3 大山鳴動
「あの……花火さん」
「あらぁ、誰かと思えば帝国魔術師さまじゃない! 昨日のサロンでは心地よく過ごせたかしら?」
「ええ、おかげ様で……! ただ一点を除けば、ですが」
ショーンは唇を噛み、眉と尻尾を逆立てながら嫌味を垂れた。
「僕の眼鏡をご存知ないですか? あのサロン内で盗まれたようなんです」
「まあ、運が悪かったわね。わたくしも手癖の悪いコに何度かリングをやられたわ。大事なものは金庫に預けるのが安全よ」
金庫——その言葉を聞いて紅葉が震え、その震えはショーンの尻尾にも如実に伝わったので、会話をすぐに打ち切った。
「ご忠告どうも、お忙しいとこ失礼します」
こちらは図本を盗み、向こうは真鍮眼鏡を盗んだ。イーブンな関係といえるだろう。けして尻尾を巻いて逃げるわけではない。
「よお。アンタが新しい『守り人』サンかい、世話になるぜい」
「あら時計技師さん、よろしく頼むわ。これからもノアの民にしっかり正しい時を伝えてちょうだいね。あぁ、そのチェストは右へ運んでー」
時計技師ダンデと大女優・花火は、互いに名乗りもせず挨拶し、すぐさま各々の仕事へ戻っていった。
バルバロク警部補は不服げな顔で、本部とトランシーバーで連絡をとっていたが、部下の士気はおおむね減退し、新たなる塔主に場を明け渡すべく、撤退の準備をはじめていた。
フェアニスリーリーリッチは落ち着かない顔でかろうじてその場に居たものの、ベゴ爺さんは引っ越し業者の往来にまぎれて、いつの間にか帰宅していた。
「さて。どうします、これから」
螺旋階段に集うショーン一行の肩越しを、狭そうに家具が通り過ぎてゆく。
「行き詰まってきましたね」
ロビー・マームは肩をすくめ、友人エドウィンの仕事する様子をみて呟いた。
「……そんなことない、まだやれることはある!」
ショーンはこれ以上、呪文を打てず、眼鏡もなく、空っぽになった体で虚勢をはった。
『号外だ、号外だーっ』
『なんと時計塔の新・守り人に、帝都の大女優にして峯月楼のレストランオーナー、花火様が本就任だー!』
『号外だよっーーー!』
ノア都市役場の裏手、時計台のまわりにて。
新聞屋の小僧の鐘がひっきりなしに鳴り響いており、ベルゼコワは自室のカーテンをシャッと締め、食堂に降りていった。
兄のジークハルトは夕飯も取らず、メイドに買わせてきた『新・守り人、就任』の号外を熱心に読みこんでいる。
「お兄様、先代のキアーヌシュ・ラフマニー氏が漆黒の世界へと飛び立った原因はまだ分かってないんでしょう。着任が早すぎやしないかしら」
「いや、在が空白にならないよう、彼の生前から次代の守り人のセレクションは進めていたはずだ。アサイン自体は自然なこと……だが、真実がリヴィールにならないまま、こんなにもすぐ入居させるとは」
ジークハルトはため息をつきながら、妹ベルゼコワに紙面を渡した。彼女は黒き爪で新聞の字を追い、己の苗字のつづりを引っかいた。
「なるほど、お父様が選定と入居許可を出したのね。また意外なところを……あの華やかなる銀幕世界で生きてきた女性が、退屈で閉塞なる時計塔の孤独暮らしに耐ええるものかしら」
「お前ならノープロブレムで耐えそうだな」
ベルゼコワはコーンコーヒーをすする兄の小皿から、胡椒入りのビスコッティを強引に奪いとった。
「ええ! 俗世の澱みを捨て、冥府王へただひたすら祈りを捧げる生活ならば耐えうるでしょうね。ただ恐ろしいのは、同一の事件が起こる懸念だけよ。犯人が野放しのままなら、運命を道筋が重なる可能性がいっそう高まるでしょう?」
ビスコッティの胡椒が上からパラパラと降ってきて、ジークハルトは開きっぱなしの数学書を速やかに閉じ、頬杖をついた。
「塔の外で張っていたキンバリー社の秘密警備たちも、彼の死によって去るだろう。セキュリティ自体はスリムダウンになるが……だが花火はそこまで大金持ちでないし、今までレストラン『峯月楼』に問題なく住んでいたのだから、花火本人が狙われるポッシビリティは低いんじゃないか」
「なるほど、お兄様はあくまで大富豪が標的だと睨んでいらっしゃる」
黒手袋をパンパンとはたき、胡椒だけでなく砂糖の粉もていねいに落とした。
「このままだと時計塔の捜査が終わってしまう……ショーン様は調査を続けてくださるだろうか」
「それで、ここが貴方がたのアジトってわけですか。カーヴィン・ソフラバーさん……」
「はは、冗談はよしてくれや。本物のカーヴィンは今頃、帝都の本社のすみっこに幽閉生活を送ってるよ。新型【アリス】の改良エンジンの駆動時間を計ってる頃だろうぜい。ジンの飲みすぎでおぼつかない手つきでな」
「こっちこそ冗談はもういい! 花火との関係も、キアーヌシュとの関係も、全部吐いてくださいよ、ノアの大工事も、秘密の地下都市も、ぜんぶ繋がってるんでしょう!? あの……組織と!」
ショーンは語尾を濁しながらも、とある古いビルの一角で詰め寄った。
あの後すぐ、時計技師ダンデの調整が終わり、塔から出てきたところをショーン達が捕獲した。シラを切られたら彼の本名を往来で叫びつづける覚悟だったが、ダンデは肩をすくめて、技師の事務所とは逆方向にある、東のビル街へと案内してくれた。
「誰にも言うなよ。ここぁ都市長サマにだって知られてねえんだ」
「ジー……都市長のお子さん達はご存知でしたよ。時計塔に近づく者はハチの巣にされるって」
「はは。なんでい、バレてんのかい」
時計塔の円周道路に沿って建てられたビル群の、さらに奥にある商社ビルディングだった。他の建物より高いため、最上階からは時計塔のてっぺんから、下の玄関扉まで一望できる。
日で褪せたクリームイエロー色の室内には、4人ほどの見張りがおり、めだたない灰色の作業服を着こみ、行きかう人々の群れを双眼鏡で見つめたり、ギャリバーや四輪自動車の車種が描かれた書類の束をまとめたりしていた。
「塔の見張りだけじゃ飽きるってんで、都市の交通状況の数値もとってるのさ。キアーヌシュが着任してからずっとな。おかげでかなり記録が貯まってきたぜぃ」
そして中央の椅子に乗りあげ、ドライ・ジンのグラスを傾ける、一介の時計技師……いや
「あんたが本物のギャリバーの創始者ってこと? へぇー、まだ生きてたんだ」
一緒についてきたフェアニスリーリーリッチが、恐ろしい発言を口にした。
「ふん……ギャリバーの創始者ねえ。じつぁ4人いるんだぜぃ、こないだ1人死んだがな」
ドライ・ジンの氷が冷たくカランと鳴り、無表情で働いていた職員たちの手が一瞬止まった。




