2 ないと困るが、何とかなるもの
『ねえ、ショーン。その【真鍮眼鏡】ってさ、あるのとないのとじゃどう違うの?』
『えっ』
ふいに紅葉から話しかけられ、頭をあげた。目の前にはスピナーチ入りサンドクッキーと、冷えた藍檬茶が手つかずのまま置かれている。
ショーンは首をふり、酒場の円形舞台上に垂れさがる濃緑のペストリー(森の泉に、白い女性と鹿の群れが描かれている)の、隣にある壁かけ時計を確認した。
2時間ほど、時の神リビチスのネズミに、時間を喰われていたようだ。原因は、指が切断された場合の修復方法にある。先日、急に現場に呼ばれてしまい、対拠できずオロオロして泣いてしまった。
泣きたかったのは、鍛冶家のコルナ・モルテスだろう。サウザス病院のメンデス先生が縫いあわせてくれて、事なきを得たのだが。
いちおう、習ってはいるのだ。【星の魔術大綱】に書かれてはいる。でも、難しすぎる。たとえば、右指か左指か、足の指なのか手の指なのか、大人のものか子供なのかで、必要なマナの位置も量も変わってくる。そして怪我の状態と治療の進度によってマナの移動量も計算式も大きく変化するのだ!
ショーンは苦悶の顔でこうべを垂れ、テーブルに突っ伏した。顎下には数式が書きなぐられたレポート用紙——書いた当人すら展開が分からないほどグチャグチャで、あげく式の最期にはインク溜まりになっていた。
『……お皿、片づけちゃうよ』
紅葉がランチをひっこめようとしたところ、ショーンが手で防いでサンドクッキーをむさぼった。真鍮眼鏡はずり落ちそうなほど下にさがり、ツルが鼻を圧し潰している。
『眼鏡ずっと重そうだし、あたま痛いのかなって』
『ちが……重いけど、痛いわけじゃ……』
真鍮眼鏡を帝国から賜って、半年になる。
さすがにそろそろ重さに慣れないと、アルバとして資格がないと見られてしまう。最終的には雛鳥の羽毛のように軽くなるらしいが、今はまだ冷やしたてのサウザス綱と同じくらいずっしりしていた。
『ちょっと外してみれば? 休むことも大事だよ』
『ダメだよ。アルバはずっと装着してないといけないんだ。それが義務であり証なんだから』
ショーンは栄誉ある勲章のようにふるまっていたが、今の彼の状態では、呪いの装備にしか見えなかった。
『証ってだけ? 眼鏡がなくても呪文は使えるんでしょ。学生時代は持ってなかったわけだし』
紅葉には重要性がいまだにピンと来ていない。
『そりゃ使えるよ。でもこの眼鏡は計算機にもなってるんだ。プロが使う呪文は、手順が複雑だし数式も煩雑だから、【真喩眼鏡】が必要なんだよ!』
ふーんと、紅葉は、書き殴られた計算式の紙に目を落とし、
『じゃあ、眼鏡なしで難しい呪文が打てたら、それはそれはすごいことだね……』
3月30日水曜日。時刻は昼11時を少々まわったところ。
ノア都市で最もハイセンスで、ファッショナブルな人々が集まるビューティーサロンには、なぜか田舎くさい、オシャレとは形容しがたい人々が集まっていた。
「なんじゃい。なんじゃい、どこもかしこもオレンジ色じゃー、ジジイには目がチカチカするぞい!」
「おお、ここがビューティーサロンですか。コロンのかおりで充満してるなあ。だいぶ臭くないですか? よく平気な顔で働けますね」
「ふぁー、朝はやすぎィ。ねっむ。フェアニス、いっつも午後3時に起きるから、羽が動かないんですけどぉ〜」
ノア都市で出会った濃いメンツが、さらに濃ゆい空間に集まり、濃厚なエッセンスを形成していた。
「ふふふ、たのしそうな方々のお集まりですわね」
オーナーであるタバサ・ジュデは、うきうきとこの状況を楽しんでおり、
「まったく、小汚ない連中ですよ……あとで念入りにお掃除しなくちゃ……」
秘書のナツコは餅巾着のように顔をふくらませ、後方でぶつぶつ呟いていた。
「ここが地下水道への入り口か……」
マンホールに落ちてしまった紅葉と違い、ショーンは初めてここを覗いた。
岩盤をくりぬいて作った通路……にしては、妙に湿り気があり、雨にぬれた土のような気配がしている。
「じゃあ、さっそく下りようか」
「ったく、ほんとは一般人がこんなコロコロ下りちゃいかん! 誰かに見つかっても言い訳しきれるか分からんぞい!」
案内人はベゴ爺さん。他人に親切にしたばっかりに、凶悪な女に脅迫を受けてしまった、哀れな老人である。
「ベゴさん、水道局員のあなたに見て欲しいものがあるの。そしてタバサオーナーも……この存在を花火から聞いたことある?」
紅葉は満を持して、花火の自宅金庫から盗んだ——とはけして口に出さず——ノアの地下都市らしき絵が描かれた古い冊子を取り出した。
(ナツコはそれを見て、「まあ、バッチィ!」と、茶色い悲鳴をあげた)
冊子の表紙は、昔と土が混ざったような、地下水道のパイプよりもくすんだ色を醸している。
挿絵に描かれた都市は、表紙のくすみに比べてあまりにも白く、発光しているかのようだった。
「まあ、本当にノア都市の地下にこんなものが? 花火の移住、これが目的でしたのね……」
事情をうっすらと知るタバサはすぐにピンと来ていたが、
「これは……ノア岩盤の内部きゃい? ホウ……フーム……いや! 関係あるのかのう……?」
ベゴ爺さんは自分の長いあごひげをしきりに撫で、耳をヒクヒク動かしていた。
「心あたりが?」
「ええと、んーと……数ヶ月前じゃったかな? 職場の年末宴会で、ジョバンニのやつが酔ってレモンビールと煮玉子をかっくらっちゃちゃ。そんで急に『ノアの地下にはヒミツが埋まっている! お前たち水道局員なら知らないか?』と叫んだっちょった。んー……コレのことを喋ってたのかのう」
ショーンと紅葉は息をのんで目を合わせた。
「だ、誰か知ってる人はいたんですか⁉︎」
「うんにゃ。全員ひどく酔ってたからの。『おう、オレのお宝を埋めといたぜい! 若きブルネッラ・ヴァアルチェローナ様の夏のバカンスショットをよう!』と、みんな口々に女性の名を叫んでたじょい」
……だんだん、事情が見えてきた。
ジョバンニ、本名フィリップ・フェルジナンド。
彼はクレイト市で失踪したあと、ノアに水道局員として潜伏し、秘密の地下都市を探していた。
この都市はおそらく【Fsの組織】に関係していて、十中八九、ゴブレッティ家が設計に関わっている。ジョバンニ爺さんは結局みつけられなかったようだが。
ラン・ブッシュがトレモロ図書館から盗んだ設計図、あれにこの都市の入口や構造が書かれているんじゃないだろうか?
「そんで大富豪キアーヌシュを殺した人物って誰かわかった? アルバ様」
フェアニスリーリーリッチが、腹をボリボリ掻きながら尋ねてきた。
それは、まだよく分からない。




