1 フェアニスリーリーリッチ
【brink】瀬戸際
[意味]
・間際、瀬戸際
・(崖などの)縁、絶壁、崖っぷち
・(山などの)最高地点、頂上
・川岸、水際
[補足]
デンマーク語「brink (縁、岸)」に由来する説が有力とされる。brinkは崖、山、水辺、いずれの場所でも、縁ギリギリの地点を意味する。ちなみに日本語「瀬戸際」の瀬戸とは、狭い海峡のことであり、瀬戸際は外海と海峡の境目を指す。船の運航において、瀬戸際とは生死の境を感じる場であり、すべてのbrinkは、生命と運命の分かれ道を示す場所である。
「君は——フェアニスリーリーリッチ?!」
「きゃあぁーーー! 何よ、何なんよ、あんたたちー⁉︎」
急に本名を呼ばれて混乱したフェアニスリーリーリッチは、客の顔に思いきりピザをぶつけた。
白クリームに包まれたタイタンバッタの外骨格が、ショーンの鼻にメチョッとぶち当たる。
「ぎゃーーーっ!」
「嫌ーーっ! ピギャーッ」
勢いあまって、空中でバランスを崩した彼女は、カラーカ・ヴァゴンの窓から消えて、落下した。
「——危ない!」
地面までは、幸い距離があった。
彼女は背中の鷹の翼を大きく広げ、バタバタと宙で数回転し、なんとか姿勢を取り戻した。
「クッ、あいつらサツでもムショでも見たことないッ——ってことは取り立て屋よね⁉︎ そうでしょう⁉︎」
翼を力強く羽ばたかせ、ヴァゴンの高度まで再上昇した。
ギロリと光る、猛禽類の目でこちらを睨む。
月光の下で、蒼い翼を最大まで広げたその姿は、ヒトより遥かに大きい物体で——喉を引き裂き、肉を引きちぎり、獲物を呑みこむ捕食者のようだった。
「…………っ」
紅葉は気押され、思わず怯んで唇を噛んでしまった。
肉食動物に襲われる恐怖が——有りもしない、しかし、なぜか身に覚えのある恐怖が、突如、己の肌を襲ってしまった。
「あーーーっ、痛い、ぎゃーっ、いだいーっ!」
ショーンは混乱し、相手の声すら聴こえてなかった。叫ぶたびに、バッタの足の棘が頬に深く食いこんでいく。
不憫に思った妹ベルゼコワは、黒ハンカチを差し出そうとしたが、クリームがべっちょりついたショーンの顔を見て、元のポッケにそっとしまった。
「ちょっ……待って、待ちなさい‼︎」
ようやく精神を取り戻した紅葉は、ショーンを押しのけて空へ叫んだが、ソーセージ帽子を被ったピザ店員は、すでに遠くへ逃げていた。
「慰謝料は払ったでしょ、いい加減にしてーーーッ!」
月に向かって遠吠えし、
エミリア刑事の警察学校時代の友人で、
トレモロの設計図盗難事件の犯人ラン・ブッシュをよく知るはずの、
フェアニスリーリーリッチは、どこかへ飛び去ってしまった。
【食べこぼしも飲みこぼしも、幸せの予感! 《セレンディピティ》】
ショーンはくぐもった声で、呪文を唱えた。
マダム・サシャの子育て呪文 《セレンディピティ》。食べこぼしや飲みこぼしを跡形もなく消え去ってくれる、おじいちゃんにも便利な呪文だ。
クリームとバッタの死骸で、ぐちゃぐちゃになったショーンの顔がさっぱりと元に戻り、兄ジークハルトと妹ベルゼコワは、ホッと胸を撫で下ろした。
「あの子の働いてるとこ——クロックモルゲンって言ってたっけ? 行こう!」
3月26日金曜日、深夜10時45分。
ショーン御一行は、トリンケェーテ7区で急遽降り、ピザ屋へと向かっていた。
さすがに地元民であるシュナイダー兄妹も場所は知らなかったが、カラーカ・ヴァゴンの駅員に聞いたら、たった7ドミーで教えてくれた。
ピザ屋『クロックモルゲン』——
幸い、駅からすぐ近くにあるダイナーだった。
赤と青のチェック模様が特徴で、4人がけのソファ&テーブルが10席、カウンターには甘いターキーコーラの瓶がズラッと並んでいる。
香ばしく焼いたパンとチーズの匂いが充満しており、でっぷりした肉付きのいい店長、桃白豚族のビック・モルゲンが、店の奥で一日の終わりのピザを味わっていた。
「んあー、蒼鷹族の女の子? あっはは、ちょーっナンパは御免いただきたいねえ」
店長は、薄くスライスした肉よりも薄くせせら笑って、チェリー味のターキーコーラをプシュッと開けた。
ショーンは無言で顎をクイッと動かし、兄ジークハルトに前へ出るよう促した。
「失礼——さる事情でサーチ中なんだ」
「はあ? あんたは……シュナイダーさんね。……んんっ、親の名はゲアハルト・シュッ」
「情報を開示して頂きたい」
店長ビック・モルゲンは、グビッとコーラを飲み干し……、無言で首と同化した顎をしゃくって、スタッフルームへ行くよう促した。
「ふう、蒼鷹族の子ね、1人いるよ。リリー・フェンディのことかい?」
「リリー……?」
「彼女が働き始めたのはいつからですか?」
ショーンが怪訝な顔をしたのを、紅葉がすかさず尻尾を挟んだ。
「まだ入って2ヶ月だよ、外販売に出てもらってるから、人となりはよく知らんよ。いっぱい稼ぐからね、いい子だよ」
店長のモルゲンは、めんどくさそうに豚の尻尾を振り、スタッフ1人ひとりの書類が貼られたスクラップブックを渡してきた。
フェアニスリ……いや、リリーの写真は、先ほどヴァゴンで見つめた顔と同じだった。両手には州名簿の証明書が掲げられており、『リリー・フェンディ』と書かれている。彼女はルオーヌ州出身のはずだが、出身はクレイトとなっていた。
(……偽造書類……ラン・ブッシュお得意の……。やっぱりあの子もランの仲間で、【Fsの組織】とも関係が……?)
そのわりにはだいぶ間抜けそうだったが。
ショーンと紅葉は無言でお互い見つめあった。
「ふふっ、まるで探偵さんみたい! とりあえず、この方のご住まいに参りましょうか」
「どれ住所は……ああ、ノアのブリンク(瀬戸際)に住んでるのか。けっこう遠いぞ」
「……どうしよう、ここから徹夜しなきゃ……っぷ」
動かないショーンの頭の中に、ゲアハルト都市長の顔がちらつく。フェアニスリーリーリッチの書類を持ちながら立ち尽くし、月光のような顔色を浮かべていた。
「ったく、もしワケありじゃあ、辞めてもらわんとなぁ。もったいない」
桃色ツヤツヤほっぺのピザ屋店主は、横で再びピザをくちゃくちゃ食べ始めている。
「——ショーン、帰っていいよ。私は都市長にお会いしなくても大丈夫だから」
紅葉はショーンの腕からスクラップブックをそっと取った。
「ショーンにはロビー・マームさんもついててくれるし、私は1人でも平気だし」
偽造かもしない、リリー・フェンディの住所をメモしている。
「え、紅葉? いや……でも」
「このために2人で行動してるんだもの。どっちも倒れたらダメだよ」
紅葉の意思は、サウザスの鋼鉄のように硬かった。
ショーンはしばし考え、猿の尻尾をふりふり振ったが、
「…………じゃ、お言葉に甘えて、ぼく帰る……」
「ちょっと聞いてーテンチョー、変な客に逢っちゃってさぁー」
「——あっ」
ソーセージ帽子を手に持ち、ヌードルのような長さと太さの髪をガリガリ掻きながら、蒼鷹族の小柄な女が入ってきた。
「……っ、クッソ客!」
「待ってくれ、君はフェアニスリーリーリッチなんだろ‼︎ 偽造証はどこで手に入れたっ⁉︎」
ショーンは一気に気力を取り戻し、ダイナーの床を蹴って追いかけた。
「なにぃ、偽造証だとうっ?」
店長の口の端から、ピザの欠片が飛んでいく。
「また飛んで逃げるよっ、ショーン!」
ピザ屋の道路で、彼女の背中の大翼が開いた。
トリンケェーテ7区の深黄緑の大地から離れていく。
「——させるかっ」
【迷える羊は杖に引きつけられ道を正す! 《マグネス》】
アルバが磁力牽引呪文 《マグネス》を左手から放った。己の人差し指を、羊飼いマグネスの杖の先端に見立て、光のくっついた先を磁力化させて引っぱる呪文だ。
茄子紺の空に、黄色の細くするどい光が轟く。
「きゃーッ、何々、何なのーーーっ⁉︎ 嫌ぁアアアッ!」
マグネスの光は、逃走する彼女の足先に吸着した。急に訳のわからない強い力に引っ張られ、フェアニスリーリーリッチは宙でもがいた。
(あれ?……あの反応……呪文を。知らない……?)
「く〜っ、クッ、ソ、客ッ!」
彼女はスカートをたくし上げ、太ももに忍ばせていた銃器を手にとった。
銀色に光るクロスボウ。
「はなせッ!」
クロスボウの照準器が、彼女の標的——ショーン・ターナーの左手を指した。
しかし彼から放たれる黄色い光が目に眩しく、矛先を少々変えざるを得なかった。
「——死ねっ!」
開放と自由と正義の象徴、銀色の矢が、ショーンの額の中央に向かって放たれた。
「ショーーーーーーーン!」
ショーンは、フェアニスリーリーーリッチを離すまい、《マグネス》の光を絶やすまいと、その場を動けなった。
紅葉はショーンに抱きつき、2人は地面を転げ、崖っぷちの柵にぶつかった。
銀色の矢は道路の白線を射抜き、【鋼鉄の大槌】は己の役目を全うすることなく、ごろごろ地面に転がっていく。
不届き者が拝借する前に、妹ベルゼコワは大槌を持とうとしたが、あまりの重さに腰を落とした。
ショーンの《マナの集中》は、柵にぶつかった時点で途切れ、黄色の光は消えうせ、フェアニスリーリーリッチは自由と解放を手にいれた!
「きゃああああーーっ、ハハッハハ! 最高——‼︎」
彼女は高らかに笑い、またもや、ノアの夜空へ飛び失せてしまった……。
「素晴らしい! 実にプレザントですよ、ああ愉快だ! 映画のようです!」
この場で唯一、兄ジークハルトだけが嬉しそうに拍手していた。




