2 てゆーかアンタ誰?
『もみじぃいいいい!』
「————!」
ショーンに呼ばれた気がして、紅葉が起き上がった。
いや、起き上がるのは無理だった。
ギチッと躰全体に縄の締めつけを感じ、すぐに反動で冷たい床に叩きつけられた。
いや、はたして床だろうか。
冷たい夜風が吹きあれ、肌と髪をはたいてゆく。
外だ。だが地面でもない。ザリっと不快な埃と砂利の感触がする。
——屋根か?
「ん~んっ?」
フェアニスリーリーリッチの声だ。氷しか無くなったジュースのストローをジュボジュボと吸う、耳障りな音がする。
紅葉は一瞬で体を硬直させ、昏倒したままのフリを続けた。
「~ふぅん」
フェアニスは再び、背中を向けたようだ。
彼女の気配は存分に感じるものの、人肌は感じない程度の距離にいる。
昼間、地下水道で意識を失ったはずだが、いったいどういう状況だろう。ジョバンニ爺さんもベゴ爺さんも、近くにいるとは到底思えない。きっとフェアニスと2人きりだ。
紅葉は瞳を閉じ、頬に冷たい汗を流しながら、風があたる音だけで周囲の状況を確認しはじめた。
(風が強い……ノアさんの部屋のときよりずっと寒い。湿気もある。……夜風だ。ヒュウヒュウと風が巻く音がする。場所はビル街、ビルの屋上……ではなさそうかな、上のほうにも壁がある。でもベランダより風通しがいいってことは……どこだろう……尖塔の尖塔の間、とか?)
紅葉はクシャミを出そうになるのを必死にこらえた。
ここがどこであろうと、とにかく高い場所にいるのは確かだ。仮にフェアニスと戦闘になって空中に蹴り飛ばされたら、一瞬でデズ神の元へ行ってしまう。
「——ったくぅ、あいつ全然こないじゃん! んも〜!」
フェアニスはブラブラさせた両脚をペチペチ膝にぶつけていた。
彼女は誰かと待ち合わせしているようだ。ジョバンニ爺さんことアーサーの父親、フィリップ・フェルジナンドとだろうか? いや、昼に地下水道で会っていたのに、また夜中のビルで待ち合わせなんて考えづらい……。
紅葉はそっと目を開け、視覚でも周囲を確認してみた。
眼球のみ上下左右に動かし、逃走できそうな窓や階段がないかチェックしたが……目の前には悲しいかな、そびえ立つビルの壁、壁、壁……
(どこにも窓がない。どっかに梯子はあるかもだけど、こんな高層ビルの上で、羽なし民族と待ち合わせなんかしないよね。きっと同じ鳥族同士と……あ! 【Fsの組織】の人間なら、鳥みたいに呪文で飛べるじゃん! こないだの仮面の男ってこと!?)
「んもおお、せっかくこんな大荷物つれてきたのにィ! バーカバーカ! もーやだ、帰っちゃおーかな〜」
フェアニスは怒りでジュース瓶をゴツゴツ、ビルの外壁へぶつけている。
(待ち合わせ相手は来ない、フェアニスはもう帰る……私をどうするつもりだろう。お願い、このまま置いてって!)
紅葉は荒息をなんとか抑え、気絶したままのフリを続けた。足先から口元まで、麻縄のロープでグルグル巻きにされていたけれど、これなら自力で引きちぎれるだろう。
フェアニスが蒼鷲の翼を空に広げ、ビルの外壁を脚で蹴り、
紅葉が安堵したその瞬間——
《ビー! ビー! ビー!》
腰に巻いていた紅葉のトランシーバー【エルク】が、自分の存在を誇示する音を、ビル風に負けぬ大音量で高らかに放った。
「やった、やっと繋がった!」
昨日から一度も応答することのなかった紅葉のトランシーバー【エルク】が、ようやく『ブプッ……』と鈍い電子音を立てて、繋がった。
「紅葉、無事か? 返事してくれ!」
『いやっほー。アンタ誰?』
「——————!!」
妙に甲高い女の声がして、あやうくトランシーバー【ムース】を落としそうになった。
「その声はラン・ブッ……じゃない、フェアニスリーリーリッチだな!?」
ノア都市に来てから何人も、鳥のようにけたたましい声の持ち主を聴いていたが、ショーンはなんとか声の主を正確に言いあてられた。
『あたりィー、フェアニスちゃんでーっす。ねえ待って、今ラン・ブッシュって言ったよね? アイツどこにいるか教えてよ〜、今夜約束してたのにスッポかされて困ってるんだけどお! てゆーかアンタ誰?』
「ランは……いや、紅葉はどこだ! 紅葉が無事なら全部教える」
ショーンはあやうく『知らない』と答えそうになったが、すんでのところで回避し、情報を交換材料にすることに成功した。
『えー彼女寝ちゃってるよー。ちゃんと起きてくーれるかな?』
フェアニスは、紅葉の胴体に馬乗りになり、口元の縄をナイフでぶちぶち切った。そして優しく起こそうと、手のひらを頭上へ振りあげ、左頬をビンタしようとした瞬間、
紅葉は眼球をかっぴらいて、思いきり叫んだ。
『ショーーーン! わたしは大丈夫っ、いま、ビルの上にいるみ……ッ』
バチーン、と上空378メートルの打撃音が、宙に響いて虚空に消えた。
『——んで、ランはどこぉ?』
ショーンは、胃から硫酸が逆流するような感覚をおぼえた。憤怒の言葉が、喉から雪崩れそうになる。
しかし……病棟の床にグッと踏み止まって飲みこみ、首に赤筋を立てながらも、冷静にフェアニスリーリーリッチと交渉を始めた。
「フェアニス……君は銀曜日の昼間、ラン・ブッシュが『時計塔』に襲撃しにきたのは知ってるか?」
『は、襲撃ィ? 知らなぁーい……ザ、ザア——……』
妙に雑音がする。フェアニスと紅葉は、あまり電波が良くないところにいるようだ。
「じゃあ、君がランと会う約束をしたのは、その『前』ってことでいいんだな」
『はぁ? 前か後かなんてアンタに言う必要なくな〜い』
「いや、あるよ。ランは昼の襲撃で重傷を追って、意識を失ったんだよ。もし『後』だったら、キミが約束した人物はニセモノってことになるだろ」
『ほーーーん?』
ザアアアア、ヒュゥウウウと、硬い建造物の隙間を、風が無理やり通っていった。バサバサ、バサバサとフェアニスリーリーリッチの蒼い翼羽をさらに細かく叩いていく。
『しゃーない、ま・え・よ。だからホンモノ』
フェアニスの嘴唇がコツコツ鳴る音が、トランシーバー越しに伝わってきてきた。ショーンは青い汗を流して緊張したまま、しかし堂々とした交渉人のように緋色の唇を動かした。
「こうしないか? フェアニスリーリーリッチ。僕はラン・ブッシュの身柄を預かっている。君は紅葉を連れてくる。どこかで落ち合おう。互いの大切な人を交換しようじゃないか」
これは “猿の尻尾” (ウソの報告)だ。
ラン・ブッシュなんてここには居ないし、行方も知らない。
ショーンの意識は、すでに紅葉の奪還とフェアニスの確保に舵を切っていた。灰褐色の病院タイルの上で、ボコボコッと赤銅色の溶岩流が湧き立っている。
『つまり、アンタの傍に、意識を失ったランがいるってことお?』
「そうだ。ラン・ブッシュを警察に引き渡すのをやめて、君にお渡ししよう。僕は紅葉を無事に返してくれればそれでいい」
それは本当に本心だった。嘘じゃないから誠実に伝えられる。
フェアニスはフフッと美少女のように微笑み、蒼翼の羽をファサッと静かに広げ、こう言った。
『ぎゃははっはははッ! ぜえったい嘘でしょソレ。だったら最初に喋ったとき、フェアニスちゃんのきゃわいーボイスが、ラン・ブッシュのドス声かどうかなんて間違えるはずないじゃん、キャハハハ、ばぁーーーーかッ!』
《その声はラン・ブッ……じゃない、フェアニスリーリーリッチだな!?》
(ク——ッソがっ!)
ショーンは、自分自身への怒りで頭を殴りそうになった。
『ギャハハハ、……グホッ!! 』
生意気な女の口から、胃の潰れる声がトランシーバー越しに響き、以降、【エルク】からの応答は途絶えた。
コントラフォーケ2区の14番街。ノア病院からほんの20メートルしか離れていないビルの、およそ17階の高さの上で、
「フェ、ア、ニス……、あ、んたを、………」
誰かの断末魔が聞こえようとも、
「殺す——————!」
気に留める者はいなかった。




