4 逃走か、脱走か
「や、やあ、ベルゼコワ。お疲れさま……」
「疲れてなどおりませんわ。ご多忙なアルバ様と違って、毎晩日々退屈ですもの」
ベルゼコワは黒い口紅を尖らし、小さくすぼめた。
「ギャリバーでどこかにお出かけですの? わたくしも帯同させていただけるかしら」
薄暗い倉庫のなか、ドアの入り口に立ち、逆光を背負ったベルゼコワの全身がまぶしい。
「いや、ノアのどこかに行くわけじゃ……」
「あらそうですの。では、ゲストルームが瑞麗な泉のようにお綺麗になっているのはなぜかしら?」
ベルゼコワの瞳の奥の十字が、いちだんと太く黒く固くなる。
「ええと……実は……」
紅葉が黙ってうなずいた。
「ベルゼコワ、ごめん。実は僕の上司に呼びだされて、急遽クレイトに向かわなければならなくなったんだ」
「まあ、クレイトへ。わたくしもご同行しようかしら。ちょうど白銀三路のブティックで、ヴォダンジュールの新作を試したかったところですの」
「いや、ごめん、クレイトで遊ぶ時間もないんだ。すぐに帝都に出立しなければならない用事がある。ほら、君の兄さんもこないだ行ったから、帝都の遠さは知っているだろう」
ショーンがベルゼコワを抑えているあいだ、紅葉は背をかがめて走って、倉庫の外扉を開けたが——
「おやおや、デパーチャーされるのですか、アルバ様」
外扉の前には兄のジークハルトが直立していた。両端に屈強なスーツ姿の警備を従えて……。
このままではギャリバーを出せない。
紅葉は嫌悪の顔を隠そうともせず、ジークハルトと相対していた。まったく、地区長のお子さまと仲良くしても、ろくな目に遭ったためしがない。
「あれだけ貴方がたに尽くしたのに、別れの辞もなく去ってしまうのは、コーテシーがないのでは」
「今まで面倒みてくれてありがとう、たいへん感謝してる。そこをどいて、ジークくん」
倉庫内は、緊張の磁場で満ちみちていた。
——が、
次の瞬間、ガシャアアアン、グッシャアアアアアンと、すさまじいガラスの割れる音が響いた!
「——何事ですのッ?」
「しまった、ダイニング・ホールだ、食堂のガラスが割られている!」
縦に長い窓ガラスが5、6枚、巨大なトンカチで叩き割ったかのような音が、立てつづけに響いてくる。近隣住人の悲鳴が聞こえてくるにもかかわらず、ガラスの割れる音は止むことはなかった。
ジークハルトの両隣にいた付き人が、ひとり、またひとりと賊の行方を追ってジークから離れ、屋敷を左回りに走っていった。
「おお、なんて惨たらしいの……あれだけ砕かれたら、きっと全部割れてしまっているわ! モルグ神を模した大事な特注ステンドガラスですのに……!」
ベルゼコワが錯乱して手袋を震わせた。ショーンはニーナ号を体で隠し、その影で紅葉がエンジンをかける。
付き人たちの「待てえー!」の怒号とともに、屋敷の右手側から、ガラス損壊の犯人らしき、怪しい人物が走ってきた。
そいつは黒い馬車幌で全身を覆っていたが、抑えきれていない背中の翼のヴォリュームと、幌の端から黒いトンカチ――【鋼鉄の大槌】が飛び出していた。
屋敷の使用人たちの追手をかい潜り、その人物は飛ぶような速さで東方面へと走っていった。
「ガラス犯め……ゆるさない、追うよショーン!」
「あ、ああ、ベルゼコワ、安心して。僕たちが捕まえてくる!」
「何ですっ、待って——まちなさい!」
ドゥルウウウウン! 創始者カーヴィン・ソフラバー直々にメンテを受けた、幸運なギャリバー【A-27型 ニーナ】は、エンジンをフルスロットルで唸らせ、屋敷の倉庫から飛びだした。
「Go and bury thy head in horse dung; choke on it!」
ニーナ号に横っぱらを殴りつけられたジークハルトが、道端でうめいて、ものすごい罵詈雑言を喚いている。
かくして、紅葉とショーンは犯人を追いかけるテイで、都市長・シュナイダー家のお屋敷から正当にトンズラをこいたのだった……
「フェアニス、フェアニス、乗れって!」
「こーいう場であまり名前を出さないことね、アルバ様っ!」
フェアニスリーリーリッチはその場に幌を脱ぎすて、ニーナ号の荷物の上に、モモンガのように張りついた。
「北へ北へ逃げて、こっちもまくのよ!」
フェアニスが細かく行き先を指示し、紅葉の運転するギャリバーは、ポーア街道を、裏道をはさみつつも凄い速度で爆走した。
シュナイダー屋敷の追手はとうに振り切ったものの、ニーナ号の豊満なレモン色のボディは往来でどうしても目立つ。
「フェアニスーッ、私の【鋼鉄の大槌】、荷物のベルトに差しこんどいて、落とさないでよ!」
「はいはい、分かったわよ」
「このままクレイトへ行くんでいいんだな?」
「シ! 黙んなさい、あんた現金はどれくらい出せるの、賄賂を使って口止めすんのよ!」
元警察のたまごからありがたい教えを受けながら、巨大な金喰い都市から脱出を図る。
「クソっ、ノアなんてもう懲りごりだ、生きてるだけで金がふっ飛ぶ!」
「あーら、フェアニスは嫌いじゃなかったけどねぇー。いかに権力者のおこぼれにあずかれるかを知れる都市よ。クレイトは四角四面でつまんなすぎるの」
「犯罪者にとっちゃそうだろうな!」
「フェアニス犯罪者じゃないもーん」
「うるさいっ、こんなうるさい子と同行していくって本気? ショーン!」
喧嘩のせいで路上の『コウモリジュース』のスタンドにつっこみそうになった。紅葉は怒りの急停止で、ノア都市の石畳を削っていく。
「——フェアニス、大富豪の死の謎は解けなかったけど、ランのこと詳しく教えてくれ、君の素性も。そうじゃないと連れてく意味がない!」
「はいはい、とりあえず州街道に出たらボチボチね。あーもっと金だして、ぜんぜん足んない、門番よ? 200ドミーぽっちで買収できるわけないじゃない!」
「もお、やだ!」
深夜0時の鐘が鳴り響いている。
皇暦4570年4月の始まりだった。
シュタット州の砂漠より、財布と喉をカラカラに乾かしながら、ショーン、紅葉、フェアニスの3名は、夜逃げするかのようにノアの都市を脱出した。




