五日も先だ。もしも都合が悪くなったと言うのであれば話は別だが……その日は私の両親と月に一度の食事会だから、余程のことがあったとしても絶対にどうにかして空けてくれると約束した。
――だとしたら、今回は余程以上のことが起こったに違いない。
その場では適当に話を合わせて別れたものの、寮には戻らずに近くにあった柱の陰でカードを開いた。そして内容に目を通し、胸騒ぎが当たったことに対して苦い気分になる。
“急にこんなメッセージを寄越してごめんなさいね? ちょっと困ったことになったの。今日の仕事が終わったら、お店に寄ってくれるかしら?”
あのラシードがこんな風に困っている事柄に、ワタシがどこまで力になれるのかは分からないが、こうして頼ってくれることが嬉しくないはずもない。仕事の疲れも忘れてそのままラシードの店まで駆けようとしかけて……自分からする汗の匂いで現実に引き戻された。
あの可愛い空間に汗の匂いを纏って入る勇気もさることながら、いつも何か良い香りをさせているラシードの隣に汗の匂いをさせて立ちたくない。少し悩んだものの、一度汗を流して着替えるべく寮へと踵を返す。
汗を流したらラシードにもらった柑橘系の香水と、ルシアのくれたイチゴジャム色の口紅を塗ろう。デートでもないのに浮つく心が、ほんの僅かに面映ゆかった。
約束をしていなかった日に会うとなると、思いのほか支度に手間取ってしまい、ラシードの店に着いた時には日が沈みきっていた。寮長に今晩は遅くなる旨の届けを出すと、意味深な含み笑いをしながら受理してくれたが……。
出かけるワタシの姿をじっくりと眺めた寮長は『ふーん、やけに気合いが入ってるわねぇ? ま、もしも今夜帰って来られなくても大丈夫なように、ちゃんと口裏は合わせてあげるよ』と笑った。
べ、別にそういうことを期待している訳ではないし、以前ラシードが『婚前は送り狼になったりしないわよ』と言っていたから、本当に軽い口付けくらいしかされたことがない。
それに今日は困ったことが起きたと書いてあったのだから、そんな甘い空気になるはずがないのだ。でも……口付けくらいは、あるかもしれない。ふと触れそうになった唇に、イチゴジャム色の口紅を塗っていたのを思い出して手を止める。
「き、期待しているみたいで、はしたなかった、か……?」
ぼそりと一人で呟いたものの、店はもうすぐ目の前だ。今更鏡のない場所で唇を拭ったところで目敏いラシードは気付いてしまうかもしれない。
ああ、馬鹿なことをしてしまった。顔から火が出そうな気分のまま、深呼吸を一つ。ワタシは俯きがちに“クローズ”とかけられたドアを押し開いた。
――と、
「カーサ!!」
そう聞き馴染んだ声と共に身体に衝撃を受けて、一瞬後ろにたたらを踏みかけた脚をすんでのところでグッと堪える。背中に回された腕と視界のやや下で揺れる癖のある栗毛に、薄い鳶色の瞳。鼻の頭にはうっすらとソバカスがある、小麦色の肌の親友がそこにはいた。
「ルシア?」
「うん! カーサってばお化粧してる? 美人で良い匂いの親友大好き!」
「ワ、ワタシも元気で行動力のある親友は大好きだが……本当にルシア?」
「そうだよ!! 遊びに来ちゃった!!」
ギューッと抱きついてくる親友を抱きしめ返しながら、お互いに「「会いたかった~!」」と伝え合う。実に三ヶ月と二週間ぶりの再会だ。
しかし視線を感じて顔を上げると、喜んで抱き合うワタシ達を微妙な表情で眺めているラシードと目が合う。まさかとは思うが、困ったことと言うのは――……?
ルシアを抱きしめたまま視線で問うと、ラシードは腕組みをしたまま小さく頷いた。そういえばルシアの姿があるのにもう一人の姿がないような……?
「も~、何が遊びに来たよ。ただの家出でしょうが、このお馬鹿。カーサも仕事で忙しいのに呼び出したりしてごめんなさいね。困ったことって言うのはこういうことなのよ」
そう言って近付いてきたラシードが、ワタシの疑問に答えると同時にルシアの首根っこを子猫でも捕まえるように摘まんで、引き剥がす。
引き剥がされたルシアは不服そうに唇を尖らせて「は~? 家出じゃないです、出稼ぎですぅ!」と憤った。
「出稼ぎ? ルシアが? 領地の経済状況がそんなに悪いのか?」
親友の故郷に何かあったのかと心配になって訊ねれば、ルシアは慌てたように顔の前で手を振って「違う違う! ほら、この間の手紙に書いたでしょう?」と苦笑した。どこか居心地の悪そうなその表情に手紙の内容を思い出して、こちらもつられてしまう。
「ああ……あのクラウスらしくもない無謀な内容のことか……」
「そう、それ。うちの旦那様は私よりもうんと賢いはずなのに、時々度を越してお馬鹿さんなんだよ。父様の口車に乗せられてあんなの待ってたら、いつになるか分からないし……最初からちっとも頼りにされてないなんて寂しいじゃんか」
苦笑の中に隠れていた居心地の悪さを吐露したルシアは、言葉の通り少しだけ寂しそうに微笑んだ。けれど俯いたルシアの頭をラシードがポンポンと優しく撫でると、またいつもの柔らかい微笑みを零す。
そのことに安堵しつつもラシードの方を見上げれば、彼は「だからって何も母と娘で同時に家出することないじゃない?」と耳を疑う発言をする。
驚きに目を丸くしたワタシを見て、ルシアは「ほら、うちは似た者母娘だから。母様がいい加減子離れ出来ない父様に切れちゃって。それはそうとさ、せっかくの再会にここじゃあゆっくり出来ないし。三人でご飯食べにいこうよ!」と薄い鳶色の瞳を輝かせて笑った。
***
「うん、美味しい! 都会のご飯は久しぶりだな~。お金を払って外食すると、こう、経済を回してる感じがする」
「は~……稼ぎに出てきて早速使ってるんじゃないわよ、このお馬鹿」
「本当に割り勘で良いのか? ワタシは寮住まいだからもう少し出したって構わないんだが」
「カーサってば何を言ってんの。結婚してから自分で自由に出来るお金は大事なんだよ~。将来旦那様に愛想尽かして家出する時のために、今からこまめに貯めておきなさい」
「ホントにちょっと、何の入れ知恵しにきてんのよアンタは」
食事時の賑やかな大衆食堂で、大皿に乗って運ばれてきた食事を、めいめいが皿に取り分けて好きに口に運びながら話をする。周囲の声が大きいので自然とこちらも声が大きくなるが、誰もそれを気にとめたりしない。
注文した酒のお代わりが目の前に置かれ、互いに木で出来たジョッキを手に二度目の「「「乾杯!」」」を叫ぶ。直後に木のぶつかる鈍い音に合わせて、エールの泡が飛び散りテーブルの上に水玉を作った。
グーッと一気にジョッキをあおり、ルシアが「えーっと、それでどこまで話したんだっけ?」と口の周りに出来たエールのヒゲを一舐めする。
「む、ルシア、良いところだったのに忘れないでくれ。屋敷の玄関にある姿見に、口紅で“愛のない結婚生活はもう真っ平。二ヶ月で私達を見つけられなければ、離婚します”って伝言を残してきたところまでだぞ!」
「あ、母様の伝言が抜けてた。母様から父様には“気持ちの悪い舅になったアナタを、この先も愛せる自信がなくなってしまいそうよ?”って」
「口紅の伝言……しかも母親と連名でっていうのは面白いわ~。エヴァン様には悪いけど、娘の新婚生活を邪魔する父親には良いお灸になったんじゃないかしら? 流石はメリル様よねぇ」
驚いたことに、ルシアはその伝言を残してから途中までを母君のメリル様と一緒に馬に乗り、道中同じ方角へ逃げては一網打尽にされるからと、馬を降りてそこで別れたそうだ。母君の方はこの街と反対方向にある町へと向かったという。
発案者の母親と、実行に移す娘。その二人に行き先を伝えられたのに領主と娘婿に口を噤み、領主の妻と娘の二人の残していった日程表通りに働く領民達。
この母娘と、彼の領地には貴族の常識が通用しないのかと思う一方で、非常に強く憧れてしまう自分がいた。しかもルシアはこちらに来てからすぐに働き口を二つも見つけて、明日にはそのうちの一つの職場で住み込みをするらしい。ワタシには絶対にない恐るべき行動力だ。
ルシアが言うには我慢出来ないことは色々あるものの、根底はクラウスがお金を作るのに必死なあまり、肝心の新婚生活の方に影響が出まくっていることだと憤っていた。
それというのも、ここしばらくは早朝の仕事を終えるとすぐにいなくなるので、ろくに顔も見ない日が多いこと。
世話になった犬ゾリ便の男達と星詠みを使った事業を始めたらしいのに、そのことで何も相談がないこと。
星詠みの練習も『俺が出来るのだから、ルシアは何も心配しなくて良い』と誤魔化して、以前のように付き合ってくれなくなったこと等々。クラウスは相当にやらかしているようだった。
聞いているうちにルシアの憤りが移ったワタシが「クラウスの元に帰らずに、ワタシの屋敷に来ると良い!」と言うと、ラシードも「釣った魚に餌をやらない男はちょっとね?」と同意してくれる。
そんなワタシ達を見てケラケラと笑うルシアは、さらにお酒のお代わりを注文した。三杯目のジョッキをあおりながら「それでは今夜はラシードの家に泊まるとして、明日からはどうするのだ?」と先を促す。
「明日からお昼間はゴド爺のお店で住み込みしながら働いて、夜は食堂で働くよ。それで一日の仕事が終わったらゴド爺のお店で寝るの」
この発言には一瞬ラシードと顔を見合わせてしまったけれど、絶対に無理もないことだと思う。
「嘘でしょう? アンタが言ってたお店ならアタシ達も一回見に行ったけど……あのお店に寝泊まり出来る場所があるの? アタシに気を使ってるなら、構わないからうちに泊まりなさいよ」
ワタシの言葉を代弁してくれたラシードの声に頷いていると、ルシアはおかしそうに笑った。
「ふふっ、気を使ってもないし、泊まる場所も奥の方に狭いけど休憩に使う居住区域があるよ。ただし寝床はベッドじゃなくてハンモックだけどね。ゴド爺は別に住居があるから、こっちにいる間は好きに使って良いって。ただ浴室がないから、そこはラシードの家のをかしてもらうけどね?」
そう言ってニイィっと歯を見せて笑っていたルシアは、けれど。
ふとジョッキのエールを覗き込みながら、小さく「私には二人以外に頼れる人がいないから……きっとクラウスには筒抜けだと思うし、ラシードの家に泊まったらすぐに足がついちゃう。だから二人にはクラウスがもしも私を探しに来ても、知らないって言ってもらって良いかな?」と呟いた。
……不安でないはずもないのに、いつでも強がろうとするその姿が眩しくて。だからこそ彼女はいつでもワタシの師である人だ。
「ああ、勿論。だが知らないフリくらいならお安いご用だが……馬鹿だなルシア。クラウスに関して言えば“もしも”じゃない」
そう言いながらも同意を得ようと隣を見れば、ワタシの言いたいことをすぐに感じ取ってくれる“婚約者”が「そうそう。アイツは“絶対”探しに来るわよ。それこそ血相変えてね?」と援護をしてくれる。
ルシアに再び笑顔が戻ったことを確認したワタシは、四杯目のエールを注文するために周りの喧騒に負けないように声を上げた。




