1 伝説の新聞記者
【Magnes】マグネス
[意味]
・磁石の呼び方の一つ。イダ山で磁石を発見した、羊飼いの男の名前に由来する。
[補足]
ローマ時代の博物学者プリニウスの『博物誌』第36巻25「磁石」によると、マグネスという男が家畜を放牧しているとき、サンダルの鉄釘や杖の先端に石がくっつく様子を見て、磁石を発見したという。ちなみに博物学者プリニウスは、79年のヴェスヴィオ火山の噴火調査で現場へ赴き、火山ガスによる窒息で亡くなった。
「ジーン・フェルジナンドが亡くなったって……?」
「ええ。明け方に訃報が」
3月10日風曜日の午前9時。
出版社に出勤してきたジョゼフは、悲しそうに頭を振った。
「葬儀はいつからだね?」
「今晩18時です、社長」
チン、とモイラは銀のタイプライターを打った。
「なんとまあ……彼女の活躍は先代からよく聞いていたよ。非常に腕のいい記者だった」
「ええ……ジーンが手掛けた特集記事は、まとめて倉庫に残っています。私もよく参考に」
チン、カシャン、とモイラは再度タイプライターを強く打った。ジョゼフはバサバサと、今朝の新聞記事を大きく広げた。
【追悼 ジーン・フェルジナンド(森狐族、享年87歳)
東区12番街 元サウザス出版社・新聞記者】
急遽、載せたジーンの顔写真は、いつものお悔やみ欄から少しはみ出して載っている。一張羅のスーツとブローチでめかしこみ、髪もきちんとセットアップし、ジョゼフに微笑みかけていた。
「明日ちゃんと彼女の特集記事を入れる予定です——むろん、校長の護送が最優先ですが」
そんなモイラの机には、拘束具を着たユビキタスと囚人護送車の大写真が、物々しく広げられていた。州警察の護送軍団に、横で指揮を執るブーリン警部、真剣な目をした警官とアルバの顔写真、なぜか後をついていく紅葉の小写真まで……
そんな緊張感の漂う取材写真の下から、陽気なパーティハットを被ったジョゼフの写真が、スルッと出てきて床に落ちた。
「お? これは……昔の社内パーティーの写真かい。えーと、6、7年前だったか」
「8年前です。ええ、ジーンの写真を使いたくて」
カシャカシャと鳴るタイプライターの隣には、今より幾分若い——ジョゼフもモイラも随分若い——社員たちのパーティ写真が置かれていた。特に一番の古株ジーンは、当時、新聞社に入ったばかりの孫・アーサーの腕を組み、ひときわ嬉しそうに微笑んでいる。
「ああ、あの時の!……なぜこれを?」
「ご遺族に、お借りする時間がなかったものですから」
何十枚もの白黒写真から、あの日の情景に色を浸けて思いだす。
彼女のスーツは深いエメラルド色をしていて、『アーサーのピアスもエメラルドなの。おそろいよ』と自慢の孫を紹介していた。胸に輝くブローチは銀製、先代の社長からの贈り物だ。『私が死んだら一緒に燃やしてもらうつもりなの。デズ様のお導きで先代に会えるかもしれないからね』そんなことを言っていた。
「……私もあの日、記事を褒めていただいて……このロングコートをいただきました」
モイラが、タイプライターの音を止め、深く息を吸い込んだ。今日の彼女は、少し肩が褪せた、茶ベージュのロングコートを着ている。
ふたりとも、目を閉じ、息を止め、デズの神へ静かに祈りを捧げた。
それは、敬虔で、穏やかで、幸福な時間だった。
おばあちゃんに、笑って全てを許してもらえたような、温かな心地で満たされる。
——だから、ヒヤシンスを持つコリン駅長のとびきり笑顔を、ジーンのお悔やみ写真で覆い隠してしまったミスも、きっと許されるに違いない。
数分間の祈りが終わり、モイラは再びタイプライターのキーに向き合う。ジョゼフは 新聞をそっと畳んで、机へ戻した。
「アーサーはしばらく忌引かい」
「ええ、もちろん」
モイラが楽器を弾くように打刻を進める間、ジョゼフはいつものミントコーヒーを淹れている。
「ふー、ジーンが亡くなったとなると……アーサーもじきに居なくなってしまうのかねえ」
社長はため息をつきながらマグカップ2つにトポトポ注ぎ、新聞室長の席にもコトンと置いた。
「あら、クレイト行きを必死に薦めていたのは社長じゃないですか。彼を持て余してたでしょう」
バチャン、とモイラがタイプを戻す音が社内に響く。
——昨晩起きた警護官の逃走事件。
そしてアーサーが調べた、元クレイト市警高官による紹介状偽装記事。
これが今日の新聞の一面だった。
ミントコーヒー特有のツンとした蒸気が、社長の大きな丸眼鏡を一瞬、曇らせる。
「いやいや、状況は変わってしまった。今のサウザスにこそ居て欲しい人材だよ」
彼は眼鏡を拭き直し、悲嘆に暮れた面持ちで、アーサーがいつも仮眠している奥のソファをじっと見つめた。
「不穏なことが多すぎる——彼の力が必要だ」




