6 風に乗って舞い上がれ
シュタット州の大地に、白き卵色の砂嵐が舞い上がり、額の髪をはためかせて去っていく。父なる巨大な岩山に、絶え間なく粒子の風が吹きつけ、母なる広漠な乾土に、砂塵のさざ波が発生している。
絶好の滑空日和だ。こういう風景を見ると、自分の袋鼠としての本能がうずき、腕から脇腹に広がる皮膜が、風に乗りたくて震えてしまう。
子供のころは苦もなく飛べた。体重に対して皮膜の面積が大きく、恐怖心もなかったからだ。大人になった今では無理だ。
同族のなかには、大人でも滑空を続けている者たちも存在する。それには、たゆまぬ鍛錬と特訓をつづけ、体重を管理し、専用の道具を用意しなければならない。怪我したときの搬送先も。
——だが、これだけ準備を積んでも、できることは滑空だけ!
鳥民族のように飛翔はできず、仕事に活かせる場も少ない。われら照袋鼠族たちが、民族単位で飛ばない選択をしつづけたのも当然だろう。
古代の先祖たちは、もっと体が軽く、飛膜が大きく、大人になってもある程度は滑空できたらしい。けれど今では人間としての体格が上回り、皮膜の表面積も大きく減少している。
これは選択ゆえの変異であり、結果ゆえの退化だ。
多くの鳥民族が、皇帝が与えし翼の価値と重みを忘れず、人間としての骨格にあらがい、飛ぶことを忘れていないというのに……。
カヤン・ソフラバーの大きな瞳から、涙がこぼれた。
いけない。
せっかく気晴らしで景色を見にきているのに。
思えば、〇〇〇〇〇に自分で乗るのは久々だ。
兄のカーヴィンや弟のカディールはしょっちゅう外仕事で乗りこなし、長距離を走っている一方で、肝心の開発者がこれでは……。
カヤンはエンジンをかけ、未発売、かつ未完成の三輪式軽自動車にまたがった。
ドゥルルルル……!
重低音が薄褐色の大地に響いた。ゴムのタイヤがザリザリと回り、茶色い塵煙を巻き上げていく。砂埃への対策はばっちりだ。もちろん草原でも問題なく走行できる。湿地帯にはまだ弱いが、そこは初号機が売れてから専用機を作りたい……っと、
「…………ッ!」
目の前に険しい崖山が現れた。4階建てくらいの高さの崖だ。
あえて迂回路は行かなかった。
ギアをローに入れ、レバーをひねってエンジンに回転をかける。タイヤは大地をぐいと押し出し、茶土をかき上げて崖山を登る。
ギュルルルルル、ル‼︎
あと少し、あと少し。頂点に登りきるには回転数と馬力が足りない。
「がんばれ……っ、もう少しだ!!」
エンジンの構造が完成していないせいか?
いや、運転手の腕にも左右されるだろう。体重のかけ方、車体の角度、クラッチのタイミング……。兄カーヴィンや弟カディールなら、すでに楽々登れているかもしれない。
「はっ……もう一度っ」
カヤンは何度も、50度近い崖岩を登ろうとした。
登りきれない〇〇〇〇〇をUターンさせ、切り立つ弧丘へ挑戦する。
タイヤが大きく地面を削り、深い凹凸をつくってゆく。
「もう一度‼︎」
カヤンの体勢が90度の垂直になり、砂丘の黄色い日差しが、熱い針のように夜行性の瞳に突き刺さった。
運転者は大きくハンドルを切ってしまい、車輪は崖山の表面から剥がれ、ひとたび傾いた車体は鋼鉄の塊と化し、急岸から滑り落ちていった。
「……あ、ああああ…………!!」
急いで股ぐらを座席からはずし、車体を蹴って離れた。
腕のボタンをちぎり、袋鼠の皮膜を広げ、滑空した。
強い下風が全身に吹きつけ、重力の支配にあらがってゆく。
そうして先祖代々つづく民族的長所によって、8メートルの高さから無事に——いや、無事ではない。手と頭をしたたかに擦りむいて血だらけだったし、着地に失敗して左膝の皿が割れていた。
「そうだ。
飛翔と滑空……」
飛翔は、翼を羽ばたかせて力を使う。
滑空は逆に、力を使わず、周りの動力を利用する。
今まで飛翔することばかり考えていた。飛翔と滑空をくり返すことが大事だ。
「そうだ。そうすればエネルギー効率が……シリンダーの位置を変更して、シャフトの角度を変えよう。キャブレターと冷却装置の効率化を……」
カヤンは痛みも忘れ、腕と脚を引きずりながら、シュタット州の大地のもと、頭の中に新・設計図を組み立てていた。
「うーん、うーん!」
「……なんだこりゃ」
故郷に帰ってきて2週間、疲労による高熱にうなされていたカーヴィンが、ようやく体力を取りもどして、事務所に降りてきたところ、床一面、紙の海になっていた。
「何って、みれば分かるでしょー。〇〇〇〇〇の名前を考えてるんだよ。大事な命名権を取られてたまるもんか。今夜中に考えて、役所に商名を提出しにいくよ。商品が完成していなくても、開発のメドが立ってれば受け付けてもらえるって、わざわざシュレーン市までいってきて確認してきたんだよ」
「シュレーンって……区都まで行ったのか!? 父さんたちに会ってきたか?」
「会うわけないよ、どこに住んでるかも知らないし。ていうか生きてるの? もう10年ちかくお金も手紙もこないじゃない」
シュタット州アーバーニ区の都シュレーン、出稼ぎにいったはずの両親からはすぐに送金が途絶え、こちらが手紙を送っても何も帰ってこなくなった。酒におぼれて、すでに離婚しているのかもしれない。そういう人たちだ。
「……カヤンは?」
「真のエンジンの構造が思いついたって篭もってるよ。兄さんたちに任せてたらシュタット州が海に沈んでも決まりやしない」
末弟カディールが、唸りながら紙に単語を書きつけては散らしている。バッシュ。ギデアー。ゴンベリカ。
「おいおい、強そうな名前だな。武将みたいだ。女性が乗ることもあるんだぞ。もう少し柔らかい名前にしようじゃないか」
ライラック。マダン。ワシュリー。
「ダメダメ、女っぽ過ぎるよ、中庸を目ざそう。強く、かっこよく、親しみがあり、かわいらしさもある。家庭的でありながら冒険心をくすぐる。何より呼びやすい!」
「そんな都合のいい名前なんてあるかねえ」
その時、——カヤンが事務所のドアを開けた。
童顔に無精ひげを生やせ、頬はオイルで黒光り。エンジンの設計で脳を興奮させているのか、異様に瞳がギラギラしている。
「ガレー船がいい。小回りきくガレー船をイメージしてるんだ。大陸の海を泳ぐんだ。ガレー船っぽい名前にしといてくれ」
そう早口で告げて、トイレに行ってしまった。
「ガレー、うん、言いやすいが……商品名としてはもう少し長いほうがいいかな。そのまま使うのもよくないだろうし」
新たな候補ができ、カーヴィンは頭をかかえた。カディールは「ガレーね」と冷静に紙に書きとめている。
「『ガリバー旅行記』から取るのはどうだい。僕ぁけっこう昔から好きなんだよね。冒険心もあるし、ガレー船にも語感が似てるだろ」
大株主、兼、雑用係、トイレ掃除から帰ってきたばかりのキアーヌシュが、ひょっこり顔を出して案を出した。
長兄カーヴィンはいっぺんに言われてますます動揺したが、「ガリバーね」と三男カディールは並列して表記していた。
「そうだ! どうせならさ、『キンバリー社』の社名もホーフツさせるようにしようよ! 馬車修理店としての名残もさ、大事な歴史だろ」
「お、おう……」
カーヴィンの頭は付いていけず、ますます混迷を極めたが、カディールは「ガルー」「ガリバー」「キンバリー」の三語を掲げ、つづりを書き出し、何度もなんども並べ替え……
そうして、皇歴4532年、5月30日の23時54分、
三輪式軽自動車ギャリバーの名は、この世に生まれた。




