3 9割の悪と、1割の快感
3月27日銀曜日、時刻は15時30分。
ノア都市の地下水道は、コクコクと水が流れるパイプ音と、苔と雫と鉄錆の匂いがあたりを支配していた。
「時計塔ね……入れるよ、もちろん、わざわざ水道局員で入るヤツぁいないがね」
ジョバンニ爺さんは葉巻をくわえて喋りはじめた。ベルガモットの湿った葉巻だ。彼はさすがに地下内で火を点けることはなかったが、わずかな香りと苦みを味わってるようだ。
「なんでそんな——不用心すぎないですか!?」
紅葉は憤慨し、【鋼鉄の大槌】をぎゅっと握りなおした。森狐族の爺さん2人は、キツネの耳をひくひくさせて互いを見つめ……答える義理などない小娘相手に、仕方なく構造を説明してくれた。
「ハン…昔は1階から地下室へ繋がるハッチに鍵がかかっていた。中から『守り人』が開けてくれないかぎり、水道局員が出入りできるのは地下室内までだったのさ。時代の流れで、地下室内にシャワーとトイレを作ってからは、ハッチを常時開けっ放しにするようになったそうだ」
「しゃわーがついたのは先々代の守り人の頃じゃ。ワシが取り付けを手伝っちゃっちゃ。40年ほど前の話じゃったかのう。ま、温水式になるまでは、あまり使ってなかっちゃようじゃがの」
ベゴ爺さんは、若い頃の自分を思いだし、癖毛だらけの尻尾をフリフリさせた。
「だからって……!」
「そんなに騒ぐことかい、お嬢ちゃん? 金持ちのお屋敷だって、裏口は常時開けっぱなしだったりするぜ。洗濯婦がお日様にシーツを干したり、コックがニワトリの卵を取ってくためにな」
「……だって、人が亡くなってるんですよ?」
「フン——77ならじゅうぶん長生きさ」
ジョバンニのジジイは取りつく島もなく、吐き捨てた。
紅葉はどうにも彼を生理的に好きになれず、ベゴ爺さんのほうに目線をそらした。
「ほいじゃ、【でンずの神】と【もるぐの神】に祈るとしよっかの。ワシは水神いほらの像しかもっちょらんが、ま、ま、神々はお許しくださるじゃろ」
ベゴ爺さんは、先ほどお祈りにつかった神像つきの首飾りを、シャツの下からよいしょっと取りだした。
「ベゴさん、このマンホールから、点検とかで塔まで上がることはあるんでしょうか」
「おう、もちろん。ハシゴの痛みも見んきゃーならん。それでも年に2回くらいっちゃの」
「直近ではいつですか?」
「去年の12月だーね、毎年総点検があんのよ。さみーのに困ったもんよ、体にこたえるっちゃのう」
ベゴ爺さんは、冬の時期の老体を思い返し、シナシナな尻尾を総毛立てさせた。
「そうですか……」
紅葉はぐっと上方を見つめ、モルグの住まう暗黒の穴を見つめた。今すぐ、自分が上にあがって直接確かめたかったが、犯人が痕跡を残してるかもしれない中で、そんな愚行を犯すわけにはいかない。
(盗まれた『設計図』の謎を解かなきゃ……キアーヌシュが死んで終わらす訳にはいかない!)
親の仇を睨みつけているかのように、眉間の剣山を刻む紅葉を、横目に見つめるジョバンニ爺さんは、湿りきった葉巻をジュッ…と吸った。
「警部、警部ーーッ、また大変な人物がっ」
ショーンが、誰にも吐露できない悩みで圧し潰されそうになっているところ、にわかに下層階がバタバタと騒ぎ始めていた。
「おや、誰か来たんですかね?」
「ん~♡ ヘンねえ、警備員が入室を許すヒトなんて、そうそういないハズだけど♡」
「じゃあ、いったい誰が……」
厳重な警備員があっさりと通し、大富豪秘書でもピンと来ておらず、警官たちが騒ぐような人物とは?
「オーウ、嘘でしょう! なんだってカレを通したのよ!?」
あのビネージュ警部が、上から急いで降りてきて金切り声をあげた。
「仕事中に失敬——諸君。このたびはノアの『守り人』に対し、哀悼の意をお伝えしに参りましたぞ」
厳格な振る舞いに、魔術師のようなローブ。先端に宝石がついた杖は、カツ、カツンと、歩くたびに塔に響いた。
「お父様はすべての予定をキャンセルし、この『時計塔』へ参りましたのよ。非常にお痛ましいことですわ、我々一家一同、冥府の門への安寧の旅をお祈りしましょう」
「ボクたちからこの場で言える唯一の言葉を。R、I、P」
偉大なる父親の後から、見知った黒いゴシックレースの兄妹たちも、ぞろぞろと付いてきている。
「わわ、お疲れ様です、都市長……! ジークハルトとベルゼコワも!」
ショーンは思わず立ち上がって、絢爛たるご家族に挨拶した……が、椅子につながった手錠が思いきり引っぱられ、ガツッ、ゴロン、と空虚な大音量が転がった。
「ム!……これは一体どういう状況かね、ビネージュ警部。あの方を今すぐ解放したまえ、事件にはなんの関係もあるまい……」
アルバ様の痛ましい状況を見抜いた都市長は、すぐに冷たい怒りの声を上げた。ショーンにとって思わぬ助け舟に、心臓が3センチほど跳ねあがる。
「アハン、お待ちになって、シュナイダー都市長。ふふ、いくら貴方のご依頼とはいえ、容易に聞くことはできないわ。彼が会談しようとしていた矢先に、大富豪が死んだの。怪しい容疑者なのよ」
警部は、犬豹族の白いしなやかな尻尾を振って、都市長をなだめようとした。
捜査の鉄則としては、ビネージュ警部のほうが正論を放っているように見えた——
が、
「何を言っている、バカバカしい……! いいからアルバ様を放しなさい、彼はサウザスの凶悪事件を追う英雄ですぞ? ノア地区の大事な賓客であり、ラヴァ州の窮地を救う救世主なのです、あろうことか手錠で拘束するなど……まったく下品なッ!」
ゲアハルトは憤怒の皺を刻み、黒い涙筋のような隈をますます濃くさせ、時計塔中に響く声できびしく怒鳴った。
「————ッ!」
いつもは厳粛な都市長の、とつぜんの怒号に、塔内の者は一気に緊張の波を走らせた。修理に集中している時計技師のダンデ以外、皆きゅっと肩を縮こまらせ、尻尾の毛をピンとはった。
「あの……ちょっと都市長、冷静に! 経歴や外見にダマされてはいけないわ。犯罪学ではそういう者こそ、いっちばん怪しい人物ですのよ!」
ビネージュ警部は、まだかろうじて薄ら笑いを浮かべ、この場を諫めようと試みていたが……
「黙りなさい! これはノア地区の沽券に関わることです! 彼が捕縛すべき犯人だとおっしゃるのなら、すみやかに証拠を出しなさい、証拠を!!」
ゲアハルト都市長に対して、そんな楽に話が通じるわけもなく、逆に脅しを受けてしまった。
「………は、はぁーっ……」
これが権力というものか。
ショーンはなかば感心し、自分が当事者であることも忘れて、2人の大激突を聞き入ってしまった。
庶民が主人公の物語だと、こうした強権によって贔屓されることは、極めて「悪」として描かれる。
しかし、ショーンは自分がその、悪の権力に守られる立場になってしまったことに、9割の居心地の悪さときまりの悪さ……そして、1割ほどの快感と安堵を得てしまった。
主人公としての「正義」を貫くならば、ここは都市長の訴えを辞し、ノア警察の捜査をおとなしく受け、自身の潔白を晴らさなければならない——が、
(チャンスだ、ゲアハルト都市長が味方してくれてる。このまま解放されれば自由に動けるぞ! 警察には、後でちゃんと真犯人なり真実なり見つけて、突き出せば万事解決じゃないか……)
ショーンの正義の天秤は、極めて脆弱にグラグラ揺れていた。
「さっさと解放なさい。手錠など到底許されない!」
「ノンノンですわッ! ですからね、都市長!」
「お二人とも、お黙りになって!!」
喧々諤々の大激論のさなか、急に、都市長の娘ベルゼコワが話を遮った。
「失礼、お通しください」
警官たちが数名、大きな聖清布を抱えて、上層から降りてくる。
——キアーヌシュ・ラフマニーのご遺体が運ばれていく——
「これから神殿へ運ぶのかね?」
「いえ都市長、まずは警察署に行き、解剖させて頂きます」
「では、その前に御礼を」
都市長ゲアハルトは、長いローブの裾をふり、聖清布に自分の杖を掲げ、静かに目を閉じ、薫陶を捧げた。
「あなた様は、ノアの『守り人』としての役目を全うされました。長年のお勤めに対し、ノア都市より、感謝の意をお伝えいたします。どうぞご無事で、デズの神の胸元へたどり着けますよう、モルグの神よ、守りたまえ……」
先ほどまで叫び声をあげていたビネージュ警部も、この場は沈黙し、しめやかに黙祈を行った。
秘書のキューカンバーも、青羆熊族の警官に連れられて、御主人の骸の傍にゆき、心痛な面持ちで見つめている。
時計機構の修理をしていた時計技師ダンデ・ライトボルトも、手をとめ、上の階段からゴーグルを取り、頭を下げた。
老人に安らかな死を。
ショーンも改めて首を垂れた。
デズの神に、死の祈りを捧げ、
モルグの神に、魂が無事にデズのもとへ流れつくようお願いした。




