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弟 よ ・・・…  作者: でうく
3/10

アスカ

“愛想がいい”と、他人が表現する意味は、こういった事を指しているのかと窓際に身を潜め、思った。


弟の世話を当番制で、孤児院の子達がしてくれる様になったのだ。


アスカは孤児院の中でも羽振(はぶり)の利く子供だったらしい。院長と細君と相談をして、弟に対する子供達の認知を上げ、彼等が弟に興味を懐く様にしたのだ。


弟も(それ)を歓迎した。障碍を持った子供というのは環境の変化や人間に敏感で、なかなか心を開かないと聞いていたが、弟の場合そうではなかった。アスカが紹介を終えると自ら手を伸ばし、握手を求める。一人一人が弟の手を握り、ゆっくりと揺らすのだった。

「・・・・・・!笑った・・・・・・」

どれほど引っ込み思案な子供でも、弟が相手だと随分(ずいぶん)積極的になる様に見えた。主体的・・・と謂うのだろうか。弟の前では皆円満な仲だったし、弟と二人きりの時は、愚痴でも聞いて貰ってすっきりしていた様だ。この様に、弟は孤児院の()えない歯車だった。


弟が手を伸ばすと、いつでも其処には誰かの手が()った。




母と同じ成分が空中を彷徨っている。炭素・水素・窒素・酸素・・・

そんなものは誰だって持っている。だが細菌がどれだけ焼いても絶滅しない様に、母の成分もどんなに焼かれても滅する事は無い。

“母”だと判るその成分が、炭素や水素・窒素や酸素に未だ遺っている。

私は手を伸ばす。此処だよ、私は此処に居ると。肉体も声も失った母が、空気の振動で気がつくよう。

私の成分。私の遺伝情報。私が手を振る。母は空気の振動に揺られて一旦散ばった後、私の手を中心に集合し始める。やがて其は人間の形を成してゆき―――・・・

声帯をつくりあげた。

空っぽの身体に肺と声帯。肺が空気を押し出して―――・・・


「――――・・・ぁ・・・・・・」


若干の声を発す。朧げながら、母は私の名前を発す。私は返事の代りに手を伸ばす。空気を振動させない様に。


母は最後にこう言った。



「・・・・・・を・・・・・・よ・・・・・ろ・・・・・・し・・・・・・・・・・・・」



私は母を掴みかけた。だが原子は私の手をすり抜け、振動で遠くへ散ってしまう。触れられない。私は更に手を伸ばした。でも届かない。

私が手を伸ばすと、其処から何かが零れ落ちてしまう。




「・・・・・・!」

夢を見ていた。白昼夢。皆で授業を受けていた時だった。私は手を伸ばしていた。

「おや、答えてみるかい?」

院長は嬉しそうな声で言っていた。

私は黒板に眼を()った。文字が書いてある。(しか)し咄嗟に何と書いてあるか読めない。原子が私の邪魔をする。

何を訊かれているのかもわからなかった。

「・・・サカナ・だよ」

隣に(すわ)る子が私に囁く。併し私は(かぶり)を振った。答えたくない。

声帯を震わせるのが嫌だ。母が遠くへ()ってしまいそうで。

隣の子が私の肩を揺らす。私は不意に泣きたくなった。どうして言わなくてはならないのか。私は答えを求めてなどいない。

「ロミ。いいよ、ありがとう」

院長が隣の子に礼を述べる。空間が奇妙に歪むのを感じた。


アスカが手を挙げて


「先生。サカナです」


と、間髪入れずに言う。其から脱線する事無く授業は進んだ。


あぁ、やっぱり兄弟なのだと言う声が、教室の端々から聞えてくる。私は髪を掻きむしる(つい)でに、窓際に横たわる弟の姿を見た。


―――弟は、宙に向い手を伸ばしている。




―――原子・否其は幻覚なのか―――私にはもう、その違いもわからない。

私にしか視えないその物質。併し私の弟だけは、その物質が視える様だった。否(むし)ろ、私と弟にしかその物質は視えない様で



「・・・叉あの人、別のとこ見てる」



変人としての認知度が、高まっていった。



「あの人、あの子と兄弟なんだろ。何か二人して共通のモノ、()えてるんじゃねぇの?」

弟は見目、あの世に近い。心霊兄弟と称されて、無気味な対象として見られていた時期もあった。


(くう)に向かって、手を伸ばす。いつ如何なる時何処ででも()った。そうする時、弟の脳味噌は基底核付近の原子がいつもより多く、安定して流れているのだ。手を伸ばせば母に届きそうで、私も安心した。

併し私は、余りに有名になり過ぎた。容姿も弟の幼さを除いて酷似していたものだから、私にとっても、弟にとっても、私の存在が広まる事は他人に知られるよい目印となる・・・いじめが、始ったのだ。




当番制で弟の世話をする事に対し、不平を(いだ)く者が出てきた事から、この問題は浮上した。不平を懐く事自体は仕方の無い事だとして院長も当初は手を出せずにいた。実の兄が、何故弟の世話をせず他人がするのか。院長は基本、私に対しては放任で通していた。

「お前、実の兄貴だろ。どうして遣ってやらないんだよっ」

・・・後になって聞いた話だが、兄弟揃っての孤児院の入所は私と弟だけだったらしい。他の者達はきょうだいも()なく、また預けられたという記録も無い。両親の行方も分らず、親類も在ない、独りぼっち。だから家族を自ら手放そうとする私に、腹を立てていたのかも知れない。

「・・・・・・」

私は何も言わなかった。どれだけ怒鳴られても、髪を引っ張られても、私の心には響かない。痛くなどない。頬が腫れて紅い(ヘモグロビン)が口から流れても、単に酸素と結合した鉄が体外に出てきた。そうとしか思えなかった。

「何とか言えよっ!」

そう言って私に手を伸ばす男の子は、弟が手を空へと伸ばしたその時と同じ部分の脳味噌を働かせながらも、分泌されている原子が違う。其も脳から創られているのではなく、腹の部分から生成されて血液と共に流れ、脊椎から上で放たれている。脳の反応の仕方は同じなのに。私はその不可思議さに魅せられる。


がんっ!


背骨が珪素の塊であるガラスに押しつけられる。其でも私は声を上げなかった・・・否“上げられなかった”のかも知れない。

やがて周囲は私を恐がる様になり、私に対する仕打は何れ無くなった。

併し、之で終りではなかった。




アスカは私がいじめられる様になるとすぐ、当番制を廃止した。遣りたい人が遣ればいいから。まさに鶴の一声だったが、其でも女の子達は度々弟に逢いに来てくれていた。

併し、私が音を上げなかったからなのか、男の子達は誰も居ない時に、弟に悪戯をする様になった。

弟は私と同じで反応する事は稀だが、私と違って抵抗する事は出来ない。私は反応もせず抵抗もしなかったが、弟は反応が出来ず抵抗も出来なかった。必要であってもしないのは畏怖すべき事だが、出来ないとなれば訳が違う様である。彼等は、私に対して出来なかった欝憤を、弟に標的を替える事で晴らそうとしたのだった。




其は、必ずアスカ達が居ない時に限って行なわれる。




「いいよなオマエ。何でもかんでも遣って貰えて。どんなんだよ。人をリヨウスル気持ちって。教えてくれよ」


賑やかな声でおどけて言う男の子。弟は楽しそうに笑って、腕を彼等の方へと伸ばす。殆ど聴こえていない筈だ。其でも、只声がした其で(もっ)て喜んでいる。

「・・・俺もさ、オマエみたいに何にもしなかったら、周りが動いてくれるのかな」

男の子が弟の手を握って、ぶらぶらと空中で揺らす。

「なぁどうなんだよ。返事しろよ。オマエ等兄弟は、口あるくせにうんともすんとも言えないのかよっ」

弟は殆ど声を出さない。幼い時から夜泣きをしなかった程に。表情から気持ちを読み取り模倣する事が出来ないから、猶更(なおさら)感情を無視している様に見えるのだろう。

その男の子は、確実に反応を示さなかった時の私と弟を重ねていた。

「出来るんだろ。オマエ本当は出来るんだろ。こう遣って笑ってさ、手も伸ばしてきたじゃんか」

男の子が揺らしていた手を、突如力強く掴む。弟は驚いた顔をした。

「オマエ、いい加減にしろよ」

弟はまだ首が据わっていない。男の子に腕を引っ張られて、頭は大きく前後へ揺らぐ。

「手間掛けさせるなよ。何でアスカがオマエの世話をしなきゃならないんだよ。何で兄貴がしないんだよ。オマエ、兄貴に嫌われてるんじゃないのか」

弟には()えてもいない筈だし、何も聴こえてはいない(はず)。併し弟は黒の色素しか無いメラノサイトの塊を、男の子に向けて座位不安定の中見上げていた。まるで之から言われる事に、失望するかの様に。



「オマエ、兄貴に愛されてないんだ。だから世話もして貰えないんだよ」



弟は癲癇(てんかん)の発作を起したみたいにガクッと前へと倒れ込んだ。支えが利かず、其の侭木を張った床に墜落する。大きな音がして、院長と細君、そしてアスカが慌てて弟の部屋に来た。

間に合わない。男の子は流石にオロオロして弟が数人掛りで抱え上げられるのを見ていた。

私の存在が知れたからだ。私は久々に絶望する。




そしてこの罪悪が、私と弟をこの先更に引き離す事になる。

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