4 真鍮眼鏡の隠れた機能
『ふふふ、ふふっ』
母が、妙にニヤつきながら、ベッドに横たわっていた。
いつも寝そべる時は外している【真鍮眼鏡】を掛けたままだ。レンズが謎にキラキラ光っている。
『何、思い出し笑いしてんの?』
ショーンは訝しげな表情を浮かべつつ、母親の横で川の字になった。
『昨日、移動映画を見たでしょう。花火主演の『帝都の花びら』。見返してるの、ふふっ、相手役のディータボルゲが格好いいのよー』
『えっ、そんなことできんの? 見せて、みせて!』
ショーンは、母シャーリーの【真鍮眼鏡】のレンズを覗かせてもらったが……映画なぞ映っておらず、下宿の天井だけが見えていた。
『なんだよ、ちぇっ、なんもないじゃん!』
『これはね、眼鏡の持ち主にしか見れないの』
シャーリーは我が子に見せた真鍮眼鏡を、自分の顔にカチャッと掛け直した。彼女の小さな顔と比べて、ひと回り大きな丸眼鏡だ。
『カメラは知ってるでしょう。あれと同じことができるの。真鍮眼鏡でも写真が撮れちゃう。実際の写真と違って、これはマナが消えちゃう速さと同じ、数日間しか見れないけどね』
シャーリーは子供の左手を握り、淡い星のランプの下で、そっと指を絡めて遊んだ。
『へえ、知らなかった。アルバになったらすぐ試そー!』
幼い息子は足をバタバタさせて、星の瞬きと同じくらい、自分の大きな瞳を煌めかせた。
【真鍮眼鏡】
それは魔術を志す者にとって、憧れのアイテムであり、謎に満ちたアーティファクトでもあった。
魔術師の教科書である【星の魔術大綱】にも、あまり説明は載っておらず、詳しい使用法は本物の【真鍮眼鏡】を入手するとき——つまり、アルバの試験に合格したときに、初めて知ることとなる。
勉強中の身で使用法を知るには、現役のアルバに質問するしかない。が、悪用乱用を防ぐためか、あまり深くは教えない慣習となっている。
『どうだろう。合格してすぐできるかな? けっこうマナを消費するから、一人前になったらねー……』
ゆらゆらと、ショーンとシャーリーの指が舟を漕ぎ……親子は星海に漂いながら、いつの間にか眠ってしまった。
(……まさか、この僕が何十枚も撮れるようになるとはね)
【真鍮眼鏡】の写真透写は、ただレンズを望遠拡大させるだけとは違い、レンズに映る画面すべてをマナに吸着させて記憶させ、固定化させる必要がある。
ショーンがアルバに合格した時のマナ量では、1枚撮るのがやっとだっただろう。結局、面倒で試すことすらしていなかった。
(はー、さすがに消費しすぎたな……この先、大呪文を使う場面が来ないといいけど)
はたから見れば、高速で眼球を動かしている不審者となってしまうため、ショーンはできるだけ身をかがめ、椅子で寝るふりをしながら、撮影画を見直していた。
(スーアルバくらいになれば、映像なんかも記録することができるかな。音声も、匂いとかもさ……)
たび重なる《マナの集中》に疲れ、ときおり雑念を挟みながらも、大富豪キアーヌシュの死亡現場を、不審な点がないか洗い直した。
「くうううぅうーーーのおおおお!」
紅葉は虚黒内で落下しながらも、腕をもがいて壁をひっかき、梯子位置の見当をつけた。
「んがッ!……が………がッ!!」
ドダ、ダ、ダッ! と金属と肉片が交わる鈍痛音を立て、指の大半を打撲させながらも、梯子を掴むべく右両指を曲げた。
「……はっ、こんなっ、ところで…、死んでたまるかあぁーーーっ」
鉄の梯子に指がかかった。
梯子一段だけに、すべての落下衝撃がかかってしまう寸前——
両足をグッと伸ばして、マンホール壁の途中でふんばり、
衝撃荷重を低減した。
無事、落下寸前で止まることに成功し……
「いよっ……と」
なんとかボロボロになりながらも、地下水道の整備パイプ内に降り立った。
「はあ…ふう、よし……無事だね。【鋼鉄の大槌】が傷つかなくてよかった」
落下中、【大槌】を斜めにして壁穴に引っかけることも考えたが……自分の指の打撲と引き換えにしてでも、却下した。こんな何でもないところで壊したら、制作者である、天才鍛冶師オスカー・マルクルンドに申し訳が立たない。
「この子にも、何か名前をつけてあげようかな? いつまでも【鋼鉄の大槌】じゃ、ちょっとかわいそうだもんね……」
「——うおおーおい、アンタぁあああ、何しちょる!?」
地下水道の奥から、カン高い老人の声が聞こえてきた。
紅葉が落ちてしまった、ノア都市の地下水道。
配水管に下水管、雨水管といった太いパイプが通っており、そこから細いパイプが何本も枝分かれして、各家庭に水を供給している。
ココココココ、と絶えず流水音と機械音を立てており、あまり臭いは(下水管でさえ!)しなかったが、ツンとする湿った土と錆、セメントと水の匂いは、絶えず辺りから漂っていた。
「まーったく、勝手に降りてきちゃダメじゃろうが!」
水道局のツナギを着た、森狐族の小柄な爺さんが、スパナと尻尾をフリフリさせて、紅葉に駆けより注意してきた。
「えっと、すみません、自分の意志で降りたんじゃなくて、落ちちゃったんです」
紅葉はあわてて事情を話したが、
「落ちちゃったあ? 道路じゃないとこを勝手に歩いちゃダメだろうが! 他人の土地を勝手に歩くやつがあるか、ううん!?」
さらに怒られてしまった。
「……すみません。」
自分が田舎者でこれほど恥ずかしかったことはない。
「んんん? アンタよく見ると血まみれじゃねえか! 殴られたみてえだな、歩けんのかい? 病院へ行ったほうがええぞ!」
「歩けます……病院ってどこですか?」
「知らんのかい。コントラフォーケ2区の北にあるじゃろ、警察署の隣だで。アンタぁ、もしや別んのトコの出身かい?」
「はい、サウザス地区です」
「おおーん! サウザスか! ムチャなことやる奴が多いっぺな!」
ガッハッハと、森狐族の爺さんが銀歯を見せながら笑い飛ばすのを見て……
紅葉はふと、エメラルド色の瞳をした新聞記者を思い出した。
「ま、このままパイプんなかとーって連れてっちゃるか、そっちのほうが早くつくじゃろ。歩けっかい?」
「あ、ありがとうございます!」
怒られてどうなることかと思ったが……ひとまずはホッとした。数週間前のクレイト地区で、白銀三路の下の秘密通路を、ショーンと歩いたのを思い出す。
「今日の仕事は終わちったのよ、これから一杯引っかけっから、ちょうどええわ。2区の奥にやっすい酒場があってな、行きつけなんじゃわ」
「ノア都市ってどこもお高いですよね。安いお店もちゃんとあるんだ」
「ま、大声じゃ言えねんだけど、モグリのあれでな。“すぴーく・いーじー” ってやつよ。お前さんにはちっと場所は教えられんな」
「えっ、は、はい。ナイショですね」
「そ! そーだお前さん、サウザス出身なら三輪式けーじどー車の、ギャリバーちゅうもん、みんな乗っとるじゃろ?」
「は、はい、よく乗ってました」
「ほう、やっぱり! 4区の外れにギャリバー屋があるんだけども、州法スレスレの改造もじゅーるが売っちょるから、見てくとええぞお!」
親切な水道局員の爺さんは、ベゴ・ブルカと名のり、紅葉に “楽しい都市案内” をしてくれた。ベゴ爺さんの、癖毛だらけのキツネの尻尾が、ゆらゆらフラフラ揺れるのを見るたび、紅葉の体の痛みと疲れが少しずつ取れていく。
「——にしても、さっきから地上がワサワサうっせーなあ。急にお祝い事でも起きたんかい」
「いえ。たった今、大富豪のキアーヌシュ・ラフマニーが亡くなったんです。……ご存じですか」
「なにぃ? あいつがぁ? あーまー、そうか、死んだかあ。わいより年上だべなあ、ううん」
威勢よく歩いていた水道屋のベゴ爺さんは、それを聞いて、少しキツネの尻尾をふぁさっと落とした。
湿った水道内をぺちょぺちょと、ノアの北北東からノアの南南西へ向かって2人は歩く。
「まあ、あんなに金もっちょるのに、わざわざ1人でさむーい塔に住むなんてよう、しゃあねえよな、うーむ。ちと寄ってってデんズの神にお祈りすっか」
「寄るって……このパイプって、『時計塔』にも繋がってるんですか?」
「おん、そりゃもちろん直接いけっぺ。塔はノア都市の心臓部じゃし、とうぜんよ。わいの同胞がしょっちゅう調整しちょる。なんせ古くて壊れやすいからのう」
「——本当ですか!?」
紅葉の血流が一気に上昇し、蒼白い頬を赤く染めた。
「行きましょう、ぜひ行きましょう!」
「んあ? アンタ、病院にいかんでいいんかい」
「いいんです、唾つけとけば治ります!」
(すごい、これでキアーヌシュのことが一気に分かるかも……!)
紅葉は生まれて初めて、穴に落ちたことを感謝した。




