5 女に本当の友情は築けない
「わ、もしかしなくてもあのビルだよね。すんごいオレンジ」
紅葉はヴァゴンの窓から身を乗りだし、ビューティーサロンの建物を見つけて唸った。あと少しで2区の駅に着く。ヴァゴンの内部に下を向け、落とし物がないかチェックした。結局40ドミーのツケは叶わず、自分で支払うハメになってしまった。かなり軽くなったサイフをさすりつつ、再び降車する予定の駅に目を向けると……
「あれ——あのお客さんって」
彼女の顔を最初に見たのは、ビショ濡れでインクの溶けかけた、小さなポスターの切れ端だった。
彼女の店『峯月楼』に侵入し、3階までこわごわ登って、ようやく真の姿を見れた。
雪のように白い肌、白い尻尾、炎のように赤い唇、パッと目を惹く容貌は、老いてもなお変わらない。
「あれは……花火————‼︎」
御年70歳、雪虎族の花火、その人だった。ちょうど2区の駅でカラーカ・ヴァゴンに乗ろうとしている。紅葉と同じ反時計回りに……。
(ど、どうする? サロンでショーンを探さなきゃ! ううん、でも花火が目の前にいるんだよ!? みすみす見過ごすなんて!)
紅葉は動揺して迷ったものの、すぐに降車を諦め、数個先に乗った花火のヴァゴンをにらみつけつつ、2区の駅を見送った。
幸い、カラーカ・ヴァゴンは1区分でも1周分でも、運賃は一律40ドミー。財布に問題はない。
めらめら燃える紅葉と、ショーンから眼鏡を奪った花火を乗せて、籠列車はトコトコ、ノアの都市を優雅に走る……
「さっそく本題に入りましょう、アルバ様。『ノアの大工事』のことは存じてらっしゃる?」
「はい……もちろん。大工事、ですか」
まさか美容の伝導師から、この単語を聞くとは思わなかった。ノア地区に来たきっかけもその大工事だ。これまでさんざん大富豪だの大女優だのに振り回された結果、一周して話題が戻った気がする。
「昨夜、キアーヌシュの遺言書がノア銀行の金庫から取り出されたそうです。たった今、精査が終わり、裁判所によって本物の遺書と認定されました。表に内容を発表するかは、我々庶民には分かりかねますけどね。ですが、重要な事項は、都市の下に蠢く無数の地下根脈から伝わってくる……」
タバサ・ジュデの耳飾りがジャラリと揺れた。奥のバスタブから聞こえるコポコポとした水滴音が、トレモロ神殿のサウナ室を思い出させて、ぶるりと震える。
「それで、キアーヌシュの遺書には何と……僕やタバサさんに関係してるのですか?」
ショーンはまだピンときていなかった。キアーヌシュの遺書が発見されたからといって、タバサがショーンを留めて、高級酒をふるまう理由がよく分からない。
「彼の遺書にはノアの大工事を最優先で続行させろとのこと——遺産をすべて使ってもよいとのことですわ」
「は、はあ……そうですか……」
だから一体なんなんだ。
タバサはたっぷりと息をため、絶望的な表情をうかべて宣言したが、ショーンはまだピンと来なかった。
シュタット州出身のキアーヌシュ・ラフマニー。彼の莫大な遺産は、ノア都市のものになる。サウザス民としては何ともうらやましい限りだ。どこに嫌がる要素があるのだろう。
「シュタット州やキンバリー社には接収されないってことですね。全額ノアのものになったらシュタット州側が怒りませんか?」
「なんですって? シュタット州はギャリバーを産んだ土地ですのよ。今や帝都に次いで2番目に資産がある州ですわ。キアーヌシュはあくまで株主、ノア地区に文句を言う道理はないでしょう。わたくしが言いたいのはそれではなくて……」
タバサは耳のアクセサリーをジャリンと鳴らした。コポコポコポコポ……水のパイプ音がタイルに響き、ショーンは尻尾の毛が逆立った。花火に盛られた妙な塗り薬の毒はすでに消えている。あれは塗布麻酔だったのだろうか。
「大工事の続行……これはノア都市民にとって朗報でもあり、悲報でもありますの。この大工事は、ノア岩盤を平らにして凹凸を無くし、交通の便をよくして廃水を機能的に行えるようにする工事……ですが、今を生きる住民にとって、得られるメリットより失うお金の方が多いわ。そう思いません?」
「僕に地政学的なことは分かりかねます」
政治の話に、生はんかな知識で突っこむな。魔術学校でもそう教育されている。
「ノアの大工事は、50年以上前から案だけはありました。役所から時計塔にかけて、つまりコントラフォーケ1区付近ですわね。そこを取り壊して再開発する計画が……。トレモロにおすまいの天才設計士ゴブレッティ家にも依頼しましたのよ。色々あって計画は頓挫しましたけれど。ゴブレッティ家も潰れましたし」
「それはトレモロにいた時に僕も知りました。当時そうとう揉めたみたいですね。ノア都市側が彼らに移住を打診して、木工所のレイクウッド社長と意見が別れて争ったとかで」
そういえば、ロイ・ゴブレッティがまだ生きていることは公表されてないのだろうか。彼の性格からして、一生オリバー・ガッセルのまま生涯を終えてもおかしくないが。
「ノアの計画は第2幕に移りましたの。皆が大工事のことを忘れた頃……花火がノアへ移住して来たのです」
「花火……!」
謎多き銀幕のスター。ショーンから【真鍮眼鏡】を盗んだ小悪党。
「まさか、彼女が『ノアの大工事』を復活させた人物だというんですか? 大富豪キアーヌシュの方ではなく!」
ショーンの鼻がひくひく動いた。いつも掛けているはずの眼鏡のありかを探すように。
「お察しが早くていらっしゃいますのね」
タバサはオレンジの唇をにぃーッと細め、濃いまつ毛に影を作った。
「オックス州出身で、帝都で女優をしていたはずの花火は、なぜか現役当時から映画撮影の合間に、ラヴァ州ノア地区へ頻繁に出入りしていました。『夕陽の射景』のロケ先で気に入ったから……とのことでしたが、わたくしの調べでは、その映画の撮影以前からノア都市の夜会に顔を出していると裏が取れてますのよ」
タバサは外来種を見るような目つきをしていた。異分子の排除をしたがっている目を。
「じゃあタバサさんは、初めから花火が怪しいと知ってて仲良くしていたんですか!? 会員1号まで与えて!」
『女に本当の友情は築けないよ。表面状はニコニコしてても、裏では蹴落としあいの悪口ばっかり!』
同性の友人がいない紅葉のこの手の主張を、耳にコブができるくらい聞いていたが、やはり女性に友情は築けないというのだろうか。
「いいえ、わたくしそれほどスパイ活動に長けた人物ではありません。花火との付き合いは20年ほどになりますが、当初は上級淑女にふさわしい、ごく普通の友情を築いていましたのよ。ある日、花火が突然ゲロったんですの。あれは2年前の満月の夜、この部屋で選りすぐりの美男を10人ほど呼んで遊びましたの。花火は上機嫌で男を漁り、酒を浴び……15杯目のマティーニを吐きながら、突然『ノアの大工事』についてペラペラ内情を喋り、バスタブの底に沈んでいきましたわ。初めて聞いたときは、そう……信じられない気持ちでしたわね」
タバサは泣きそうな瞳で笑っていた。
「そうでしたか……失礼しました」
紅葉はやはり間違っていた。女性同士も友情はある。
「楽しいお友だちでしたのよ。あの子は、悪として生きるには、おっちょこちょいな性格ですもの」
サロンオーナーの耳飾りが優しく揺れる。
たとえ悪人であっても、友情はそう簡単に消えないものだ。
「——フえっくしゅい!!」
カラーカ・ヴァゴンにて。窓の外へ乗りあげ花火を監視していた紅葉は、うっかりと盛大にクシャミし、鼻水が飛びでた。
「寒ッ……3月って意外とまだまだ寒いよね」




