5 Fly&Jump
ラン・ブッシュは失神するノアを抱え、高くたかく跳躍した。
その高さは15階立てのホテル『デルピエロ』の約半分にもあたる高度であった。
彼女の流した血が、そこだけ赤い雨が降ったかのように石畳にぽつぽつと跡を残している。
「フン、【コルク・ショット】が効かなくても他に武器はあンのよ」
ビネージュ警部は、ひるまず即座に次の手を打った。
太腿から愛用のムチを抜き、ビュウンと風を切ってしならせる。
2メートルを超える大蛇のごとき黒革鞭を手に、犯人の降下地点へ狙いさだめて駆けだした。
「舐めないで、小娘!」
ランの肉体が重力にしたがって、落ちてくる。
最後の力を振りしぼり、上空へジャンプしたものの……広い道のど真ん中に跳んだところで、隠れる場所も息をつく場所もどこにもなかった。
蒼き唇をぶるぶる震わせ、白い裂歯をガチガチと鳴らしていた。
「……っが……飛んでる!?」
不意に掃除夫ノアが失神から復帰し、腕の中でもがくのを感じた。その瞬間、
「とぶ……飛ぶ☆……翔び立て!」
とある呪文が脳裏に浮かび、その勢いのまま完璧に唱えることに成功した!
【黄金を抱いて跳び立て! 《ヘルメスの翼》】
ラン・ブッシュの足元は瞬くまに黄金に輝き、金色の翼が両靴から対で生えていた。ランは何もない空中で足を蹴り、ビネージュ警部があやつる黒革鞭の先からすんでのところで逃れ、再度、高い跳躍を実現した。
「うォあああー、何だこりゃあ!」
「うるさいッ★暴れるな」
ランとノアの2人は、飛翔する鳥と同じくらい、長くながく空に滞留していた。
『何を読んでるんだ、ショーン』
昼下がりの酒場ラタ・タッタの下宿の角部屋。
ベッドで足をぶらつかせ、児童書『魔女っ子ジゼルの大冒険 〜かぼちゃ畑で大泥棒〜』を読みふけっていたショーンは、嫌な予感がして布団のなかに本を隠したが……予定より早めに帰宅してきた父に、掠めとられてしまった。
『なにを隠……んん?』
黒のとんがり帽子に黒ワンピースの魔女っ子ジゼルが、愛用のホウキに乗り、夜空の月の下でカボチャ畑の大泥棒を追っている。
白い長布をまとった父親スティーブンは心底嫌悪した顔で表紙をにらみ——吐き捨てた。
『チッ、くだらん』
『図書館の本なんだよ、返せっ』
『いいかショーン、本気で魔術を学ぶならこんなもん読むな! ホウキに乗るなんてバカバカしい、いいか? 尻は痛むし、高速で17ノットの風に煽られりゃー、ホウキの房なんてバキバキに割れて地面に落ちる! そんで通行人の爺さんのハゲ頭に突き刺さって、治療代と賠償金を払うハメになるんだぞ!』
『そんなこと分かったうえで楽しんでんだよ、返せッ』
11歳の小童ショーンは190cm近い父スティーブンの巨躯に登ろうとするも、スティーブンは右手を天井に突き上げ、児童書をぶるぶる振っていた。
『いいか。長時間、空を飛ぶならまず椅子に乗れ、頑丈な椅子に。肘置きつきのクッション素材。そんで椅子に物体移動呪文をかけろ。それが一番効率がいい、尻も疲れないし、強風に煽られても、背中と腕でしがみついときゃ比較的安全だ。絨毯はダメだ。西の奴らは絨毯好きだから好んで乗ってるヤツもいるが、あんなのは一瞬でまくりあがってひっくり返る!』
『いいから僕の本返せよおぉ、明日までに返却すんだよっ』
父と違って、短い手足でがんばって取り戻そうと奮闘するも、オレンジ色のポニーテールの魔女っ子ジゼルは、届かぬ笑顔を浮かべたままだった。
『そもそも空を長時間、飛翔するのに適した呪文なんかないんだ。最大効率では鳥民族の翼にゃあ敵わない。その鳥民族だって飛ぶ用がなきゃ飛びたくないんだ。体力は消耗するし、落ちたら危険だからな。民族別の死亡事故じゃダントツだ。魔術師も飛ぶな、跳躍しろ! 《ヘルメスの翼》が一番効率がいい。【星の魔術大綱】の57ページに載っている。お前の版じゃ62ページだったか? まあいい、読んどけ』
『だがら、本返せってば!』
『あっちの大陸じゃあ、飛空機だが自動翼機だかは急速に発明開発されている。今後10年であっちの空は鋼鉄の翼が飛んでいるだろう。だがルドモンドに機体が持ち込まれることは……まあ無いな。向こうの世界に行くと死ぬ。まあ向こうからやってきても死ぬんだが。ルドモンド内でも密かに開発を進めてる者がいるらしい。帝国は早めに対策を打つべきだな……』
互いに会話をする気のない親子は、ドタバタと床を鳴らし、1階の酒場夫妻の住居にホコリを降らせていた。
「なあ……っ、どこに行くんだよ!……おい、これからどこに逃げる気だ?」
「——ッチ★」
「クレイト市か? コンベイ街か? ファンロン州にでも飛んでいく気か!?」」
「黙れっつってんでしょ、突き落とすよ☆★」
魔術大全書【星の魔術大綱】の序盤に収録されている、学ぶべき基礎呪文のひとつ、俊足呪文《ヘルメスの翼》。
脚に金色の翼を生やすことで驚異的な跳躍力を得て、飛行能力を持たない民族にも、擬似的な飛行能力を与えてくれる。
だが、滑らかでクッション性のある獣のジャンプとは違い、翼による助走機能(いや、助跳躍機能と呼ぶべきか)を生やしたせいで、一足ごとにガクガクと縦ゆれし、同行者を酔い苦しめていた。
「オレぁ降りていいんだよ、そもそも逃げる必要なんかないんだってば、無ジツだし!」
ラン・ブッシュに振り回されっぱなしだった掃除夫ノアが、ようやく自我を取り戻し、おのれの権利を主張しはじめた。
「んー、それはどうかにゃー☆アンタって記憶が一日も持たないんでしょう、忘れてる可能性はァ?」
「……えっ……と」
ジワリと銀片吟族の羽に油がにじむ。ランはニャハハハと尻尾をふって笑みを浮かべた。
「自分が殺しをしてないという絶対的な確信はあるのかにゃ〜?★」
呪文でできた黄金の羽は、夕方の赤光でキラキラと反射し、輝きに満ちてノアの瞳孔を横切っていった。憧れの空の上だった。
「アンタさぁー☆★怪我したアタシを『時計塔』から連れ出したでしょ、なんでそんな事したの」
しかし、都市のビル風はバタバタと耳障りな音をたて、鼓膜を不快げに擦っていく。
血まみれの包帯の女は、八重歯をニヤーリとむきだして笑った。
「あれって★……誰かの指示だったんじゃあない?」
掃除夫ノアの海馬には何ひとつ記憶は残されておらず、真実は右脳と左脳と細胞が知るのみだった。




