4 本名かは分からない
鉄と赤土と太鼓の町・サウザス地区。
昼は、あちこちの製鉄所や鍛冶場から、活気あるトンカチの音が響き渡り、夜は夜で、大通りから町の端まで、陽気な太鼓の音が鳴り渡る。
今夜も、太鼓の音が、サウザスの街のあちらこちらから響いているが、その音色は、包むように優しく、静かだった。
《タン、タタ、タンタン、タタンタ、タンタン……》
弔いのような太鼓の音が、出版社の分厚い壁を通して聞こえてくる。
酒場で子守唄を叩いてくれたオッズの音色を思い出し、紅葉は背中を震わせた。あの曲をもっと聴いておけばよかった。涙が溢れそうになり、必死で洗面台の端を握ってこらえた。
ショーン・ターナー
使い込まれたスケッチブックに書かれた、鉛筆の文字を思い出し、ガタガタと強い震えが起きた。
(ショーンがこの事件に関係してるなんて、微塵も考えていなかった)
(今朝連れて行かれたのは、アルバだったからとしか……)
(ショーンはまだ役場にいるんだろうか……?)
(警察と一緒にいるなら、身の安全はあるだろうけど……でも)
情報が混濁し、うっプ……とまた吐きそうになり、腰を曲げて洗面台へ齧り付いた。
「ナタリー、紅葉さんの様子は大丈夫かね?」
「ウゥ〜ン、あたしは吐いちゃった方がいいよー、って言ったんですけどね〜」
紅葉はあれから事務員ナタリーに、トイレに引きずられ、背中をムリヤリさすられたが、気持ち悪さがこみ上げるばかりで、実際には吐けなかった。
震えが止まるまで、皆に待ってもらっている。
「にしても、大きくなりましたね〜、紅葉ちゃん! 見てくださいよ、退院の時の写真。ちっちゃくてキャワいいんだ!」
「ちゃん付けはよしなさい、ナタリー。彼女は君より年上だろう」
「え、そうなんですか? この時おいくつなんですかねえ」
「知らないわよ。本人だって知らないんだから」
少しだけ開いたドアの隙間から、会話が漏れ聞こえてる。
近くにいるのに、まるで遠い異世界の言葉のようだ。
出版社のトイレの鏡には、青白く、げっそりとした女の姿が映っていた。
「私は……」
名前は紅葉。本名かは分からない。
歳も知らない。ショーンと同じ20歳ということにさせてもらってる。
黒い長髪に黒い瞳。額には円錐形の2本角。どこにでも有りそうな角のくせに、どの民族かは解ってない。角の色は気分によって変化する。
今現在は鈍いオレンジ色で、豆電球のように淡く儚く光ってる。
「……っ、」
再び洗面台をぎゅっと握った。指がガタガタ鳴っている。角は花飾りで隠していないと落ち着かない。今朝、役場の一室で感じた惨めな気持ちを思い出した。
「……アーサー、結局この事件は、どういうことなの?」
ヒソヒソと、また新聞室から声がする。
「モイラ、まだ紅葉さんが」
「いい加減にして。これ以上、待ってられないわ!」
イライラさせて申し訳ない。
でも、まだあそこに戻れる心の状態じゃなかった。
紅葉かろうじて洗面所のドアを少し開け、新聞室の会話に耳を澄ませた。
こんなに体が震えて寒気がするような状況なのに、頭の角の芯だけは燃えるように熱かった。
「どういうことなの、一体なぜターナー家の名前を書いたの?」
「アルバ一家がどう関係してるのかね?」
モイラとジョゼフが、アーサーに詰め寄っている。アーサーはハンチング帽を取ってクルクル回した。
「今日の昼、警察署の奥の廊下……死体検案室から、ショーン・ターナーが出てきたのを出版社の窓から見かけた」
「──なんだって、死体検案室⁉︎」
「ヴィクトル氏は何も教えてくれなかったけどね。州警察の発表を待てと」
モイラは相当イライラしているようだ。ハイヒールのかかとで床をゴツゴツ叩く音がする。
「まさか、ショーン君が町長の尻尾を治したと? 10年前に、ターナー夫妻が紅葉さんを治したように」
「治したかはどうかは分からない。でも、アルバとして何らかの協力をしたと見て間違いないだろう」
……うん、きっとそうだと思う。紅葉も小さく頷いた。
「つまりターナー一家は、アルバとして双方の事件に協力した──だから何? 彼らはもっと他の事件にも協力しているでしょ」
うん……それもモイラの言うとおりだ。サウザスで殺人なんて滅多に起きないけど……傷害事件とか盗難事件とか……それくらいなら、以前も呪文で調査に協力したりしていた。
「……因果関係が逆だよ」
アーサーは静かに答える。
トン、と鉛筆の芯をスケッチブックの上に落とした。
「僕は “アルバの力を見るために” この事件が起こされたと考えている」
サウザス出版社の新聞室記者、
森狐族のアーサー・フェルジナンド 。
彼は何を知っているんだろう?
10年間で誰も到達しなかった真実を、何か知ることができたのか。
それとも、最初から何か秘密を知っているのか?
紅葉の身体に、一層大きな震えが起きた。
その拍子に、バキリと洗面台の縁が取れてしまった。
ガガン! とボルトが弾け、金属の轟音に注目と足音がこちらに向かう。
驚いてトイレのドアを開けるアーサーの、エメラルドに光る彼の瞳の裏に、
───燃えるような赤を見た。




