2 ヴィーナスにジーザス
3月21日火曜日、午後8時45分。
オリバーはなれない駆け足に膝を痛め、震える手でアパートのドアを開けた。
「はぁ、はぁ……っ」
そこはレイクウッド社一の設計士が住むには、あまりにも小ぢんまりした安アパートだった。他の住民は、自分と似たような独り身ばかり。オリバーの部屋は、2階中央の一室だ。
「ふぅ……」
「——待って!」
自室のドアを閉めようとした瞬間、追いかけてきたアンナが、ドアをこじ開けるべく突撃してきた。
「…や、やめろ、……来るな………帰ってくれ!」
「開けてください! 開けて‼︎」
オリバーは内開きのドアを背中で押さえていたが、アンナはそれ以上の強さでドアを叩き、身体ごと無理やり押し倒してきた。
「……く。来るなあーあっ……帰ってくれぇぇ……っ!」
オリバーはここ数十年出したことのないような大声をあげたが、闘牛のごとく真っ赤な形相のアンナは、そんなものには怯まなかった。
「んぎゃーっ、アンナ様ーッ、何かあったんですかあ⁉︎」
「ナッティ、手伝って!」
遅れてきた町長秘書ナッティも参戦し、2人分の力が加わり——ひ弱なオリバーの耐久力では支えきれず、ついにドアは決壊した。
「えっ…………これは!」
「ぎゃーっ、ギャーッ、ヴィーナス町長がこんなにイッパイ⁉︎」
オリバーの小さな部屋には、窓と棚以外のあらゆる壁に、ヴィーナス・ワンダーベルの顔写真が貼られていた。
選挙用の大きなポスターから、新聞の切り抜き、雑誌の切り抜き、公約文に宣伝活動、インタビューのピンナップ、満面の笑顔や真剣な顔、すました顔に怒った顔、カップケーキを頬張る顔など——あらゆる大きさと姿を撮った女神たちが飾ってあった。
「お母さまが、こんなにいっぱい……」
壁のポスター以外にも、ローチェストの上に、きちんとした額縁付きの写真立てが置いてあった。その多くはもちろんヴィーナスの写真だったが、アンナとエミリアの写真も、数枚飾られていた。
「私たちのも……ある」
「いやあああッ、ストーカー、ストーカーデスっ!」
「み、見るな……見ないでくれ…………っ」
ナッティが青色の顔でギャーギャー騒ぎ、オリバーは真っ赤になって頭を抱え込んでいた。
「…………」
アンナの両目は、机の壁に貼られた、とある写真に吸い寄せられた。
クレイトの大産院で、三つ編み姿の若きヴィーナスが、産まれたての双子赤ちゃんの隣で笑っている……いや、口角を無理やりあげて繕っていた。目元は寂しそうな顔をしている。出産の痛みや疲れとも違う、どこか遠くに心があるような——
「いやーっ、いやーッ」
「……頼む……帰ってくれ! 帰ってくれっ‼︎」
相変わらず2人はドアを全開にしたまま叫んでいた。寡黙なアパートの隣人たちは、騒ぎがあっても誰ひとり出てこず、無視を決めこみ火曜日の夜を過ごしている。
「…………お父さまですか?」
アンナが訊ねた。似た色の瞳をした彼に。
「私とエミリアの…………お父さまですか?」
午後9時になった。
「よろしくお願いします! ゴフ・ロズ警部」
学校の授業よろしく、ショーンが鉛筆とノートを持って、トレモロ警察署の会議室に座っていた。
紅葉は先に宿屋へ帰らせた。署内には、暗号電信を教えるために残業してくれた警部と、夜行性の警官たちが数名、仕事している。
「ノートも鉛筆も結構ですので。けして書き留めずに覚えてください」
警部は大きな鼻をチョイと動かし、鞄にしまうようジェスチャーした。
「暗号を完全暗記で?……み、みなさん覚えられるもんですか?」
「覚えられなくても問題はありません。出世しないだけです」
(——ウソだろ⁉︎)
バクバクバクと心臓が鳴り始めた。こんなに緊張するのは、魔術学校の入学式以来だ。
「ああ、それと……州のアルバ統括長より、伝言を申しつかっています」
「ふ、フランシス様から? 何でしょうか」
「ええ今夜11時に、こちらから暗号電信を掛けるようにと。ショーン様と2人きりで直接お話ししたいそうです。ですので……」
ゴフ・ロズ警部がチラッと腕時計を見た。
「——あと2時間ですべて覚えてください」
ドコドコドコ。心臓が太鼓を叩き出す。こんなに緊張するのは、アルバの試験を受けて以来だ。
ショーンはプレッシャーで卒倒しそうになりながら、警部の話すことを一字一句頭に叩きこもうと、猿の瞳をグワッと開いた。
オリバーの髪で覆われた瞳が揺れた。崖牛族の角が震える。
「オリバー・ガッセルさん、あなたは……私のお父さまですか?」
ヴィーナスの娘、アンナ・ワンダーベルが再度訊ねた。
何十何百もの写真のヴィーナスが、2人の顔をジッと見ている。
「…………わ、わたしは……ち、ちが……」
彼の頬は赤色を通り越し、すでに真っ白になっていた。
「なーんでソ〜思ったんです? アンナサマ!」
「そ、そう、な……なぜ……なぜそう思ったんです……?……」
ナッティが後ろからアンナに質問をし、まるで味方が現れたかのように、オリバーも同じ質問を繰り返した。
「まず、あなたとは同じ崖牛族です、年齢も、母とほとんど一緒」
アンナはひるまず真正面で顎を引いた。立派な左右の牛角が揺れる。
「そして瞳の色が似ています。同じ茶色なんです、ナッツに近い色をしている」
アンナとオリバーが、かぎりなく似た色の瞳で見つめ合った。
「さらに角の生え方があなたと同じです。母とは違う。母は耳の直線上に生えてますけど、私とエミリアとあなたは、眼球の直線上に角が生えている」
額の上にある、角を指差した。その位置は少しでっぱった額の左右、こめかみの上方についている。
「そんなの……該当する崖牛族は……他に幾らでも…………」
「でもヴィーナスを愛してる! ここにある写真が証拠よ、そんな崖牛族は貴方しかいない‼︎」
アンナが胡桃色の瞳に涙をためて、両手を広げた。
「…………そ……れは——」
部屋中のヴィーナスが微笑み、娘の一世一代の様子を見ている。
「違います——ぜんっぜん違いマスよ、あなたの父親はロイ・ゴブレッティですッ‼︎」
背後にいた町長の第1秘書、円猫族のナッティが、爪を立ててシャーッとわめいた。
「むかーし町長にコッソリ教わったんデス! あなたの父は由緒正しきゴブレッティの末裔ですヨ! コイツはただのストーカーッ」
彼女の威嚇のような言葉を受けたオリバー・ガッセルは、その場でがっくり膝をつき、力を失った。




