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1 ロイが死ぬまでの話 X

【Orb】球体


[意味]

・球体、天球、眼球、宝珠

・円、円軌道

・自分の領域、領域での活動


[補足]

ラテン語「orbis (円、輪)」に由来する。ゲームではよく目にする言葉だが、同義語の「sphere (球体)」と違って日常的に使われることはあまり無い。古代の天文学において「地球の周りを同心円状に取り巻いている、無色透明でがらんどうな球体」がorbとされた。残念ながら土星の輪のようなorbは地球には存在しないが、地球の「orbit (軌道)」には現在たくさんの人工衛星が回っている。





 皇歴4548年の夏。

 父ヴォルフガングに続き、母のマルグリッドがひっそりと亡くなった。クレイトの心療院で、階段から足を滑らせたそうだが、本当のところは分からない。トレモロ新聞にも報道されたが、町の住民で知ってる人は、果たしてどれくらいいるだろうか。

 母の実家がクレイトで葬式を済ませてくれて、埋葬だけこちらの屋敷でひっそりと行った。

 父と母の墓石が並んでいるのを見つめ……ぼくは何の感情も抱けなかった。

 去年、秘書フレデリックが亡くなった時のほうが、よほど深い絶望感、喪失感を持っていた。

『……もう、終わりだね……』

 かつては、ヴィーナスとの愛の生活を夢想していた日々もあった。いまや、彼女に愛を囁くのはおろか、喋りかける事すらできない。立身出世の街道をゆくヴィーナスの、ドレスにひっつく蚤のような存在に自分が思えた。

『…………さようなら』

 これが自分一人なら、金も仕事もない状況でも、雨露を飲んでしのぎ、木工所レイクウッド社がアルバートに代替わりするまで待てたかもしれない——でも双子の弟ツァリーを抱えては無理だった。

 これから屋敷と土地を売り、その金で弟を施設にいれる。

 自分はトレモロから遠く離れた土地でひっそり暮らす。

 ぼくはガッセル家のエメリックおじさんに連絡をとり、

 トレモロ創始者・ゴブレッティの名前を、葬りさる準備をしていた。


『やあ、ロイ。うるさい連中を説得して、君を養子に迎える準備ができたよ。税金の関係で、来年の1月からだと都合がいいな。

 しかしゴブレッティの名前を捨ててもいいのかい、僕ぁ取っといた方がいいと思うけどなあ。ま、トレモロ住民から嫌われちまったなら仕方ないか。しっかし屋敷を爆破しようだなんて、ヴォルフガング氏も真正のアーティストだな。

 クレイトの三日月街に、君の新しい住居を確保したから、引っ越し準備を進めとてくれ。今までの100分の1の広さだぞ、持ち物は厳選しろよ。本や資料だったらウチの屋敷でも引き取れる。もちろんお宝なら大助かりだ。また後でな』


 皇歴4548年の秋。

 移住準備は順調に進んでいた。そして一族の名前を消す準備も……ラヴァ州名簿には存在しないはずの弟ツァリー。彼を施設に入れるうえで、ゴブレッティの名を使う訳にはいかなかった。

 毎週2、3箱ずつクレイトに荷物を送り、引っ越しだと知られぬよう密かに進めていた。失望の部屋も、誰かが足を踏み入れても分からぬよう綺麗にしておいた。

『あれ、ヴィーナスの絵葉書?……こんなとこに』

 ベッドの床板の奥に一枚、潜りこんでいた。あれからヴィーナスに会ったのは1度だけだ。


『勃興祭どうするの。ロイ』

『どうするって……出ないよ』

『ダメよ! オズワルド社長も出ないと言ってる、あの人、肝硬変を患ってるの。アルバート君が代わりに来るって、これはチャンスよ! 今の状況を2人でスピーチするの、町民に訴えるのよ! あたくしも手伝うから、3人で新時代のトレモロにするっ……』

『——ごめんね、できない』


 5年前だったらあり得ない態度で、ぼくはヴィーナスを拒絶した。

 彼女との葉書も手紙もすべて箱に閉じこめ、クレイトの隠れ家へひっそりと送った。

 こうやって静かに消えていく事が何よりだと、この時のぼくは思っていた。

 そして、それは最悪の形で “実現した”



 皇歴4548年の終わり。冬がどんどん深まっていく。

 ぼくはトレモロでの最初で最後の事業として、弟ツァリーを、ノアにある障碍者施設に入れるべく交渉していた……が、諸般の事情により難航していた。

『——だから、言ってるでしょう! 来年から入れるって許可されたのに、どうして今になって無理だなんて! キャンセルされたら前金の意味が無い……』

 後になって思えば、先に屋敷を売って、多めに前金を渡しておくべきだったのだ。

 そうすれば有無を言わさずねじ込めただろう。そんな大人の流儀なぞ知らぬ若造のぼくは、真っ当な交渉をしてしまっていた。

 12月のある日、ぼくはツァリーの昼ご飯を用意した後、自分の皿を準備する間もなく、施設との電信に、怒りのあまり長時間向き合っていた。

 だから異変に気づかなかった。

 数時間たって、食堂室に戻ってきたら——

 ツァリーがシチューの皿をひっくり返して、倒れていた。

 ぼくは近寄って、背中を叩こうとしたけれど——

 青暗い顔をして倒れてる自分の顔をみて、

 足を止めた。

 あれはロイだ。

 ツァリーではない。

 ツァリーなんて誰も知らない。

 生きていた事実すら誰も知らない。

 あれはロイだ。

 ロイが死んだ。



 ロイ・ゴブレッティが死んだ。



 ぼくは小さな鞄をかかえ、身一つで屋敷を飛び出した。

 町の裏通りを走って、走って……貨物駅につき、暗闇に乗じて、クレイト行の貨物列車に飛び乗った。

 クレイトに着く手前で線路に降り、そこから先は三日月街へひたすら走った。

 ガッセル家の住所は、封筒の名前上しかしらない。

 町民にも警官にも誰にも話しかけられず、看板と標識だけを頼りに盛大に迷いながら、2日2晩かけてエメリックおじさんの屋敷へ向かった。

 ぼくは泣きながら、彼の胸で事情を洗いざらい話した。

 おじさんは喜んで歓迎してくれて、自分の息子のように優しくしてくれた。

 それどころか大金の賄賂を渡して、ぼくの苗字だけでなく、名前まで変えてくれたんだ。


 オリバー・ガッセル


 それが新しい名前だった。

 乞食同然のぼくに、何故そこまでしてくれるかは謎だったが、どうやら何気なく送ったゴブレッティ家の資料に、秘蔵の設計情報が大層ふんだんに含まれていたらしい。(ぼくにとってはもちろん、どうでも良かった。)

 彼らは情報だけ盗んで、ぼくを捨てる事もできただろうが……そこまで薄情な選択はせず、諸手をあげて守ってくれたので、助かった。



 一週間後、不審に思った役所と警察、ヴィーナスらが屋敷を訪問し、

     “ロイ・ゴブレッティの死を発見した”

 トレモロ中が大騒ぎになったが、すべての謎は闇に葬られた……

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