6 峯月楼にて
「えーっと、それで遺体を見つけて……」
「ズビ、ズビビビイビーッ!」
鼻炎警官デタ・モルガンに思考が乱され、あのとき何が起きたのか、ショーンはだんだん自分でも分からなくなってきていた。
彼が鼻をかんでいる間に、そっと【真鍮眼鏡】にマナを注ぎ、レンズ上に撮影した写真を確認した。
縄で首を締められ、塔の天井から吊り下がっている大富豪キアーヌシュ。彼は大富豪というにはあまりに孤独で、平凡で、優しげで……老人の顔を見つめるうちに当時の光景が蘇ってきたものの……
(まずい、これを撮ってから24時間以上経過してる。あと2、30時間で消えちゃうぞ!)
「モルガン刑事——お鼻、辛くないですか?」
「ズビーッ。いやはやご心配なく、ズビビ、もう人生の一部ですんでね、大丈ぶ、ズビーッ!」
申し訳ないが、こちらが大丈夫ではない。
「僕、鼻炎を一時的になおせる呪文を知ってるんです。あくまで数日ほど鼻水を止めるだけで恒久的に治せるわけじゃないんですが……掛けましょうか?」
「い、いやや、ズビッ! いくらなんでも警察署で勝手に呪文を唱えるわけには……! せめて上の許可をもらわないとねッ、ズビッ!」
「いいじゃないですか。警察署の誰よりも、アルバのほうが帝国での立場は上だ」
ショーンは慈悲の笑みを浮かべ、有無を言わさず鼻をつまみ、呪文を唱えた。
【ライ麦の穂を鼻につっこんだらさぞかし膿が取れるだろう!! 《ラニー・ライリー》】
生涯鼻炎に悩んだ農業家であり呪術家、デイビッド・ジェリービーンズの渾身の鼻炎治癒呪文である。
「すみませーん、どなたか居ませんかー?」
線香花火よりも繊細な声をあげ、 紅葉は『峯月楼』の内部へと足を踏みこんだ。
ファンロン州風のレストランは、蒸した肉饅頭と揚げた海老の香ばしい香りが漂っている。
店の1階は、まず右手に受付。待合用の長椅子と翡翠色の麒麟棋盤が少々。営業時間外のせいか店員の姿はなく、帳簿台に紫の毛筆だけが立っていた。
壁で仕切られた左手には、淡い睡蓮色の客室が。赤い丸提灯のしたに黒漆の円餐卓が5つほど並んでおり、その奥の扉に厨房が続いている。
「すぅーみぃーませーん……」
左奥の厨房から微かにカシャンカシャンと食器の鳴る音が聞こえ、紅葉は独り言より音量をちいさく落とした。
(おねがい、誰も来ないで……!)
紅葉はもはや小豆冰餅を買いにきた設定も忘れ、ショーンの尻尾より腰を低く落とし、受付と客室のあいだの廊下をまっすぐ進み、2階へ続く階段までソロソロと歩いていった。
峯月楼の2階は、1階よりも見覚えがあった。
個室が大小2部屋あり、このまえ通されたのは小のほうだ。個室のほかに簡易的な厨房と、小さな噴水つきの御手水。豪華な壺や派手な置物はあまり無く、白地の壁に夜の花火をあしらった掛け軸と絵画が飾られ、1階よりも静かで落ちついた印象がある。
(誰も居ない……やっぱ、3階か)
階段は上まで続いている。おそらくオーナーの私室があるのだろう。そこに銀行員エドウィンがいるはず。 そして、オーナーである花火も……。
紅葉は覚悟を決め、四つん這いになって階段をあがった。緑竹色のフカフカ絨毯が前面に敷かれているので、床音がきしむ心配は少なかったが、それでも慎重に、油虫のごとく歩を進めた。
『このポスターの切れ端、時計技師のダンデ・ライトボルト氏が昨日、僕にこっそり渡してきたんだ。大女優の花火が、大富豪キアーメシュと何か関わりがあるってことだと思う。彼女が真犯人か、犯人の関係者ってことなのかも……』
紅葉は改めて歯をくいしばり、拳を握った。
大女優、花火。雪虎族。5度の結婚と離婚を繰り返し、女優引退後にノア地区に移住してきた。オックス州出身のはずなのに、なぜかファンロン州風のレストランを開業している。
銀行員エドウィンは仕事で来たのか、それとも花火の手下なのか? そして、組織との関係は——!?
紅葉は思考を巡らしながら階段を上りきった。階段は3階で終わっている。ここ以外ないはずだ。
峯月楼3階は、淡い蓮花色の壁紙が全面に貼られていた。肉桂色のドアが全部で4枚。それぞれ独立した部屋のようで、その1つから男と女の声が聞こえた。
『……あっ、……んん! もっと……もっとよ!』
『…………こちらですか?……………』
『あぁああ、あっあああっ……あん、もっと、もっと来てぇ!』
…………これは。
花火とエドウィンの声…………か?
紅葉は全身が石像のように固まり、装飾ドアにグッと右耳を押しつけた。熱烈な嬌声と呼吸音、ぱちんぱちんと弾力音が聞こえ、こちらも大量の汗と鼓動で頬が爆裂しそうになる。
(たしか……『帝都の花びら』って50年前の映画だよね……花火って……70代だよね?)
いや、野暮なことをいうのは止そう。愛に年齢は無関係だ。
紅葉はその場を離れ、残りのドアへ忍び寄った。
3階の寝室と思わしき部屋以外は、書斎、応接室、浴室便所と、完全に自宅仕様となっているようだ。
応接室には、来客用のソファテーブル、その奥にはレコード棚に蓄音機、オルガン、マイク、小さな舞台ステージと、歌が披露できる空間が用意されていた。さすが大女優、一般家庭とは一味違う。
(事件の証拠はなさそうだよね、やっぱりこっちでしょ……)
滑り込むように書斎へと入室した。情事が終わるまであとどれくらい持つだろうか。
花火の書斎は、ファンロン風の書斎机、チェストに本棚、化粧鏡台。壁には夜空が背景の花火があがる仕掛けのカラクリ時計、映画のポスターが9枚、額に入れて飾られていた。
書斎机のひきだしの中には、名刺箱に、賃貸借表に、雑多な書類の数々、絵葉書、切手、小さな鍵……あまり整理は得意じゃなさそうだ。
(えーと町内会の名簿に、古いファッション雑誌に、ファンロン料理のレシピ集……ちょっと何もないかも!)
大女優の書斎机の中身としては、あまりにも普通だった。『酒場ラタ・タッタ』の女将、ルチアーナの机の中と入れ替えてもそう変わらないだろう。
大富豪キアーヌシュと関係ありそうなのは、ノアの大工事についての書類だけ……地域住民に配られたであろうパンフレットだけだった。
簡単に事件の証拠なんて見つかるはずがない。そもそも、時計技師ダンデがよこしたポスター絵の切れ端を信用するのも、どうかしている。
このままでは、ただ不法侵入した女になってしまう。
時刻はすでに16時35分が経過していた。
「せ、せめて名刺を……これだけあれば1枚もらってもバレないよね」
何も情報が得られないなら、せめて名刺だけはもらっておこう。蓮華飾りの名刺箱から、数百枚のうちの1枚を失敬した。表はシンプルなプロフィールに『峯月楼』の住所、裏にはびっしりと歴代の出演映画タイトルが列挙されている。20以上あるだろうか。
「『帝都の花びら』『あんずの唄』『夕陽の斜景』『めばちこ』『並木馬車』『あやとり』『雪隠れの女首領』『玉草の恋』『六角形』……太字になっているのが主演映画みたい」
壁に飾られているポスターの数とも一致しているようだ。
「あれ、『帝都の花びら』だけ順番がヘン……『めばちこ』と『並木馬車』の間にある」
出世作の主演映画だからだろうか。他のポスターは左から順に年代順に並んでいるのに、これだけ壁時計のすぐ下に飾られている。カラクリ時計の針は、16時45分を指していた。
「ポスター……『帝都の花びら』……時計技師ダンデさんがこれを寄越した……」
ポスターは高級な額縁に入れられ、大切に壁に飾られている。
紅葉は吸い寄せられるように『帝都の花びら』のポスターを額縁ごと壁から外した。
そこには淡い蓮華色の壁紙にそぐわぬ、武骨な黒い鉛色——隠し金庫の扉が存在していた。




