2 女スパイ・エミリア
エミリアは、ふと目を覚ました。
それまで暗くて何もない深淵にいた。音もなく匂いもなく、風だけが強く吹いている。
「——起きたね」
横には紅葉が立っていた。服はボロボロ、髪はボサボサで、何日も野外で誰かを探していたかのような出で立ちだった。
「アタシは……まだ逮捕されてないようね……」
逮捕者が病人になってしまったら、どんな病状であろうと手錠足錠がかけられ、ベッドに縛りつけられる。今回の被害者であるアルバ様は、まだ警察に伝えてないようだ。
「ショーンは貴女を泳がすことにしたよ、エミリア。これからは貴女が『ゾック』になるんだよ」
スパイ小説『黒爪のゾック』。
猫狼族のゾックが、スパイとして悪の組織に潜入し、内部破壊を試みるストーリーだ。ルドモンド大陸全土で人気があり、スパイ小説のジャンルでは一番有名なシリーズである。54年前に第1巻が刊行されてから、現在27巻目だが、いまだに完結していない。
「スパイになれ……って? ハ、ずいぶん悠長ね……。スパイってのはね、元巣に絆や信頼があるから成立するのよ。アンタたちを裏切らないって保証はないの……っ、ゲフッ、ガハッ」
エミリアの全身を覆った火傷と擦り傷は、いまだに悶絶するような痛覚を与えていた。
「断ったり、裏切るつもりなら、問題ない……今ここでその脳天をぶちまける」
紅葉は一点の曇りのない目で、【鋼鉄の大槌】をエミリアの頭上3センチ前まで置いた。
「フン……それも悪くはないけどね」
エミリアの視界全面にうつる純粋な黒は、鉄の冷たさを感じさせながらも、そこが神々しくて美しかった。
「——ッ、待って、向こうの世界に行かないでよ、エミリア・ワンダーベル!! 自分がしたことの責任をちゃんと取って! トレモロを良くするために警官になったのは嘘だったの!? 私だって、向こうの世界に行ったら楽なのを知ってる……。いつだって道が外れないように踏みとどまってるんだから! あっちに行ったら、もうこっちの世界には戻れないよ! あんただけ先に行かないでっ!!!」
紅葉は、泣き叫んで激昂していた。
エミリアは、首をわずかに下へ動かし、自分自身の体を見つめた。
深い火傷と傷は、右上腕にあった刺青を黒く塗りつぶし、判別不能にしてしまっている。左上腕にわずかに残る、大きな鐘の刺青を見て……
彼女は『戻って』来てくれた。
3月24日風曜日、午前10時20分。
【赤き薊の棘よ、軒昂の兆したれ。《パパ・リーヌ》】
ショーン一行は、真向いのエミリアの病室に来ていた。狩人レシーに食い入るように見つめられつつ、ショーンは目を閉じ、深いマナの集中を行った。
メディゴダイバの10の治癒呪文の6番目、火傷治癒呪文 《パパ・リーヌ》が病室に響く。赤い棘のようなマナの光が、きらきらとエミリアの体に突き刺さった。
「よし、これでしばらくすれば痛みと炎症が引くはずさ」
「……まるで、騎士が戦場で死ぬときみたいな棘の数ね……」
マナでできた赤い棘は、100本を優に超えている。治癒呪文にしてはかなり強烈な見た目だった。
父ドンボイ族長が目撃したものと似ている、大型呪文を目の当たりにできたレシーは、興奮してドスンドスンとその場で跳ねた。
「おおーーすげーーーっ、ブドウ酒みてーな色じゃねーか。触ってもいいか?」
返事を待たずに、チョンチョンと棘の1本を触れてみた。棘はパキン! と細いガラスが折れたかのように散ってしまい、「わりィ!」と慌てて手をひっこめた。
「さぁ、もう帰るぞ、レシー」
「さっさとずらかるわよ、坊や」
木工所のテオドールと、木炭職人キキーラが病室のドア越しに呼んでいる。
ようやく『呪文の光を見る』という目的を無事に果たせた狩人レシーは、満足して帰っていった。
「ふう——話せるか、エミリア」
病室に防音呪文をかけ、面会謝絶にしてもらった。
エミリアは諦めたように溜め息をつき、ショーンの要請に応じていった。
「この写真の中央にいる雷豹族、この子が組織の一員で、君の恋人なんだろ。教えてくれ、今どこにいる、なんて名だ?」
かざされた警察学校時代の写真を見て、エミリアはフッと懐かしそうに目を細めた。
「さあ…… “あの子” ——ラン・ブッシュの行先は知らない。自由な子だから——アタシも自分から連絡はとれない。向こうから知らせが来るのを、ジッと待つだけ……」
ショーンと紅葉は顔を見合わせ、『ラン・ブッシュ』という名前と顔を脳裏に刻んだ。
「現役の警官じゃないのか?」
「……警察学校を卒業して、最初の2年はやってたと思う。クレイト市警に入ってね……でも自分から辞めたはずよ。本当のところは分かんないけどね。何せ偽造を濫造しまくってるから。ラン・ブッシュという名前も本名かは疑わしいわ」
ショーンと紅葉は顔を見合わせ、先ほど脳裏に刻んだ名前を、脳内のバーナーで黒焦げにした。
「じゃあ、いま無職ってこと?」
「そうね、プラプラしてるはず……。お仲間がいるみたいだから、金には困ってなさそうだけど」
「そのお仲間のことを知りたいんだよ!」
「アタシも知らないのよ、これでも現役の警官なのよ!? 教えてくれるはずないじゃない!」
「なんで恋人同士なのに知らないんだよっ」
「恋人ってそういうものよッ! それぐらいアンタたちオコチャマでも知っときな——痛ぅ」
動いた拍子に、赤いアザミの光がバキバキッといくつか割れ、苦痛で唇をゆがませた。
「はー……じゃあ、ラン・ブッシュが手引きして、『実の父親を呪文で見つけてくれるはずだ』ってアルバも、顔も名前も知らないのか?」
「そうね、知らない。結局会ってないもの。いま思えば、そいつが例の『仮面の男』……だったのかもね。男か女かも分からないけど」
部屋の空気がシンとなった。
(……あいつなら本当にできてもおかしくない。もしかしたら禁術にそういう呪文があるかも?……性的な呪文も多いって聞くし…………男か女か……そういや、僕はヤツを男って決めつけてたな。キキーラ族長みたいに女性でも大柄な人はたくさんいるのに……なんでだ?)
「ねえ、ラン・ブッシュの人となりを教えて。出身とか、趣味とか、性格とか、前科とかは?」
ブツブツ考えこんでしまったショーンの代わりに、紅葉が質問し始めた。
「出身はノアよ、趣味はダンス、性格は楽天的で残忍、前科はアタシが知ってる限りで……10は超える、入学前も、退職後もね」
「ノア地区なんだ。……ご両親は健在なの?」
「いいえ、小さいときに病気で死んだそうよ。学費は自分で貯めたって聞いたわ……。本当の事はしらない」
「前科ってなんなの。やっぱり魔術とか、組織の関係?」
「いいえ。窃盗、薬物、違法販売——悪い事はひととおり」
「なんでそんな子が警察学校に入学できたの? なんでそんな子を好きになっちゃったのよ!?」
「偽造が得意って言ったでしょ、改竄すれば犯罪歴は消えるの! バレなきゃ犯罪じゃないのよ。バレても賄賂を渡せば犯罪じゃないの! もういい! あの子の話はやめて!!」
エミリアはすっかり拗ねて、そっぽを向いてしまった。
余計なことを言ってしまったと、紅葉の顔ににじみ出ていた。
「……もうやだ! いつもこうだよ、私もう黙ってることにする……!」
「……まあ、ラン・ブッシュなる人物は嘘つきみたいだし、あまり先入観を持ってもよくないと思う……」
コソコソと作戦会議した結果、紅葉は警護官【ウォール・ロック】よろしく、離れて壁に立っていることにした。
「エミリア——話題を変えよう。左にいる蒼鷲族の女の子は?」




