1 金庫の鍵にご用心
【Salon】サロン
[意味]
・大邸宅の大広間、客間、談話室
・上流階級の社交場、会合
・美容院、服飾店などファッショナブルな店
・美術展覧会
[補足]
フランス語「Salon (客間)」に由来する。17世紀、宗教戦争の影響で、フランスの宮廷がまだまだ野蛮で粗野だった時代。ローマ育ちのランブイエ侯爵夫人 (カトリーヌ・ド・ヴィヴォンヌ)が、ルネッサンス期の華やかな文化をフランスに持ちこんで社交場を開き、詩の朗読や演劇、討論会など、文化的啓蒙を行ったのがサロン文化の始まりである。その後、多くの上流貴族たちが独自のサロンを開き、知的な会話と美術的交流を楽しんだ。現代では多くの平民たちがインターネット上でサロンを開き、日々会話の応酬と激論を繰り広げている。
ノア都市の夜は、いたるところで歯車が軋み、老人の白髪色をした煙がビルの下に、灰雲のように立ちこめている。
『カーヴィン、そろそろ夜会が始まる。行こうか』
『ああ、緊張するな……うまく喋れるか恐ろしいぜ』
『それくらいがちょうどいい。シュナイダー都市長は夜行性だ、今の時間はシラフでね、我々のような夜に羽目を外す民族とは違う。ああ照袋鼠族は昼夜どちらもいるんだっけか、君は昼型かい』
『ああ、夜型は真ん中の弟だけだな、天才型が多い。昼に生きる奴らは凡人だ』
『ハハッ、それでいい。凡人の魅力を披露しようじゃないか』
彼はパリッしたオリーブ色の高級スーツで、悩める新興企業家の肩を叩き、扉の向こうへと促した。
『オレみたいなもんに、何からなにまでありがとう。エメリック』
崖牛族の建築家、エメリック・ガッセルは、ハシバミ色の瞳を細め、優しげな笑みを浮かべて扉を開けた。
「金庫っ!!……鍵、かぎ、これ使えるかな? ウソ、開いた……!?」
『峯月楼』3階、花火の書斎の壁にあった隠し金庫は、錠前だけで開くようになっており、先ほど引き出して見かけた鍵がピッタリはまった。
大事に隠しておきたい存在のはずなのに、無造作に転がっていた鍵で開いてしまうとは……この手の管理は苦手なんだろう、花火は。
ポスター裏の隠し金庫は、入り口は手狭でも奥に広く、分厚い書類冊子が積み重なって入っていた。
「『峯月楼』の土地権利書、『帝都の花びら』の台本……違う、ちがう、大事なんだろうけど!」
時計の針は16時50分を回っている。そろそろ愛の営みも終わる頃だし、店の営業も始まってしまう。
何冊かの映画台本の下に、薄い書類冊子があった。褪せて茶色に退色しており、表紙には何も書かれていない。題名すらも。
「なんだろう、これ……」
他の書類にまぎれてスルーしていたかもしれない。見逃さなかった幸運に感謝した。
ページをめくると、そこにはノア岩盤の絵が書かれていた。
巨大な台形上の黒い岩盤と、その岩盤の表面に形成されたノア都市のシルエット——その直下に、岩盤の下腹部をくりぬいて作られた、町のような巨大な空間が描かれていた。
町は人々、機械、植物、動物などなど、部屋で仕切られ照明がたかれ、地下帝国のようだった。
岩盤内の地下の町と、岩盤表面にある地上の都市は、太い光の線で繋がっている。
昇降路のような光の線には、細かい字で注釈がついていた。
その注釈は――暗号で書かれていた。
紅葉の全身が凍える針に覆われた。
冊子をつかみ、台本や権利書を元に戻し、金庫の鍵をかけた。
書斎を片づけ、急いで階段を下り、2階の窓を開けて店の外へ飛び降りた。
そうして『峯月楼』の誰にも知られることなく、脱出に成功した。
「は、はっ……ショーンのとこに戻らなきゃ……まだ警察署にいるのかな」
むきだしの古い冊子を抱えながら歩くのは落ち着かない。
3区の裏通りをうろうろしていると、ふいに本屋を見つけた。
背蝙蝠族の店主が、天井の棒にぶら下がりながら、上下逆さまで新聞をめくっている。平積みされた新刊本の間に混じって、大富豪キアーヌシュが表紙の古雑誌も売られていた。
「すみません、これはどういった内容ですか?」
「ああ、それかい。むかーし、時計塔の『守り人』に就任した時のインタビュー記事をまとめたモンだよ。昨日、倉庫から引っぱり出してきたんだが、けっこう売れててね。在庫もないし、早いもん勝ちだよ」
「買います」
他に新聞やゴシップ紙、ギャリバーのカタログ誌なども数冊買った。例の盗んだ機密情報の冊子も、一緒に紙袋のなかに入れて……、
「よし、これでよし」
やっと気持ち的に少し安心し、次にどこへ行くべきか考えた。
もう17時過ぎだ。さすがに警察の事情聴取も終わっているだろう。
「いったん、お屋敷に戻ろっか」
紅葉は2区の警察署に行こうとした足をきゅっと曲げ、1区の役場裏にある、シュナイダー都市長の屋敷へと歩いていった。
「んほぉーー! なんとスッキリ、はぁー、」
「それは良かった。じゃあ事情調書の続きを……」
「スーハースーハー、こんなに空気って心地よいものだったのですね!」
「ノアの空気は悪いです。続きを」
「お待ちください、スゥーハァー、スゥーハァー、ンンンン! 神に感謝を……ッ」
生まれてこの方40数年、ずっと鼻が詰まった生活を送っていたデタ・モルガン刑事は、人生初めての開通に感激し、歓喜の舞をステップしていた。
ノア警察署の第4取調室に入室してから、既に5時間以上は経過している。
ショーンは机に頭を打ちつけ、時間だけが無為に経っていくこの状況に絶望していた。




