3 漆黒の猫狼と、桃白色の豚
一方、同時刻。
「あらやだ、伊達男! 久しぶりじゃないの」
「やあマダム、今宵も一段と美しい」
山高帽の群れが滔々とたゆたう夜の闇のなか、紫と桃色の錫明かりが灯る店に、一輪の薔薇のような男が来店した。
「貴様っ、なぜこの店に……! ここは漆黒の猫狼族の縄張りだ、貴様のような血色のいい白豚が足を踏み入れるべき場所ではない!」
「ガーハッハッ、知ったことでないな! マダーム、赤ザクロワインを頼む」
「ふふっ、そうよ、ベンジャミン。此処はくつろぎの間、誰にでも爪をあげて歓迎するわ……」
マダム・ジル・ジーナは婀娜めいて笑い、黒いマーメイドドレスの片脚を揚げ、桃白豚族の来店客、クラウディオの肩にもたれかかった。
猫狼族が集うパブ『ペイルムンド』。
吹き抜けの馬蹄型をした店内は、中央の小舞台を囲むように、革張りのカウンター座席が並んでいる。
「悪いけどちょっと混んでるの。相席お願いするわね、ベンジャミン」
「なーに、気にすることはない、マダーム! 我々は顔馴染みでね! せいぜい仲良くするさ」
「クッ……! せっかくのヴィッキの歌がっ」
桃白豚族の男は、コウモリ羽のような大マントを翻し、髭を細かく震わせている猫狼族の男が座る、半地下のボックス席に収まった。
このパブは、酒と会話の提供のみならず、歌とアリアを聴かせる店だ。客としては手軽に歌を浴びれるオアシスだが、演じる者にとっては厳しい修行の場である。
オーナーは猫狼族のマダム・ジル・ジーナ。かつてはクレイト劇場の歌姫に名を連ね、大スター、ブルネッラ・ヴァアルチェローナのもとで腕を磨いたという。
今夜の『ペイルムンド』の歌姫は、猫狼族のヴァレンティーナ・ヴィッキ。彼女もまた、劇場に立つことを夢見て、毎夜研鑽を積んでいるひとりである。
「フゥー……なぜ貴様がこの店までやって来たんだ。クラウディオ」
「なあに、私もヴァレンティーナ嬢の歌が聴きたくなってね。彼女の晴れ舞台を待ち浴びている1ファンなのだよ」
「フン、劇場に立てる歌姫はたった4名だ。今の “四色奏” は崩せない。誰か引退してもらわないと実現困難」
噂の若姫ヴァレンティーナが、舞台上に戻ってきた。今宵の第2部の曲が始まる。
客たちは、クレイト劇場に比べて、遥かにこぢんまりした桟敷席から拍手した。
「……それで、クレイトに帰ってきたからには、進展はあったのか。サウザスの動乱以後の実情は?」
ブラックレイブンの干し肉を噛み、ホオズキウィスキーを嗜む、黒スーツの彼は、ベンジャミン・ダウエル。クレイト市警に在籍している猫狼族のアルバである。
彼はサウザス事件に少々協力した後、すぐに別の事件捜査に移っていた。
「さぁてね。血の残骸は、ラヴァから離れて四方に散った。——とでも言うべきだろうか。すでにサウザスには何一つ残滓もないね」
ちょうどマダム・ジル・ジーナに酒を運ばれ、笑顔で受け取った紫スーツの男は、クラウディオ・ドンパルダス。ラヴァ州とオックス州で活躍するアルバであり、胸スカーフの下には帝国調査隊のバッジが光っている。
彼は州警察のブーリン警部とともに、サウザスで事後調査に明け暮れ、自宅のあるクレイト市には数週間ぶりに戻ったところだ。
「ハッ、州外逃走——犯罪者はみなその道を選ぶのだ、結局な! 帝国もヘタに州の自治権なぞ与えるから、犯罪人に甘くなる……っ!」
ベンジャミンはウィスキーグラスを強く握り、正義に憤りを覚えて吐露した。
「仕方あるまい。数千年にわたる戦の成果だよ。権を変えようものなら、また戦いが起きるだけさ」
その横で、クラウディオはシニカルに笑って胡桃を割り、左手で軽くアンズワインをついだ。
ヴァレンティーナは、オレンジカクテル色のドレスを纏い、『朝露に濡れるローブ・デコルテ』を順調に歌い出していた。
「ところでベンジャミン。貴君は『黒爪のゾック』事件をご存知かね? 私がサウザスで揉まれている間に、何やらこの街で騒がれてるようじゃないか。あれもなかなか興味深いね」
「ああ……『黒爪のゾック』の名を語る盗賊が、近頃クレイト市に出没している……。まったく馬鹿馬鹿しい話だ」
「盗賊だなんて、チッチッ、浪漫がないなあ。——【怪盗】と呼んであげたまえ」
ただでさえ機嫌が悪かったベンジャミンの顔色が、灰褐色に変化した。
「ふ、ざ、けるなっ。『ゾック』はそもそもスパイだぞ! しかも我が同胞、猫狼族の者だっ‼︎」
舞台上で、若きヴァレンティーナが『夕暮れと断罪のアリア』を聴かせる中、したたかに叫んでしまったが、酔客に慣れた歌姫は、動じることなく歌いきった。
「……ッ、……作中のゾックは、我々と同じ猫狼族だ。しかし捜査によると、どうも別の民族が猫狼に扮しているらしい。それも気に入らない!」
自分自身で気を取り直したベンジャミンは、小声で愚痴をこぼし、頭を振りながらウイスキーを一杯飲んだ。
「ハッハ! 面白い話だ。今どき怪盗とはね! 州議会員の邸宅に、高利貸しの社内、ジョンブリアン社の支部長までも美術品を盗られたそうじゃないか、痛快だ」
「なんにも楽しくないぞ! マズイのは市民が面白がって応援していることだ。ゾックの名前を使うことで、親しみの感情を抱いてしまってる。ただの犯罪者だというのに、なんたる卑怯な……! おまけに作者へ捜査協力を依頼したものの、出版社側から拒否されてしまったのだ。帝都にいるから無理に令状をとることもできん! いまいましい‼︎」
「『黒爪のゾック』の作者……たしか『テンヱイ誓団』だったか、仰々しい名だねえ。謎多き作家集団……あるいは個人か……本当に犯罪組織かもしれないな」
クラウディオは含み笑いをし、尚も優雅にグラスを回していた。
ヴァレンティーナの曲目が変わった。第2部最後の曲、『13代皇帝に捧げる羊と猿の宴』を歌い始めた。
「おっと、羊猿族の歌じゃあないか、いいねぇ、陽気でエキゾチックだ」
「羊猿族……か。あの子はどうした。君の部下だろう」
クラウディオとベンジャミンの間には、とある若いアルバの顔が浮かんでいた。
「ショーンが? まさか、いやいや、彼はフランシス様以外の何者にも隷属しない。塔での集合から会ってもいないさ。ふっふ、風の神リンドの噂によると、しばらくトレモロでご活躍のようだ」
「ああ、そう、トレモロ……犯罪人コリンの目撃情報があったと聞いたぞ。カードの盗難犯ごときが居場所をご存知だとは、俄に信じられぬ……」
サウザスに続き、トレモロで起きた騒動は、さっそくクレイトでもゴシップ記事を賑わせていた。
「ああ。しかも豪奢な神殿が、不審な崩壊を遂げている。ショーンはその倒壊の真っただ中に居たそうだ。アルバたる者が、放火を防げず傷を負うのも妙なハナシだが……なにより責任の所在がウヤムヤになってしまっている。統括室のお喋りギツネによると、フランシス様とヴィーナス町長が、水面下で不問にすると決定したとか。警察やマスコミの一部は、疑惑の声をあげているがね……マダーム! お代わりを頼もう。……戯言だったか、フフ……」
長話をしたクラウディオは、珍しく神妙な顔をしていたが——すぐに元の飄々とした顔に戻った。ベンジャミンは顔を伏せ、恋に苦悩する青年のような顔でブツブツ呟く。
「いったいどういう事だ。あのターナー夫妻の、両親ともに類い稀なるスーアルバの息子、ショーン・ターナーが神殿の破壊犯だとでも? それは、まあ、抑圧されて育てられたのか……?……あり得る話ではあるか」
「ハッハッハ!」
クラウディオは豪快に笑い飛ばし、歌姫ヴァレンティーナのアレンジを効かせた歌い上げに「ブラボー‼︎」と叫んだ。
「ま、ショーン・ターナーには頑張ってもらいたいものだね、ハッハ。州警察のお立場じゃあ、これ以降、ラヴァ州内で災禍が起きないかぎり、どんどん捜査を縮小していってしまう。ほかに凶悪事件や犯罪組織はワンサとあるしね……。フッ、あの子には、同じ【帝国調査隊】として、州を越えた活動を期待したい」
「越州か……許可が下りるまで、至極困難だろう。今はどこにいる?」
「ノア——労働者が死んだ都市だ」
ヴァレンティーナ嬢は一礼し、アンコールの曲を歌い始めた。
仕事終わりのアルバ2人は、カウンターにもたれ、その後も『ペイルムンド』の夜に浸った。




