6 アーサーの自宅
彼の自宅アパート『ジュード』。
紅葉が想定していた雰囲気とだいぶ違って、そこはちょっとした公園のようだった。
貧民街にしては開けた土地にあり、手前には大きな庭の広場が、奥に古びた建物がある。アパートは横に長い2階建ての建物で、元は白亜らしき壁は、腐ったドブ鼠のような色をしていた。庭の手前にある看板には、赤いペンキで「Hey,」と右上に書かれている。
簡素なフェンスで囲まれた庭は意外と広く、レモンやオレンジの木があちこちに植わり、赤土の上に鮮やかな緑を彩っていた。
南の隅にある井戸の周りでは、実洗熊族の姐さんたちが上半身むき出しで、ジャブジャブと太盥で洗濯物を洗っている。彼女らの邪魔しないよう、北側で子供たちが枝を振り回して遊んでいた。
アパート前のロングベンチには年寄りたちが集まっており、欠けたマグカップで深煎りのチェリーコーヒーを啜っていた。
「バアちゃん、元気かい?」
年寄りの中で最も老人と思われる、何重にもおくるみを着こんだ老婆に、アーサーが駆け寄った。彼の祖母だろうか。アンタもっと家に帰りなさいよと周りが囃し立てる中、歯が全て欠けた老女はニィーと笑って、大事な孫の手をそっと撫でた。
紅葉は何とも言えず、その様子を遠巻きにじっと見ていた。
「……さ、部屋は2階だよ」
挨拶を済ませたアーサーに連れられ、外玄関をトントン上がった。セメント製の床の上には古びた木製スノコが敷かれ、どこも一部が割れて腐っており、油断すると足を挟みそうだった。
「バアちゃんちがすぐ下の階。昔は両親と弟2人で住んでいたんだけどね。いつの間にか、家族はふたりだけになっちまった」
家族──紅葉は、ターナー一家やコリン駅長、酒場や下宿のみんなを、自分の家族のように思っている。
ショーンが帝都の魔術学校へ行った時は、すごく寂しかったけれど、その間にコリンがサウザスに移り住んできたり、太鼓隊に入ってオッズに可愛がってもらった。しばらくしてターナー夫妻も帝都へ越してしまったけど、代わりにショーンが戻ってくれた。
色んな別れを経験しても、出会いと再会も多かったから、今までそれほど寂しくなかった。もし、別れだけが続くのならば、それはきっと……すごく悲しい。
「ハハ、そんな神妙な顔する必要ないよ」
「………」
「さ、どうぞお入り」
なんとなく新聞社の延長のような汚さを予想していた彼の部屋は、思ったより片付いていた。
部屋は2手に分かれ、手前側は土間のキッチンになっており、靴を脱いで上がる奥の部屋は、古い絨毯が敷かれた居間となっている。昔、食卓として使っていただろうローテーブルには、執筆用のタイプライターやレポート用紙に分厚い辞書、レモンビールの空き瓶が何本か置かれ、灰皿の中にはナッツの袋が入っていた。
部屋の奥に、たくさんの新聞や雑誌が積まれていて、左隅に古いクマのぬいぐるみがチョコンと乗っていた。ぬいぐるみには、黒いバッテンのボタンがお臍と瞳に縫い付けられている。窓辺にある小さなガラスの花瓶には、埃が積もり、何年も花を差してないようだ。
居間の右手にある大きなベッドには、褪せてはいるものの、多彩色の刺繍で包まれたクッションや毛布が置かれ、家族で寝るには少々狭いが、1人で使うには充分豪華な寝台だった。
アーサーは、定位置と思われる奥の座布団に座り、紅葉はローテーブルの手前に座った。「悪いけど飲み物は出せないよ」とアーサーに言われ、「不要です」と紅葉は伝えた。紅葉は、膝上に載せた布鞄の中にフライパンがあるのを思い出し、アーサーの顔を見て、念のためぎゅっと握った。
「ふー、話を始める前に、紅葉ちゃん、オレのことはどうやって探したんだい?」
「マル……砂犬族の方に、匂いを嗅いで探してもらいました」
「なるほどね」
「彼は、東区は難しいけど、北区と西区なら居場所が分かると」
砂犬族か。とひとりごちるように上を向いた。
「オレたちフェルジナンド家は、森狐族だが……狐の中でもかなり鼻が利く方でね、臭い東区でも捜索可能だ」
紅葉は思わず、部屋の匂いを嗅いでしまった。
「で、オレも事件後、得意の鼻でサウザス中を探してるが、町長の匂いは見つかってない。もちろん警察でも優秀な嗅覚班が捜索している。結果は同じだろう」
「つまり町長は……サウザスには居ないと」
「そうだ」
(生死を問わず、サウザスにはいない……?)
(それが本当なら、犯人もとっくに逃げており、見つけ出すなど不可能じゃないか……?)
(ああ、でもコスタンティーノ兄弟の件はどうなったんだろう)
(あと、アントンが拘束されてると言ってた、ユビキタス先生は?)
グルグルと思考が紅葉の頭上を巡る。
「──まあ、それを踏まえて話をしよう」
アーサーは、静かに自分のハンチング帽を脱ぎ、ぬいぐるみの頭の上にそっと置いた。
紅葉は武者振るいし、舐められぬよういっそう背筋を伸ばして身構えた。




