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1 そんな人物、居ませんでしたよ

【Impulse】衝動


[意味]

・心のはずみから来る一時的な感情、行動

・何かに突き動かされ、駆り立てられる感情、行動


[補足]

 ラテン語「impulsus (圧力、衝動)」に由来する。im-は内側、pulseは脈拍、鼓動、一打ち、興奮の意味で、すなわち「体の内側からあふれる脈拍と鼓動」というものが衝動の正体である。





 ショーンは気づけば、茫漠たる暗闇の草原にいた。

 ザァア、ザァアアと枯れかけの草と乾いた風がこすれる音が、羊角に響く。

 ふと下を見ると、柔らかなクリーム色のアルバの服が、煙で燻されたように黒く濁っていることに気づいた。

 急いで首を起こし、辺りを見回すと、ふと金色の細い糸が目に入った。

『…………エミリア?』

 糸の行方を追うと、エミリア刑事の後ろ姿を発見した。金髪のツインテールを風にそよがせている。しかし突如、彼女は駆け出し……ショーンも急いで後を追った。

『待って、待ってくれ!』

 エミリアは草原の丘を駆け、丘の上に発生している黒々とした積乱雲のなかへ飛び込んでいった。

『いやだ、一人にしないで!』

 普段のショーンならしない行動だろう。彼女の背中を追いかけ、思わず雲の中へ入ってしまった。


『うわっ!』

 暗い荒雲に入ったとたん、警護官の写真が風に飛ばされてきて、ショーンの顔にへばりついた。レイノルド・シウバと、バンディック・ロッソ。サウザス新聞社の紙面で見つめた白黒写真の人物たちが、今度はショーンを睨み返すように、印刷された瞳でジッとこちらの顔を凝視してくる。

『嫌だ!』

 斜めから妙な匂いがした。スパイスの香りだ。少量使えばいい香りだが、大鍋のなかにぶち込まれ、鼻が曲がるほど強烈な芳香を放っている。サウザス市場で見かけた全身黒ずくめの香辛料売りが、黒い月の大鎌を持ち佇んでいた。

『助けて!』

 煙の先を進んだ奥に、かろうじて小さなエミリア刑事の後ろ姿を見つけた。思わず叫んで呼び求めたが、エミリアのさらに奥に、キャハハハと耳障りな嬌声を立てている雷豹族の影を察知し、すぐさま足を止めて後ずさった。

『あら、どうしたのショーン。怖いの?』

 優しい御婦人の声がした。油断して振り返ってしまった。そこには小柄でモフモフした前髪と尻尾の森栗鼠族——マリア・ウォーターハウス夫人が立っていた。昔、何度かお茶をしたことがある、コリン駅長の奥さんだ。

 ショーンは悲鳴をあげて、下を向いて、ひたすら走った。

 このままだとコリン駅長にも出会ってしまう。

 そしてユビキタスにも——

 はやく、はやく、一刻も早く、この煙を抜け出さなければ!



「うわあああああああああ!」



 ショーンは心の底から恐怖で叫び、銀スチールの診察台の上で飛び上がった。

「ウン? 元気のようだな」

 白いマスクに黒の顕微鏡をつけた、白衣姿の初老の男性医師が、首を傾げて感心した声をあげた。ほっそりした顎の先から、チロチロと長い舌を出し入れしている。

 見覚えのある顔だった。そう、サウザス事件の時によく見た顔だ。

「あなたは……そうだ……ベルナルド・ペンバートン監察医っ!」

 ショーンは自身の叫び声で、脳内にキーンと頭痛を走らせ、まな板の生きた魚のように、苦しみうめいた。

「左様。デズの胸元から帰還したようで何よりですな、アルバ様」

 ラヴァ州中の変死事件を検案する法医学者、ベルナルド・ペンバートン医師は、ファサッと、蟻喰族の黒々とした尻尾を揺らした。



「なんで貴方が僕を診て? ここはノアですか、ロビー・マームは無事ですか? 大富豪キアーヌシュは? そうだ、あいつ、ラン・ブッ……ゲボッ、ガバッ!」

「落ち着きなさい」

 ベルナルド医師は片手を振って、近くにいたスタッフ数名を人払いし、ギチッと金属音の鳴るパイプ椅子に座った。

 ショーンは診察台の上に起き上がり、いったん呼吸と精神を整えた。喉は焦げたような痛みがあったものの、ゆっくり話せば我慢できる程度に落ち着いていた。

 予備の診察室と思わしき狭さな小部屋は、灰褐色に濁ったタイルが敷き詰められ、室温以上に冷たく感じる。

「……あ、あの!」

「静かに。ここはノア都市の南西、コントラフォーケ2区のノア第一病院ですよ。隣に警察署があり、キアーヌシュ・ラフマニーの検分を終えてからここへ来ました。一応、貴方がたの体に、何か痕跡や異常がないか調べるためにね」

「そ、そう、ですか」

「もう一人の彼を先に監察しましたよ。命に別状は無かったものの、左肩甲部にナイフが刺さっていた。名前はえー……マームだったかな?」

 ベルナルド医師は、舌をチロチロさせてポケット手帳をめくり始め、ショーンは「そうです!」と焦って答えた。

「そう、あのナイフには黒みがかった樹脂状の物質が塗られていた。まだ検査中だが、おそらく……『クラーレ』。有毒のアルカロイドを含有するツル科植物を煮詰めて作られたもので、狩猟用の毒矢に使われている」


挿絵(By みてみん)


 ショーンは息を呑み、ラン・ブッシュの悲鳴を脳裏に反芻させた。

 声と体は思い出せる。でも顔は——黒ガスマスクの姿しか思い浮かばない。マスクがズレた素顔をなんとか思い出そうとするも……黒い煙と刺激臭に阻まれ、叶わなかった。

「クラーレは、神経接合部に作用する筋弛緩剤でしてね。塗布量からして、何らかの障害が残るかもしれない」

 ロビー・マームの笑顔が浮かび、胸が締め付けられそうになった。とんでもないことに巻き込んでしまった。早く会わなきゃ——でも、

「あの、もう1人の女性は……生きていますか?」

「うん? 誰のことかね」

「毒ナイフを放った張本人です。僕が呪文で跳ね返したから、あいつの体には2本刺さっているはずです。彼女は……?」

「にほん?」

 ベルナルド医師は黒く太い眉を寄せ、フサフサな箒のような尻尾をふぁさッと揺らした。


「そんな人物、居ませんでしたよ。現場にも、この病院にもね」


 ショーンの赤い喉の奥が、一瞬でどす黒く染まった気がした。

「まあ、争った形跡はありますから、そっちは警察にお聞きなさい。そうそう、キアーヌシュの検分ですが……」

 暗き冥界に突き落とされた気分になり、その後、ベルナルドが語ってくれた、大富豪キアーヌシュの遺体情報も、ほとんど脳から落ちていき、胃液の奥にぽたぽたと溶けて消えていった。



「ショーン殿——アルバの仕事はよく存じませんが、貴方はクラウディオ・ドンパルダス氏のように、警察に協力して事件捜査を行いはじめた……という認識でよいですかな?」

「え、は、はい!」

 ベルナルド医師に自分の名前を呼ばれ、ハッと冥界から現実に引き戻された。

「ええ。僕はあの事件以降、サウザスを出て、【帝国調査隊】として働いているんです。ええと、バッジは……」

 帝国調査隊の星バッジどころか、着ていた服も診察室から消えていた。血まみれだったから洗濯に回されたか。まあいいやと、薄い入院着姿で振り返った。

「ベルナルド先生は、ラヴァ州の変死事件を扱ってるんですよね。またお会いするかもしれないです。その時は、よろしく…」

「ええ、いいですよ。ただし遺体となって私の前に現れないように」

 優秀な法医学者は、彼なりの労いとジョークの言葉を伝え、ショーンの元から去っていった。


 3月28日火曜日、時刻は夜更けの0時20分。

 誰もそばにいなくなり、寒けが一気にショーンを襲った。

 ラン・ブッシュが消えてしまった。

 ロビー・マームは障害が残るかもしれない。

 キアーヌシュの遺体が無事だったことだけが幸いか。

 あと何か忘れてる気がする。なにか……


「——もみじ!!」

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