6 霧の街のカラーカ・ヴァゴン
3月26日金曜日、時計は午後10時の針をさそうとしていた。
「アルバ様、キアーヌシュについて、我々が知っているパーソナリティーは以上です」
「ああ、うん、教えてくれてありがとう……助かったよ。もう夜遅いし、帰って大丈夫だよ」
「あらやだ! 1日は始まったばかりでしてよ、お外へ出かけましょうよ。ノアの都市を案内しますわ」
「ペトラ、昼の方々はもうお疲れだ、ここは引きあげよう……」
兄ジークハルトはそういなしたものの、妹ペトラ、もといベルゼコワは頬をむくれ、
「まあ、お疲れだなんて失礼な、お兄ちゃまが決めつけることでは無いですわ!」
またいらぬ喧嘩の火種がついてしまった。兄と妹の間に火花が飛びかう。
ここはひとつアルバ様として、ビシッと若年者たちへ仲裁案を出そうじゃないか。
「あのー、もし良かったらホテルまで送ってるくれるかな? できれば徒歩以外の手段だとありがたいんだけど。えへへへ……」
ショーンが腰を曲げて懇願するのを、紅葉とロビー・マームは憐憫に満ちた瞳で見つめていた。
「まあ、新鮮な空気ですこと。肺が充足するのを感じますわ!」
ベルゼコワは、黒い編み上げブーツを鳴らし、都市の石畳をくるくる回った。
もくもくと焚かれた工場の黒紫の煙群が、淡い卵殻色の街灯の光と相まって、幻想的な霧の夜景が広がっている。
「ここから馬車を呼んでもよろしいのですけど、あちらにお乗りするのがノア都市を一望できてお薦めですわよ! ご一緒に参りましょうね」
役場の北口から出てきたショーン御一行は(昼秘書のオーレリアンは、とっくにゴーホームしていた)、妹ベルゼコワの黒パラソル傘の先が指す、『カラーカ・ヴァゴン』のペティフォーケ1区駅に目をむけた。
「お、カラーカ・ヴァゴンか」
「えーこれに乗れるの? 私、ちょうど乗ってみたかったんだ!」
「まあ嬉しい! ホテル『デルピエロ』ならここから東ですわね、ですけども、西回りのヴァゴンに乗りましょう。そうすれば、もう少しお喋りにお花が咲けますわ。ああ、ご心配なくてよ、料金はわたくしもちですから!」
「え、逆まわ……り?……わ、わー、ありがとう……嬉しいな……」
紅葉が【鋼鉄の大槌】の下から、ショーンの脇腹をコッソリこづいた。
小さな都市列車『カラーカ・ヴァゴン』。
約1時間かけて、楕円形のノア地区を一周している。
役場からホテル『デルピエロ』までは、ここから徒歩で20分、ヴァゴンだと約12分だそうだ。逆回りに乗ればもちろん48分かかる。
現在時刻は深夜10時10分、明朝5時には都市長ゲアハルトと会合しなければならない。
「ふあーア、僕は、このままホテルへ直行しますよ。逆回りなんて付き合ってられませんからね」
ロビー・マームはあくびをし、ノアのビル街の谷間を、早歩きで去っていった。
「……っ」
ショーンは恨めしさ半分、うらやましさ半分で見つめながら、 “お昼前” で元気な夜行性の兄妹に付き合い、カラーカ・ヴァゴンの駅に向かった。
「さぁ、お代金ですのよ」
ベルゼコワは、帽子に鮮やかな羽をつけた制服のクルーに、50ドミーを手渡した。
「……5分乗っても、50分乗っても、一律50ドミーっておかしくないか?」
「それはそうですが、長く乗れたほうがグッドディアルではありませんか。ヴァゴンに乗る際は、皆あえて逆方向で利用するのですよ、そのほうが楽しめますからね」
ショーンは後方からジークハルトにこそこそ愚痴ったが、貴族の思想で打ち返された。
「さ、お足元に気をつけて、いってらっしゃいませ」
御一行はクルーに促され、小さな車体へ搭乗した。
カラーカ・ヴァゴンは常に一定のスピードで動き続けるため、ホームの端から急ぎ足で乗らなければならない。慣れている兄妹たちは、かさばるドレス姿でも優雅に乗車し、ショーンと紅葉は突っかえながら、ドダバタと乗りこんだ。
4、5人乗りのワゴンだが、フリルたっぷりの兄妹と乗ると、少々きつめに感じる。
昼間、赤銅に見えていた球体のヴァゴンは、夜の紺闇色と溶け合い、焼いた林檎のように飴色に光っていた。中はくり抜いたかぼちゃのような形で、線路の橋をわたるたびに、夜空を滑る馬車のように感じられた。
「すごーいっ…! 綺麗……!」
高いビルとビルの間を、ヴァゴンの車輪が滑っていく。ビルの下には夜景が広がっていて、カラフルな店の看板明かりが点滅していた。
「美しいでしょう。コントラフォーケ2区は特に高低差が大きいのですわ。橋がたくさんかかってますのよ。わたくし、西回りが好みですの」
「それも今度の大工事でリプレイスしてしまう。今だけの見納めですよ」
「工事……そうだ、大工事についても聞きたかったんだ!」
ショーンは、兄ジークハルトから大工事について詳しく聞きこみ調査し、紅葉は、妹ベルゼコワによるノア地区の景観と歴史について拝聴した。
そうして、ヴァゴンは、ペティフォーケ1区を出発してから、コントラフォーケ2区を進み、メサナ4区、マイヨール6区を通過しようとしていると……
「はーい、お客さん! そろそろ喉が渇く頃じゃないかな? コウモリジュースを買ってかない?」
「——ウワッ⁉︎」
「今日の商品は、キュッと絞ったウサギとヤギのヴラッディジュース、草食向けには甘々とっぷり、ザクロとブドウ入りのシロップジュース、昆虫食には香ばしく炙った赤ダニとテントウ虫のミックスジュースだっ、さ、どうだどうだ?」
背蝙蝠族の若い男が、ヴァゴンの天井に張りつき、ヌッと窓から生首をつき出し、頭を下にしてペラペラ喋りかけてきた。
「あら、いいところに。じゃあシロップジュースを2個ちょうだい。こちらのおふたりにお渡しして」
妹ベルゼコワは慣れた様子で、彼から接客を受けている。
「カラーカ・ヴァゴン名物、風巻の物売りですよ。フライング可能な民族の販売人が、各ヴァゴンに飛びつき、行商するのです」
「飛べる民族が? 飛んでくるの? ……それって危ないんじゃ」
「ええ。ですからプレザント(愉快)なんじゃないですか」
兄ジークハルトは、優雅に足を組み、貴族の微笑みを浮かべていた。
3月26日金曜日がもう少しで終わりに近づく。
ヴァゴンに乗ってから目的地まで半分が過ぎていた。
ベルゼコワが『わたくしもアルバ様とお話ししたいわ』と言いだしたので、ショーンと紅葉は席を交換し、兄と妹の話を、シロップジュースを飲みながら話半分に聞いていた。
籠列車はマイヨール6区を過ぎさり、トリンケェーテ7区に差しかかる。
トリンケェーテ7区は、ノア地区の中でも一番貧しい人々が住む場所だ。枯れた麦色の安アパートが立ち並び、景色としてもあまり見どころがない……そんな時、
「ヤッホー、『クロックモルゲン』のピザ屋でーっす! トリンケェーテで一番美味しいピザはいかが? 1枚3ドミー、ピリピリかっら〜いサラミピザにぃー、肉汁たっぷりのタイタンバッタのクリーミィピッザだよーん」
キンキンに冷えたレモンビールのような声が、上空から降ってきた。
先ほど天井に張りついていた蝙蝠族の男と違い、
彼女はバッサバッサと必死に背中の蒼い翼を動かして接客している。
「ピッザがダメなら、ソーセージも出せるわよーんッ」
頭にはソーセージを模した帽子、両手には赤いピザ箱。
空中で箱を開け、中にある冷えたピザを披露していた。
「……どうする? やめた方がいいと思うが」
「ええ、トリンケェーテのお店なんてダメよ。ドミーをドブに捨てるようなものだわ」
断る気満々な兄妹の向かいで、
ショーンと紅葉は、店員の顔を見つめて固まっていた。
彼女の声に聞き覚えはないが、顔に見覚えがあった。
「君は——フェアニスリーリーリッチ⁉」
バラ色の頬で、営業スマイルを浮かべていたピザ屋の彼女は、一瞬で顔面を蒼色に変えた。




