5 皇暦4570年の3月がまもなく終わる
《ドゥオーン、ドゥオオオオン》
3月30日水曜日、夜6時の時計塔の鐘が、ノア都市中に鳴り響いた。
あと6時間も経てば、皇暦4570年の4月がはじまってゆく。
思えば、皇暦4570年の3月は、ショーンの人生で2番目に激動の月だった。
何度も信じた人に裏切られ、あるいは困窮した人々を数多く救い、幾度も死の危機に瀕し、魔術師としての技量を高める契機が訪れた……だが、これでもなお帝国魔術師——【アルバ】になるための試験を受け、資格を得ることができた4年前、皇暦4566年の8月にはとうてい叶わないだろう。
サウザスのアルバ、ショーン・ターナーは猿の瞳をほそめ、羊の耳をそばだてて時計技師の老人の話に耳を傾けた。
「キアーヌシュさんは17年前『守り人』になりにやって来た。ノア都市民の安寧を願い、ノアの財政を潤すために。そして4つめの目的、それはノアの大工事を進めることにあった」
グラスの氷山はもうかなり溶けており、カラ……コロ……と口内の飴玉のように繊細な音を立てている。
「ノアに来た時点で、工事の着工は既定路線だった訳ですか」
「ああ。17年前、大株主キアーヌシュとともに、キンバリー社の精鋭たちはノアに移住した。アーバン型ギャリバーの走行実験をしながら、各区をまわり建物や土壌の高度調査を行ったんだ。俺たちは役人たちと連携をとりながら、表向きは大工事の計画を進めていた……。だがその裏で調べていたのは、古き戦争時代のノアに存在した秘密の地下都市と、その入り口だった——のさ」
水がとけて、グラス内のジンも無くなってゆく。
「待ってください。女優の花火は、地下都市のことも、入り口の場所も知ってましたよね? カーヴィンさんも結婚していたならご存知のはずでは……!?」
「なぜそれを知っている。本人の口から聞いたのか?」
陽気な口ぶりだった老人の喉から、今までにない不機嫌げな声を出された。
ショーンの尻尾がギュンと張り、背後にいる紅葉に殺気を出されて睨まれた。
夜7時。そろそろ腹が減り始める時刻だ。
今まで書類を整理していた作業員が、奥の台所で大鍋を取りだし、野菜と肉と赤い豆、練った小麦粉を茹で始めていた。
「花火な——あいつは40年前からノアに出入りしていた。エメリック・ガッセルとも懇意にしていた。だが何百人もの男があいつの背後に付いている。重要な人物が誰かなんて見当がつくわけねえ。あいつの夫でもな」
時計技師ダンデはシワだらけの頬をニヤリと寄せた。ショーンはこぶしをにぎり、猿の尻尾をゆらりと揺らした。花火の人となりや動向は【Fsの組織】に所属してるにしては、少し毛色が違う気がする……。
(そうだ、フェアニスリーリーリッチ……! まさかあいつが関係してるとこじゃないか?)
ショーンは急いで顔をフェアニスの方にむけたが、フェアニスは砂糖づけのトカゲの干物をかじり、飢えを凌いでるだけだった。
「とにかく、花火はノアに移住してからファンロン州風のレストランを建て、多くの著明人をお忍びで呼んでいた。帝都にいる時のあいつは帝都様式を好み、ファンロン式なぞ見向きもしていなかったが…」
「…………ファンロンですか」
ショーンもファンロン州には気になる点が多かった。組織と関係している整形外科医の戴泉明と、アーサー記者殺しのエミリオ・コスタンティーノ、その協力者であるロナルド医師の逃亡先である可能性が高い。
だが、アルバが州外で呪文をつかうには帝国の認証がいる。許可を得るためには、複数のお偉いさんからの紹介状が必要だ。
「ま、ハッキリしているのは、双方がノアで合流して以降、花火がこちらの情報を盗もうと手ぐすねを引いていたこと。そして奴の息の根のかかった連中が『時計塔』に近寄ってきたことだ。キンバリー社としては距離をとり、あいつらが近づけないようにした」
「人嫌いの大富豪……始めの頃はそうでもなかったのは、そのせいですか!」
だんだんと、彼らの人生史が読めてきた。
「花火は——これは僕のツテによるものですが、地下都市についてとある重要な情報を得ていたようです。これは彼女がノア地区に来て、それなりに年月が経ってから入手したもの、と解釈でいいでしょうか」
食事担当の職員が、具がたっぷり入ったダンプリング・シチューを持ってきた。シチューの上に乗せられた見慣れない緑のスパイスは、シュタット州産のものだろうか。
当然ショーンらの分はなく、老人ダンデやキンバリーの社員らが美味そうにスプーンを口に運ぶ様子を、ただ見守るだけだった。
「……花火な。アッチのくわしい内情は分からんが、10年くらい前からぱったり詮索が消えたことは事実だ。俺っちもそんぐらいの時期に本格的に移住しに来たからな。えーとありゃ皇歴4562年だから、もう8年前か。おかげ様で時計知識まで詰めこまされて苦労したさ。いくぶんかギャリバーの機構に流用できたから、悪くねえ取引といえばそれまでだが……」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
皇歴4562年、今から8年前。
図書館長イシュマシュクルが本棚を製作し、大富豪と撮影したのが8年前。
鳥民族という条件で、大富豪秘書のキューカンバーが雇われたのも8年前だ。
「何かあったんですか、大きな出来事が8年前に……」
「ある。その時期に『ノアの大工事』の正式な始動が決定した。岩盤の情報を集め切ったんだ。秘密の地下都市についても、それなりに情報を得た」
いよいよ確信部分を聞ける。ショーンは背筋をピンと正し、空腹の唾を呑みこんだ。
時刻は8時を過ぎ、ノア都市の夜が本格的に始まっていく。
紅葉は布バッグをちぎれそうなくらい強く握りしめた。フェアニスは興味なさそうに目を瞑って首を回している。ロビーは果たして自分がここに居るべきか、髭の触感を感じる頬をこりこりと掻いていた。




