1 急転直下
【Pendulum】ペンデュラム
[意味]
・振り子。(時計、地震計、メトロノームなどに使われる)振り子
・固定点から吊るされ、重力の作用により、一定の揺れや旋回を繰りかえす物体。
・揺れ動くこと、意見や心の定まらないこと
・情勢、世論、流行、変化
[補足]
ラテン語「pendulus(ぶり下がっている、吊り下がっている)」に由来する。振り子はその性質により、便利な日常用具のほか、さまざまな力学の発見に使われてきた。後漢の張衡は振り子を利用した地震計をつくり、フーコーは巨大な振り子によって地球の自転現象を立証した。振り子時計は、ガリレオがその等時性を発見して以来、多くの人々に時を伝えてきたが、水晶型時計の発明により現代では廃れてしまった。
「ねえ★怪我したアタシを連れ出した理由……あれってさー、誰かの指示だったんじゃあない?」
ノア都市の上空で、放火犯ラン・ブッシュがニヤリと笑い、掃除夫ノアを問い詰めていた。
すでに夕刻。広大な天空の視界には、バウプレス5区の街並みと人々、カラーカ・ヴァゴンの線路にゴンドラ、『時計塔』が右手の奥にちらちら映った。
俊足呪文《ヘルメスの翼》によって、毎秒7.5メートルの歩幅で跳躍するランに、警察はもう追いつけなかった。
「……ぐ……んなわけ…」
多少、重みに慣れてきたとはいえ、軽量拳銃【コルク・ショット】の銃弾は、ノアの体内に依然として存在し、痛みと枷と虚脱感を与えている。
「そ★ジャア、まさぐるつもりだったってワケかぁー、死ねばいいのに☆★」
ランの左腕は、ノアの胴体をいったん空中に放り投げ、また背中の裾をガッチリ掴んだ。
彼は言い訳する気力もなく、自分の四肢が宙にぶらさがるのをボンヤリ眺めていた。
「……………そうだっけ……?」
ランを時計塔から連れだした記憶も、ランに包帯を巻いた記憶も、ランにアパートから突き落とされた記憶も、もはや彼の海馬には存在しない。あるのは多大な恐怖心と、血の痛み、ひとつまみの好奇心だけ。
ビルの屋上群が眼下に広がる。この高度なら、かろうじて滑空が可能だろう。だが無事に飛行体勢をとれる自信はなく、目をつぶり、凶悪な肉食動物から離れる準備を整えていた。
「☆——っとそうだぁ★この時間ならもう夜行性じゃんっ」
ランは空中で急転回してブレーキをかけ、北から東へ方向転換した。
「グベえッ」
掃除夫のツナギの襟が、思いきりノアの喉奥に食いこむ。どこへ行くのか聞く気力もなく、黄金の翼は、赤く染まりゆくノア都市の空を跳躍していった……。
「私、とにかくこの絨毯を持ち上げてみる!……ホラ、床に丸い切れめがあるよ!」
紅葉は絨毯の端っこをめくり、上の家具をどかして、全体像を確認しようとしていた。
しかし、床の中心にいるショーンはその場から動けなかった。汗をぽたりと垂らし、両手を小刻みに震わせている。ボワボワとゆがむ音波マナの波長を、必死の形相で調整していた。
「んんっ? 絨毯をどかせばよろしいんですか?」
「ショーンさん、いったん貴方を持ち上げていいですか。そこに立ってるとジャマですよ」
バルバロク警部が指示をあおぎ、ロビー・マームがアルバ様をどかそうと強要してくる。
だが、帝国魔術師たるショーン・ターナーは周囲に一言もいい返さず、ひたすら呪文に集中していた。
全身がいっそう青く——顔も見えぬほど青く光りかがやいたので、周りの面々もさすがに言葉を止めて黙った。
「尖塔……地下まで……トンネル……丸い」
パチパチ、パチパチ、最後に巨大に打ち上げる花火のように、特大のフィラメント火花を弾けさせていく。
「カラクリ……っ直線……!」
音波マナを、音の一粒ひとつぶを研ぎ澄ませた。
ポワァン、ポワァアン、と波が響き、塔全体を、時計盤を、心臓機構をソナーする。
一番下に感じるのは真円球だ。直径およそ1.2メートルほどの巨大な金属球。
初めて見た時、この球は振り子の役割を持っていると思っていた。
揺れることで時計に等時性をあたえる、時計機構の大事な1部位であると。
「いや違う、この球は…………心臓機構と直接つながって……ない?」
青い光が金属の隅々まで密着し、ショーンの大脳にその全景を伝えてゆく。幾重もの歯車の噛み合わせに隠れた、視認だけでは把握困難な全体構造が、徐々に脳内に見えてきた。
2層の最下層にある真円球は——心臓機構ではなくその上の天井、2層天井と3層床の間に仕込まれた鉄骨へと直接つながっていた。鉄骨は、8つの鐘を支えるには妙に大きく、折りたたまれて複雑な形をしている……
「そうか……床をせり上げるスイッチ、それが真円球の正体だ……!」
2層の真円球を下に下げれば、
3層の円型の床が上に上がる。
その構造に気づいた瞬間、音波呪文はさらに精度を増して、ショーンの脳裏にその設計図を明確に浮かびあがらせた。
「紅葉、ロビー、警部補! 分かりましたよ、構造が! あの真円球を下げればいいんです」
ショーンは音波呪文を切りあげ、大声をあげた。大発見だ。なけなしのマナを大量につぎこんだ甲斐があった。いそいで階下へ向かおうとしたのだが……
「——お待ち下さい、ショーン様! 時計部をいじる気ですか。それはいけない、この場のものは全員減給、懲戒免職ものですよ」
バルバロク警部補が急いで遮り、周囲の警官たちにも止められた。今まで行動を許していたのは、あくまで時計盤に関わらない範囲内のみだったようだ。
「球に触れることはいけません。いったん、ビネージュと相談しますのでお待ち下さい」
「えっ、だ、大丈夫ですよ……時計には直接繋がってないはずだし。そう、天文学者のタクソス・エクセルシアだって時間を止めずに使ってたわけですし……!」
ショーンは必死で説得を試みようと、脳に浮かんだ設計図を伝えようとしたところ——、
「おう、やってんな」
謎の爺さん、時計技師ダンデ・ライトボルトがふたたび顔を出した。
相変わらず顔は分厚い空挺用ゴーグルで覆われていたが、熟練した手つきと油の匂いは、一流の機械職人であると感じられた。




