5 真昼の逃避行と深夜の指令
「見てくれよ、ロナルド! バッコウ山がよく見える!」
安いランクの宿とは思えない極彩色の風景が、錆びれた窓枠いっぱいに広がっていた。
紅、群青、藍、茜、白銀、金色、濃紫……黄色と緑の木々でできたバッコウ山に、色とりどりの花茶葉が植えられ、これぞファンロンの自然美を物語っている。
エミリオは、長らく牢獄に監禁されて、久々に青空を見た囚人のように、窓にもたれかかり春のバッコウ山を眺めていた。
「いいけど、移動できるのはここまでだぞ。ドミーも葉っぱももう尽きた……ここが最後だ」
サウザスから逃避行して6日目。
ファンロン州は、ルドモンド大陸の20州の中で、もっとも面積が広い州だ。慣れない道のりに大苦戦し、積んできた燃料、食料もすぐに枯渇した。証明書が出せない中、店員に賄賂を渡し、騙しだましやってきたが……ここが限界だった。
ロナルド・メンデスは、万事休すとばかりに、部屋に1つしかないベッドへ腰かけた。
「いいさ。ここまで来れたら歩いてでも行けるよ。10時間くらいで着く。近所だ」
エミリオは狭い部屋でスキップでもするかのように、砂鼠族の長い尻尾を振った。大瓶ごと盗んできた薬品のおかげで、火傷の痕は徐々に良くなっていたが、その薬品も今日で尽きている。
宿の窓から見える山々は、彼らの行く末をよそに、絶景を映し出していた。
高級茶の生産地で知られる、バッコウ山。
その奥地にある、薬の調合を生業としている村、ペンウェン村。
それら山と村との間に、藪に囲まれてひっそりと存在する名前のない集落——
「そこが目的地だよ。バッコウ山は観光客こそ多いけど、それは表側……。ペンウェン村に続く奥地は、州政府から管理されてて関係者以外入れないんだ」
「では我々も入れないだろう。ゲートでも突破する気か?」
「いいや、山の茶屋に協力者がいる。関係者にしてもらえるんだ。観光客にまじって、そこまで行かなきゃいけないけどね……ふふふ」
エミリオは、ベッドに腰かけるロナルドの前に、膝をついて微笑んだ。
「はぁー……バッコウ山はいつだって混んでるぞ……しかも今は春先だ。さぞかしツアー客も多いだろうな」
10年以上前に味わった混雑を思い出し、苦汁をなめたような顔をした。
「ここまで連れて来てくれて、ありがとう。ロナルド」
エミリオは、彼の脚に尻尾を巻きつけ、両手で彼の頬を包み、キスをした。
「ロナルド先生が同性愛者だっていうの?」
「うん。けっこう重要な事実だと思う」
「そうかなぁ……。恋愛の形は人それぞれで……」
「だ、か、ら! エミリオがただの友人じゃなくて、恋人になったかもしれないんだ。友人じゃなくて『恋人』だよ? この差は大きいと思う。恋人って恋人の為なら何でもするんだ。エミリア刑事の暴走を見ただろ」
「……あー、んー、そっか……そうだね」
紅葉はがっくりと体を曲げ、疲れた顔を見せていた。ショーンは遅くなった夕食をもりもり食べ、お代わりまで平らげている。
3月24日風曜日、深夜11時。
充分な寝食をとってツヤツヤになってきたショーンと違い、紅葉の瞳にはクマができ、頬も痩せこけていた。
「ずっとコリン駅長を探してるのか、どうだった?」
「ぜんぜん。警察もずっと捜索しているし、レイクウッド社の人も手伝ってるけど……」
木工所の敷地内には、作りかけの家や、資材の詰まった納屋が点在しており、隠れ家としてはオアシスだった。
「フランシス様が一帯に呪文をかけて探したし……きっともう居ないんだよ。そもそもガセ情報だったのかも」
「それでも……何か残ってるかもしれないじゃない!」
紅葉は、ショーンのお盆からリンゴをとり、ひとくち齧った。季節外れの庭リンゴは苦く、えずきそうになりながら噛んでいた。
「こっちのベッドで寝なよ、紅葉。僕は来客用のベンチで寝るから」
「えー……無理だよ、そん……な……」
赤いリンゴは紅葉の手から滑り落ち、コロコロと床を転がった。紅葉の体が傾き、崩れそうになるのをショーンは手を伸ばして支え、自分が今まで寝ていたベッドへと寝かせた。
温かい羊の匂いにいざなわれ、紅葉は眠りの海に水没していく。
ショーンは落ちた林檎を、猿の尻尾をニュッと伸ばして先端でつかみ、そのまま器用に尻尾をくねらせ、ゴミ箱へ捨てた。
相棒をベッドで寝かせたアルバ様は、厚手のローブを羽織り、そのまま病院の電信室へと向かった。
電信室は受付でお金を払うと使える仕組みだ。ショーンは1時間ぶんのドミーを支払い、誰も居ない静かな個室に腰かけた。
『もしもし、ラヴァ州アルバ統括室ですか。フランシス様にお繋ぎ下さい。ショーン・ターナーです』
この時間にも関わらず、電信はスムーズに目的の人物につながった。
『やあ、ショーン。ごきげんよう。羊のくせに夜更かしだな』
『フランシス様。僕はもう回復しました。次の指令をください』
ショーンは、すでに淀みなく暗号電信を打鍵していた。
四角塔の最上階で、上司は濃赤のルージュを一笑させた。シルクのドレスをまとい、サクランボをいれた蜜月茶をカクテルグラスで飲みつつ、満月湖を見下ろしている——。
『いいだろう。ノアに行きたまえ』




