4 いやだ、いやだ、いやだ
『ふぅ……こんなもんでいいかな? ネクタイってやつぁ、いつまで経っても慣れやしねえな』
『似合ってるぞ、カーヴィン』
『あら緊張なさって、ここへは初めてですの? フフ』
カーヴィンは、妙に艶のある女性の声に振り向き……あまりの美貌に声を失った。
『これはこれは、花火嬢。お忙しい貴女に会えるなんて光栄だなあ。『夕陽の射景』じっくり拝見しましたよ』
『やだ。お恥ずかしい。どうせじっくり見たのは夜帳のシーンなんでしょう。分かってるわよ、アナタ』
花火という名の女性、雪虎族のようだ。白い柔肌に赤い口紅、くりくりとした大きな瞳と切れ長の眉毛は、幼さと妖艶さをうまく同居させている。
そんな顔の良さもさることながら、体の曲線美と柳のようなしゃなり歩きが、素人のそれではなかった。
『じゃ、ノアの夜をごゆっくりお楽しみくださって』
『は、はー……』
彼女はニッコリと銀幕スターの笑顔を間近で振りまき、白い虎の尻尾を丸くくねらせ、遊戯室から出て行った。
薔薇が人のかたちをしたような花火に対し、シュタット州の田舎男カーヴィンは、名も名乗れず、溜め息をつくしかできなかった。
『あ、あんな人がいっぱいいるんかい、今日のパーティーは……』
『ハハ、まさか! 彼女ほど別格な美しさの人はいないよ、いや女性はみな美しいがね……フフ』
ネクタイの結び方もろくに知らないカーヴィン・ソフラバーを、都市長に引き合わせようと画策している人物は、仕立てたスーツの肩を、ククッと持ち上げ笑った。
(視界が……黒い……)
ショーンは闇の中にいた。
モルグの神の住まう地のようだ。
あの日——サウザスの駅で列車が爆破されそうになった日に、
けして目を閉じないと誓った。
確かに瞑ってはいない。
だが痛みで動けず、ほぼ暗闇の中にいた。
喋ろうとすると、ゼェー、ガァー……と言葉にならない音がでる。
ラン・ブッシュを舐めていた。
フェアニスリーリーリッチも。
たまたまアルバの家系に生を受け、
マナを人より多めに持っていて、
魔術学校でそんなに優秀な成績でもなかったのに、
運良く合格してアルバになれて、
ちょっと呪文を打てるだけ。
勉強は苦手、努力はきらい。
もし、そんな自分が呪文を打てなくなったら、
(……他の人より優れたとこなんて何もないんだ……)
それに気づくのは恐ろしいことだった。
都市長一家に便宜を図ってもらって、警察に偉そうにふるまって、呪文を打てなきゃ、何の地位も価値もない。羞恥の針がショーンを突き刺す。
(いやだいやだいやだやだやダだヤだヤだだやダだァアアアア————!)
ショーンはアルバの服を翻し、黒い煙の中をもがいた。
視界が奪われたまま時計塔の中に入り、容赦なく家具にぶつかり、猛毒の煙のなかを床に這いつくばり、足を打撲しながら進み、
トレモロの盗難事件の犯人で、【Fsの組織】の一員、
《祝福されし者》——ラン・ブッシュを必死で探しまわった。
『っあれー? どっこーだろー☆』
ショーンを突き飛ばし、時計塔に侵入したラン・ブッシュは、誰もいなくなった塔内を、自由に闊歩していた。
螺旋階段の手すりから、豹のように滑らかにジャンプし、上の階段の足元に飛びつき、またジャンプする。そうして鳥民族の飛翔よりも速いスピードで、10階分の高さを駆けあがったが……
『ないじゃん、もお~、ちょうムカツク★』
お目当てのブツが見つからず、不機嫌な様子で螺旋階段の手すりに腰をかけ、3層から1層まで滑り降りた。喋るたびに黒いガスマスクがフゴフゴ動く。
『塔からは出てきてないハズでしょー★……あれ、ケイサツとかもいないの、なんで?』
大事なことに気づいたランは、頭をかしかしと掻いて首を傾げた。1階は自分がかけた禁術呪文によって、黒い煙で充満している。
「……ラ゛ァアアア゛ン」
『おん?』
白い服を身にまとったサウザスのアルバ、ショーン・ターナーが、ろくに目も開けれず、発声もできず、強烈な刺激臭のなかボロボロになりながら1階の螺旋階段を上がってきた。
「ラァアアン・ブッシュ゛ウ゛ウウ」
『キャハハハッ☆』
獲物を見つけた雷豹族は、ガスマスク越しに瞳をキラキラさせ、唇が頬から突き抜けるほどニィーッと笑った。
右脚を高く蹴って、至近距離まで一気に詰めより、ながーい左脚をひとふり円弧をかいて、ショーンの喉口めがけて、鋭く蹴り潰そうとしてきた。
『死ぃーーーーーーねっ☆』
「——————————ッ!」
空気を斬首する音が目の前で鳴った。
『では、布などで軽く口を塞いでも、呪文は使えなくなるのかね?』
『左様! 呪文拘束具はより発声しにくい形状になっていますがね!』
『無理やり塞がなくても、発声できなくなったらどうなるんだ』
ブーリン警部の疑問に、クラウディオはチッチと人差し指を揺らした。
『残念ながら呪文を使えなくなるのですよ、警部。アルバ引退ですな。アルバは呪文を扱えることが必須条件なのです』
ショーンはその場を動けなかった。
もちろん、呪文も打てなかった。
無意識の行動だった。
顔の目の前にある【真鍮眼鏡】をパッと取り、華奢な細い眼鏡のツルで、喉を守ろうと盾にした。
『その眼鏡は【真鍮眼鏡】かと存じます。わたくしに触れさせていただけないでしょうか』
エイブ・ディ・カレッド社の老店員の、尻尾の先端がクッと曲がった。
『いいですよ。慎重に持ち上げてください。変に力をこめないで』
ショーンは作業机に真鍮眼鏡をそっと置き、鼻のツルを指で押し上げるように指示した。
『なるほど、これが例の『ルドモンドで最も重い鉱石よりも重たい』重さですか……魔法のようです……』
魔法のような不思議な魔術具【真鍮眼鏡】は、細い筐体で、
ランの強力な足技を受け止め————
『………っ痛ったあああーーあ★★★★!』
火花が飛び散るように相対した束の間、【真鍮眼鏡】は傷ひとつ、歪みひとつなく、ショーンの顔の前に鎮座していた。
ランは、自分の打った力がそのままそっくり自分の脚へ跳ね返ってしまい、ビリリリリリと痺れて悶絶している。
『痛いいたい痛だいイターーーいッ★★★!』
(ラン・ブッシュ、やっぱり本物のアルバほどのマナの持ち主じゃない!)
「ゼェ……ゲホッガホッ……」
ショーンはなんとかこの場を生き残ったものの、刺激臭が消えたわけでも、喉の炎症が治ったわけでもなく、顔面から汗と涙と鼻水を噴き出して葛藤していた。
(つ、つかまえなきゃ……それとも、ほ、ほっとく?)
今は痛みで悶えてるとはいえ、警察学校で鍛えた肉食民族ランとの、身体能力差は明らかだった。
(いや放置はダメっ……そうだ、ガスマスクを外そう! 僕がつければ少しはマシに……)
反撃される懸念はあったが、一刻もはやく顔面地獄から抜け出したい欲が勝ってしまった。ショーンはランの頭から奪おうと飛びついたが——案の定、そう上手くいくはずもなく。
ガスマスク越しに、肉食動物の眼光が鋭く光った。
次の瞬間、ショーンはランの右腕で軽々と持ち上げられ、螺旋階段から吹っ飛ばされ、1階の床へと落下していた。
『プッハ……おっもしろくなってきたじゃん☆★☆ ギャハハハハハ……ッ★☆★!』
雷豹族、ラン・ブッシュ。
雷のように髪をうねらせ、尻尾の毛を剣山のように逆立て、咆哮と嬌声交じりの叫びを上げた。
痙攣から超回復した膝をふかぶかと曲げ、ショーンにとどめを刺すべく跳躍した。




