4 そんな法律は知らねえな
3月25日森曜日、時刻は夜の11時45分。
「わ……ちょっと怖いけど、気持ちいいね」
ゴウゥン、ゴウゥン……とギャリバーに乗って、岩山の斜面に横付けされた、機械用のエレベーターを上がっていた。
先ほどのショックから気を持ち直した紅葉は、夜風に長い髪を流し、ニーナ号にもたれながら、徐々に高度が上がる月明かりの夜景を楽しんでいる。
ショーンはというと、黒鉄骨を幾重にも組んで建てられた自動昇降機に落ち着かず、少しふらついて前のめりになったら体ごと持っていかれそうで、サイドカー内で尻尾をつかんで縮こまっていた。
「あれショーン、ひょっとして高いとこ怖いんだ?」
「違う、呪文をいつでも打てる準備をしてるんだよ! いきなり故障してズガーンッって落ちたら、僕たち死んじゃうかもしれないんだぞ!」
「えー、そんなすぐ壊れる〜? そんなにキケンなものなの、これって」
自動昇降機のある建物は、ラヴァ州でも近年チラホラと増えてきたけれど、これだけ巨大で高度のあるものは、ここ以外には存在しない。
「さあね。ノア地区はたしかに、機械工業は一番発達してる地区だけど……、美的観点は欠落してるよ!」
黒い大骨が交互に、視界に突き刺さっては過ぎ去っていく。
ガンガンガンと耳障りな金属音が反響し、紺褐色の床が、階を過ぎるたびに振動していた。
鋼鉄の巨人に呑み込まれ、体内器官を通りぬけてく感覚に陥りながら、ショーンは再びぶるっと震えた。
チーンと、到着音だけは軽快な音をたてて、階上へとたどり着いた。
「わー! ここが……」
「……ノアか……」
不気味なほど静かだった。
——いや、金属音だけはうるさかった。
しかし、あくまで機械が作動している音で、人から発せられるものとは程遠い。
「ま、まあ夜だからね、昼間は活気あるでしょ、……たぶん」
ノア地区の西部入り口。
到着してすぐ視界に入ってきたのは、小さな町広場のような場所だった。
広場の中心には、丸時計——モニュメントクロックが刺さっており、ちょっとした円形花壇とベンチがある。それを囲むように雑貨屋、鍛冶屋、八百屋、服屋、酒場などが十数軒、密集している。
建物の壁は金属製とトタン製が多く、オブジェなのか本物の機構なのか、大小さまざまな歯車が、壁のあちこちから蔦のように生えていた。
丸時計の下のベンチには、さすがに数人座っていたが、酒を飲んだり、ぼうっとしてたり、どうも生気に欠けている。唯一、銀片吟族の掃除夫だけが、自分の身長よりながーいモップで、熱心にゴシゴシ掃除をしていた。
夜でも太鼓の音が鳴り、酔った鉱夫が騒ぐサウザス。また、それよりは大人しいものの、仕事終わりの木工職人たちで、活気のあるトレモロの繁華町と比べ、——ノアの夜は静かだった。
「まあいいや、ホテルへ行こう、紅葉。中央広場の近くにあるはずだ」
「うん、こっから南だよね」
「そこのキミたち! ギャリバーで町に入っちゃダメダメ。ここは私が預かろう」
キビキビとした警官服を着た男が、ニーナ号に駆け寄ってきた。
「えっ、すみません、知らなくて……どこかに停留場があるんですか?」
「ああ、私に鍵を貸したまえ」
紅葉が、ギャリバーのエンジンを切り、鍵を男に渡そうとした瞬間——
「——おっと。ノアに住んでからチョビっと経つけど、そんな法律は知らねえな」
銀片吟族の掃除夫が、ながーいモップを、紅葉と男の間にスッと伸ばし、キーホルダーの円形部分に、モップの柄を突き刺して、その場から華麗に怪盗していった。
「っ、なん……!」
「おら、身分証を見せなよ、警官サン?」
「ししし、失敬な! 掃除夫のブンザイでっ!」
ショーンと紅葉が呆気に取られている間に、男は肩を怒らせ、ドスドスと裏路地に消えていった……。
「ほいよっと、気をつけな」
世界を救った兄ちゃんは、モップの柄をちょいと下げ、紅葉の手に再び鍵を落とした。
「ありが——あれは……ほ、本物の警官じゃないんですか?」
うまく呂律が回らず、礼を言うのを失敗してしまった。
「さーね。ホンモノかもしれないし、偽モンかもしれねえ。身分証も本物かもしれないし、偽造されてるかも分かんねえ」
「————!」
なんてこった。
エミリア刑事が語っていた『ラン・ブッシュ』のエピソード。
あんなメチャクチャな話が罷り通っていたのは、このノアの環境があってこそだったのか——?
「こ、こういうのは、よくある事なんですか? 他の地区では見ないような……」
「おう、そうだな、ノアの貧乏人に悪人はほとんどいねえ。そこそこ小金を持った詐欺師が、権力者の顔して近づいてくる——ってのが、オレがここに来て学んだ、唯一のチケンって奴よ」
「ありがとうございます、せめてお名前を……」
じゃーなーと、掃除夫がモップとバケツを持って去っていった。ペンギン族の、独特の三角の手ビレをテロテロさせて。
3月26日金曜日。
夜の0時になり、広場の時計が、ガシャーンと耳障りな金属音を立てて、変更時刻を告げはじめた。
するとガチィ、ギチギチ、ギチィと建物の壁から生えた歯車が周りだし、彼らも時を教えようとしていた。ポッポー、ポッポーと、どこかで鳩時計が長閑に鳴っている。
「はぁー……騙されるって、こういうこと……なんだね」
ショーンと紅葉は虚脱して、その場から抜けだせずにいた。
不意に襲われることや、攻撃されるのとは、まったく違った感情だった。
「へ、平気さ……! 何か大切なものを無くしても盗られても、命を取られなきゃ平気だよ。それでアルバの資格を失ったり、ギャリバーの免許や、州名簿から名前が消えるわけじゃない。そう……大丈夫!」
ショーンは、紅葉と自分自身に言い聞かせ、改めて荷物を見直した。
ドップラー爺さんから安く購入したニーナ号、
酒場『ラタ・タッタ』のオーナー夫妻から譲り受けたティーセット、
子供の時から使っているサッチェル鞄、
腰に挿してるリュカの短刀ナイフ、
10年前に買ってもらった【星の魔術大綱】——
これからは、よりいっそう、失わないよう気をつけなければならない。
そしてもし、全部失うことになったとしても、覚悟しなくちゃならない。
「ふふ……そうだ。【真鍮眼鏡】なら、たぶん盗られないんじゃない? 普通のひとは持った瞬間、骨折しちゃうもんね」
紅葉が苦笑し、冗談を返して、ちょっとだけノアの夜に灯りをつけた。




