3 ガラスの油
3月27日銀曜日、時刻はダンデ爺さんがキッチリ修理した午後4時52分。
昼の終わりを告げるように、爆竹と花火の音色が、時計塔周囲にバンバン響く。喧嘩のおたけびと檄の怒号が、烈火の花を添えていた。
この時までは、掃除夫ノアもベゴ爺さんも、周囲の野次馬たちも、対岸でスリルを楽しむ傍観者でいられたのだ。
怒号に乗じた、涼やかな死の音がひとつ、投下されるまでは。
カチャーーーン
何者かの手によって——火炎瓶が投下された。
掃除夫ノアの大きな瞳の硝子体は、偶然その手の主を捕らえていた。しなやかで長く、ほっそりとした筋肉質の、灰白っぽい女の腕だった。
「嘘だろ……なあ爺さん、ちと本格的にまずい気がすんぜ!」
ノアは、あわてて煙草の火を揉み消し、酒瓶の底をペロペロしているベゴ爺さんの胴体をかかえて起き上がった。
「待っちゃ! びるの上へ逃げたらアカン、火災が起きたら逃げ場を失うぞいッ」
「んなこといったって、下はヒトの大洪水だぜぃーっ」
ノアとベゴ爺は、上にも下にも逃げられず、2階と3階の間という、いざとなったら飛び降りられる位置で縮こまり、最悪の事態に備えて、緊張しつつ留まっていた。
「ッ——最悪の事態だ」
時計塔、1層。
都市長ゲアハルト・シュナイダーは、愛機【グリズリー】にヒビを入れんばかりに青筋を立て、窓から凶騒を見つめていた。
ノア都市でこのような暴動が起きたのは、42年前の飢饉以来だろうか。いくら労働者の幸福度が近年下降気味であるとはいえ、ここまで火種が膨らんでいるとは思いもよらなかった。
「都市長! 早く逃げてください!」
「アルバ様、しかし余所者のあなたを最後にするわけには……」
「いいから逃げて! 僕のほうが命令権はあるっ」
ショーンは、都市長ゲアハルトの黒紫ローブを引っぱり、地下室へといざなった。秘書たちも、兄妹たちも、警察の面々も、すでにマンホールを降り、地下水道下へ到着している。
唯一、キアーヌシュの遺体だけが、塔の地下室に置かれたままだ。
1層の窓からは、炎の揺れが見えている。
「火を消さなきゃ!」
ショーンはあわてて、時計塔の外に一歩飛び出した。
火炎瓶が投げられた広場では、散り散りに人々が逃げだしている。みな両手をもつれさせて逃げ、もつれた人の塊が、さらに別の塊を生んでいた。
大富豪キアーヌシュへの怒りを上げていた面々は、我先にと一目散に逃げうせ、時計塔を守ろうとした自警団らは、消火すべく上着を叩き、懸命にもがいて対応していた。
【雨が地上を潤すか、川が地上を潤すか。 《サド・エル・カ——
火炎瓶の炎を消すべく、放水呪文 《サド・エル・カファラ》を放とうと、構えをとったショーンの前に——妙な人物が立っていた。
(え、誰だ……?)
その異様な姿を、きちんと確認しなければならなかった。しかし外へ二歩出たショーンは、思わずジクッと目を細めてしまった。
黒い火煙を多分に含んだ空気は、灰色の工場ガスと混じりあい、強烈な酸のように視界を潰して奪う。
(ダメだ、ちゃんと誰なのかよく見なきゃ!)
まず第一に見えたのは、大きく膨らんだ女の胸だった。
ショーンは涙を流し、拳をあげ、強い意志で傷む眼球をこじあけた。
女にしては妙に背が高く、肩が広く、足が太くて筋肉質だ。
薔薇柄の青ジーンズに、黒いベルト、タイトな白トップス。
灰色の毛に黄色混じりの、長いヒョウ柄の尻尾を揺らしている。
顔面はどうなっているかよく分からない。
黒いガスマスクを付けていたからだ。
謎の女は肩で笑い、大きな右手を、自分の顎につけて、呪文を唱えた。
【硫酸は注意して吸いなさい。 《ヴィトリオリック》】
(禁術————————————————!!)
耳にしたことのない厭な文言に、ショーンは息呑む間もなく核心に至った。
しかし対応かなわず、塔の出入り口はサーーーッといっせいに黒い煙で充満し、ショーンの視界を黒一色に染めあげた。
(クソッ、なんだこれ!)
煙にはもっちりとした弾力と感触があり、身動きがとれない。もくもくした煙の気体が、実体化して出現したかのようだった。煙は強い刺激臭と痛みを放っている。
そう、まるで硫酸のように——
【雨が地上を潤すか、川が地上を潤すか! 《サド・エル・カファラ》】
ショーンは禁術を消す方法を即座に考えられず、とにかく消火すべく、がむしゃらに放水した。
放水呪文 《サド・エル・カファラ》は、黒い実体煙を突き破りはしたが、奥の煙に阻まれ、あまり飛距離は伸びず、その間、女はショーンの体を思いきり突き飛ばし、時計塔の内部へ侵入していった。
(まずい、あいつ、大富豪殺しの犯人か!?)
ショーンは染み入る硫酸煙に耐えられず、いったんすべての器官を閉じるしかなかった。体を丸め、息を閉じ、煙が体内に入らないよう、服の布地で覆い、強く祈った。
「ゲホッ、ゴゴゴホッ、ガッ……」
思いきりむせたかったが、むせるたびに酷い痛みが気道を切り裂き、喉を焼き、赤黒く焦げただれた音を立てる。
(これが……禁術! 遮断呪文 《テルミヌス》で消せるか!? いや、消さなきゃ駄目だ、ダメ……ッ)
【ここは境界の標だ… 《テル… ガホゲッ!
喉が潰れては、いくら優秀な帝国魔術師だろうと呪文は打てない。
ショーンは息を黒煙で焼き焦がしながらうめいた。脳みそが酸で溶ける気分がする。あの女に体勢を崩されてから、膝が崩れて戻れていない。炎の煙が、ヒョウの尻尾のように滑らかに瞳の硝子体の中をうごめく。
(あ、いつは、きっと、雷豹族の……ラン・ブッ——
記憶がズズズズと黒く溶けていき、その場に異臭しか残らなかった。
「——いったい何が起こっとるんだ!」
「ショーン様はまだ降りてこないの?」
「ビネージュ警部、地上の様子がヘンです!」
「エエ……異臭よ!」
地下水道に降りた面々は、アルバ様だけがいつまでも降りてこないのを心配し、さらに嗅覚の鋭い警官たちが、異様な臭気を嗅ぎとり叫び始めた。
「なんだと警部、原因はわかるかね、何かに引火したのか!?」
「ノーン! 異様な刺激臭……木でもレンガでもないわね。地下に臭気が降りてくるかもしれない。この場から早く去りなさい! 逃げてッ」
警官たちは一目散に駆け、都市長一族のシュナイダー家は、アルバ様の身を案じつつも走りだし、大富豪秘書キューカンバーも「いやあああん♡」と叫びながら退避していった。
時計塔と地下水道をつなぐトンネルの下は、急にひとけが無くなった。
その場に唯一、残った人物を除けば……
「なあ、爺さん……あの黒いケムリ、なんだと思う?」
「知らんしらん、見ちゃいかん! ドクブツじゃろ、目が潰れるよっちぇ」
「んー、オレんとこの故郷、岩山に温泉が湧くんだけどよぉ……そいつの匂いにちっと似てんな?」
掃除夫ノアとベゴ爺さんは、まだビルの外階段に残っていたものの、地上の人間の波はだいぶ少なくなり……というかほぼ居なくなり、いつでも楽に逃げられる状況になっていた。
「まあいいや、火災を消そう。爺さんアンタ水道局員なんだろ、消火栓はどこだい」
「あっちの緑のポストのそばじゃ、でかいホース付きのがある。でも行ったらいかん、行ったら死ぬぞぉい!」
「サンキュ、えーと名前……まいいや、爺さん!」
ノアは飛びきりの笑顔で別れを告げ、愛用の掃除道具を肩にかけ、階段の柵から飛び降りていった。




