2 ただちに捜査を引き上げて撤退せよ
皇歴4530年、秋。
秋はシュタット州にとって厄介な季節だ。大地をカラカラに乾かし、人々は僅かな井戸水をちびちび分け合う。
三男カディールは、キアーヌシュの質屋の片隅で、経済紙を読みながら、じっと怪我の回復に励んでいた。
次男カヤンは固いビスケットをかじりながら、質屋の裏手にある倉庫のなかで、三輪式軽自動車の試作に没頭していた。
兄弟は顔を合わせれば喧嘩が始まるので、互いに会わないよう心掛けていた。じっとりとした汗が、皮膚の上で砂と固まり、ジャリジャリと不快な初秋の音を立てる。
『カーヴィンから手紙が来たぞ!』
キアーヌシュからの知らせは、砂漠の大地に湧いた、オアシスのような潤いを持っていた。
『なんて!?』
良質な歯車探しに、はるばるラヴァ州ノアへ出かけた長男カーヴィン、出発から4カ月を過ぎ、ようやくぶ厚い小包が届いた。
『よう、遅くなってすまねえ。ノアは夜行性の都市でな、おまけに高地だし、体を馴らすのに思ったより時間がかかっちまった。歯車工場を一軒一軒まわったよ。○○○○○の実機をみせて、販売してもらえないか尋ねた。興味は持ってもらえたんだが、売ってくれるかは話が別でな……シュタット州は遠すぎて儲けにならんとよ』
『それは初めから分かってたことじゃん! 輸送費だけで赤字だってさぁ!』
『…………』
三男カディールが横から唾を飛ばすのを、次男カヤンは黙って頬に受け止めた。
『あらかた回ったんだが、現場だけじゃ判断がつかんってことで、お偉いさんにも話を通しにいったんだ。銀行にもシブシブ行ってな……ま、思い出したくもないが。ほとんどが嫌な連中だったが、中には酔狂な趣味人もいて、小金を握らせてくれたよ。いくらか小切手で送ったから換金しといてくれ』
『いやったあああああ、お兄ちゃん愛してる!』
手紙の下から、厳重に4つ折りにした小切手を取り出し、カディールは骨折した足で跳ね回った。
『あれこれ顔を出してるうちに、ちょっと協力してくれる人と出会ってな。今度その人の引き合わせで、なんとノア都市長に面会できることになったんだ。名誉な話だ。というわけで、すまん、カヤン、カディール、まだ歯車の調達目途はたってない。だが工場をめぐって分かったが、ノアの品質はどれも素晴らしい、安価なわりに一級品だ。シュタット州でこの質を安定的に目指すのは厳しいだろう。販路が安くすめば解決するハナシなんだが、そいつが一番の問題だな』
次男カヤンは兄の手紙を読み終えると、すぐさま同封されたノア産の歯車を手に取った。見た目よりずっしりと重い鋼鉄で、面積と体積の比率がちょうどよい。細かな刃先は寸分も狂いがなく、美しく等間隔に磨かれ煌めいている。職人の粋がつまった工業製品の塊をじっと見つめ……深く長い息を吐いた。
『……せめて初期ロット分でも調達できれば……』
天才が背中を丸めて苦悩するのを、質屋のキアーヌシュは、背後から見つめていた。
3月27日銀曜日、時刻は本格的な夕方となった午後4時36分。
「ああもう、人の波がぜっんぜん収まらねえ! 時計塔まで来るんじゃなかった……」
「うおおおい、そこにいるのは、ノアかーーーー!?」
「んん?」
「ノーーーアーーーーー!」
周囲の人ごみは、自分たちの住む都市の名を絶叫する爺さんに、奇怪の目を向けていたが、唯一それが自分の名前だと知る掃除夫ノアは、振り返って耳を澄ませた。
「うおーい、オレを呼んでんのかい? えーっと、爺さん!」
「なんじゃい、また名前を忘れたんかい、ベゴじゃよ、ベゴ・ブルカ。水道局の!」
ノアはひとつ首をひねったが、ニコニコと笑顔で、自分の名を呼ぶ爺さんについていった。
ふたりは人の波をどうにか分け入り、道路脇のビルの外階段に身を寄せ合い……3階と4階の踊り場から、酒瓶と紙巻き煙草をちびちび吸いはじめた。
「ったく、地下で命を狙われてのお、地上へ出たら出たで、これまたおっ死にそうなヒトゴミじゃわい!」
「そだなあ、これじゃあ地盤沈下しそ——って地下で命を狙われたってぃ? 大富豪殺しの犯人でもカチ合ったんかい?」
掃除夫ノアは、煙草のご相伴に預かり、ベゴ爺さんは泣きべそをかきながら、ブランデーの小瓶を煽っている。時計塔から少し離れた外階段からは、地上の喧噪が神様のように観察できた。
「そ! 黒くて長い髪の女じゃよ、会った時から血まみれでのう。黒いトンカチを振り回しよって、危険人物じゃった! 大富豪のこちょを根掘り葉掘り聞いとってのう、ありゃあ間違いなく、犯罪組織にかかわっちょる!」
「へー、そんな怖い女がいたんだねえ」
「ああ、若いコじゃったから油断しちゃわい、おっそろしい女じゃった。同僚のジョバンニを置いてきちまったべ、アイツが無事か確かめるのが怖い……くうッ」
《大富豪のばっきゃやろおおお!》
《庶民から富を奪って、ふざけんじゃねえーぞおおおお》
《仕事をかえせえええ、夜を返せええええ》
時計塔周囲の連中は、大富豪への文句と、社会への不満を次々に口にし、爆竹を鳴らして騒ぎ始めている。
身の危険から逃げようとする者たちと、便乗して騒ごうと寄ってくる者たちが交雑し、さらに混乱の渦が巻き起こっている。
「そりゃー心配だな……助けに行きてぇけど、……こっから降りるにしても、ちと様子が……」
掃除夫ノアは、長い金のまつげを訝しげに震わせ、空気の変化を感じとった。
《こらあああ、お前ら時計塔を破壊すんじゃねえぞお! どうせ田舎から来たヨソモンだろうが!》
ノア都市の心臓たる『時計塔』を守るべく、自警集団が急遽たちあがり、狂騒集団と激突しようとしていた。
「ム——妙だ、まずい!」
窓から状況を見ていた都市長ゲアハルトは、民衆の様子がもうひと段階変わったのを機敏に感じ、トランシーバー【グリズリー】を握りしめ、塔内に響く声で怒鳴った。
「ノア警察よ、ただちに捜査を引き上げて撤退せよ、『時計塔』の倒壊の恐れがあるぞおおおおーーッ!」
それまでぼんやりしていた青羆熊族の警官は、それを聞いて飛び上がり、自己判断でショーンとロビー・マームを解放し、逃げるよう背中をおした。
3層で、秘書キューカンバーの証言を聞いていた警部らは、急いでバタバタ下層階へと降りてきた。
ジークハルトとベルゼコワは身を縮め、父親の両隣にピタリとつき、1層まで下りて行った。
「アハン、都市長。地下水道から逃げる気かしら? たしか時計塔とは地下で繋がってるわよね」
「そのつもりだ、ビネージュ警部、急ぎたまえ。暴動が本格化してきている! ドア前の警備兵も呼べ、全員地下から逃げるんだ!」
ゲアハルト都市長は1層床のハッチを開け、塔の地下室へと誘導した。
時計塔の地下室——
水洗トイレとシャワーに、いくつかの整備機器、床には地下水道へ続く小さなマンホールが存在している。
マンホールは人ひとり通るのが精いっぱい、屈強な警官たちが通るには、かなり狭い穴だった。
「ボクの計算によると、そんな布面積では1ヤードもいかずに引っかかるぞ」
「あら、お兄さまの天才的な頭脳がなくても、じゅうぶん予測可能でしてよ」
ベルゼコワは躊躇なく重たいドレスを外し、身軽な軽装になるまでフリル付きパニエを脱ぎ捨てた。
「警部! キアーヌシュの遺体はどうします?」
「クっ、置いていくしかないでしょう、マンホールは狭いし深いわ。地下室に置いておけば、最悪、塔が倒壊しても消失は免れる……かもしれないし」
「もうイヤーーーッ、御主人が何をしたっていうのよおぉ!」
「皆さん! 先に行ってください、僕はいちばん最後でいい、呪文の力でなんとかしますから!」
ショーン・ターナーは、都市民の安全を確保し、【帝国魔術師】としての職務を果たそうと怒鳴った。
「やれやれ、いったい誰が予測したでしょうね、こんな事態は」
この異様な緊張事態に、唯一ロビー・マームだけが、いつもの調子で肩をすくめた。




