1 海獣を懐柔
【Cow】牛
[意味]
・家畜の牛
・雌牛、乳牛
・(俗称)女
[補足]
印欧祖語「gwou (牛)」に由来する。牛を表す英単語にはcowの他にもbull、ox、cattleといった言葉がある。cowは主に牛乳にまつわる女性的な牛を示すが、一方でbullは闘牛や種付け用の雄牛、oxは去勢済みの雄牛といった男性的な牛を意味する。cow、bull、oxはいずれも牛の総称「cattle」に含まれ、cattleの原義は「財産」である。
レイクウッド社の社長室は、ただならぬ緊張感に包まれていた。
「ヴィーナス…………なぜ……?」
オリバー・ガッセル設計士は声を震わせ、尋常じゃなく震えていた。そしてアンナも同様だった。
「ナッティ、あたくしとアルバート社長の2人きりにして」
「はい、町長」
有能なる町長秘書ナッティは、そんな震える崖牛族たちにお構いなく、テキパキと要らぬ人物を部屋の外へ追い出した。
「………………」
「………………」
オリーブ色の作業着姿のオリバーと、ドライローズ色のドレスを着たアンナ。両者は互いに気まずい沈黙を続けていたが、
「…………失礼、もう…………帰りますので」
「——待って!」
オリバーは逃げるように廊下を走り去ってしまった。
「ナッティお願い、追いかけるわ! 私は先に帰ったと、母に伝えてっ」
「ええっ、チョット待って——あ、行っちゃった」
アンナはヒールを履いてるとは思えないほど、最高速度で駆けていった。
ナッティ秘書は己の職務として、ヴィーナス町長の元に居るべきか悩んだが……
「悪い予感がしますッ! 悪い予感がシマスッ」
先ほど羽交い締めにしたメイドに伝言を残し、同じくアンナの跡を追った。
「お久しぶりね、アルバート社長。そちらのお仕事は捗ってる?」
「出ていけ、貴様に話すことは何もない」
ヴィーナスは黙って、懐から高級クルミ酒を取り出し、社長机にゴトンと置いた。
「酒なぞいらん! 持って帰れ」
「そう」
彼女はさらに胸元から自分のショットグラスを取り出し、コルクを開けてトクトク注ぎ……
「40度、オックス産よ」
グビッと美味そうに目の前で飲んだ。
「フン!」
疑り深い土栗鼠族のアルバートは、さすがに飲みはしなかったものの……セイウチのような髭を揺らして、少々肩の角度を緩めた。
「ここへ何しにきた、懐柔しようとしても無駄だぞ」
「そんな大層な話じゃなくてよ、社長。トレモロにアルバ様が来てることをご存知かしら? ターナーさんよ」
ヴィーナスは2杯目の酒を注ぎ、今度はゆっくりと唇をつけた。
「カレ、お若いけど有能なの。さっき警察署の前でバッタリ会ってね、お話を聞いたわ」
警察署、という言葉に太い眉をピクリとさせる。
「なるほど、お前の懐柔先は、ショーン様と警察署長か……!」
「何のことかしら」
彼女はグラスの酒を飲み干した。頬がほんのり赤く色づいている。
「貴方にお聞きしたいのは一件だけよ、ノアの大工事についてなの。
工事の主導者で大富豪、キアーヌシュ・ラフマニー。
彼はサウザス町長事件の首謀者・ユビキタスと繋がってる可能性がある。
——何かご存知かしら?」
それまで揶揄するような表情を浮かべていたアルバート社長は、それを聞いてスッと生真面目な顔に変化した。
「キアーヌシュ氏か……そうか」
「どうなの?」
ヴィーナス町長は、オーク製の社長机に、クルミ酒をスッと差しだした。
「……彼はほとんど自分の書斎から出てこない。会ったのは片手で数えるほどだ……繋がっている可能性は否定はせん」
アルバート社長は、左下の引き出しから来客用グラスを取りだし、注いでもらった。
「どういった殿方かしら?」
「寡黙、人付き合いを嫌い、疑り深い。我々が目の前にいるのに、秘書のキューカンバーを通して会話するほどだ」
「まあ……そんな方が大工事の主導なんて、……できるものなの?」
「フン、他に首謀者がいるとみている。孤独な大富豪を動かす、影の人間がな……!」
社長はクルミ酒をカーッと煽り、ヴィーナスから引ったくってドバドバ注いだ。
「さあ、もう用事は済んだな! さっさと出ていくんだ——いや、待て、こっちも用事がある! ライラック夫人を何とかしろ!」
急速に出来上がったアルバート社長は、赤ら顔でわめき散らした。
「あら、そんなにゴブレッティ邸への移住が不満? どうすれば良かったのかしら」
「カンタンだ、レイクウッド社に土地を買い取らせろ! いずれ素晴らしい設計の家が建つ……!」
「まあ、どんな設計? ゴブレッティは帰ってこないわよ」
「帰ってくるさ——いつかぁ——ずえったいにぃいい!」
アルバート社長はぐるぐると拳を振りあげ、社長机に昏倒した。
「…………そう」
ヴィーナスはふぅーとため息をつき、酒瓶の底に残った一杯を自分のグラスに空けて、舐めるように口付けた。
社長室の壁には、ズラリと建物の版画、図面、写真などが貼られている。左端の壁から順に見ていき……中央の右下にひっそり貼られた、古い写真に目を留めた。日付は30年前。
それは、レイクウッド社の南入り口にかつて存在した、大きな事務所で撮られたものだ。
老人や中年たちに混じって、働き始めたばかりの若きアルバート・レイクウッド、生意気そうな少女ヴィーナス・ワンダーベルが映っている。
そして、小さなロイ・ゴブレッティも——
「お久しぶりね」
彼は俯いて、左手で右腕をつかんでいた。長い前髪に隠れた目は、正面のカメラではなく、隣にいるヴィーナスの方を向いている……いまの今まで気づかなかった。
ヴィーナスは昔の写真を眺めつつ、高級酒を飲み干した。
『あら、ショーンさんじゃないの。奇遇だわ、ちょうどお会いしたかったのよ、何か進展はあったかしら?』
『ヴィーナス町長! はい、取り急ぎお伝えしたいことが……』
一時間ほど前、たまたまギャリバーで巡回していたところ、帰宅途中のショーン一行と出会った。
ショーンから、ライラック夫人の件や、アルバート社長のこと、設計図の盗難事件、ノアの大工事についての調査報告をザッと聞き、そのまま愛車を吹っ飛ばしてここへ来たのだ。
『盗難はレイクウッド社がやったと思う?』
『いえ、盗難可能な人間は、図書館スタッフに清掃業社、取材に警備……大勢います。アルバート社長はゴブレッティを心から愛してますし、盗まれたと知ったら激怒する側の人間です。ほかの社員はともかく、社長が犯人だとは思っていません』
『なるほどね』
『どのみち、一番怪しいのはノアの大工事の責任者です。もしかしたら、サウザス事件とも関わりも——』
昨日の今日でここまで調べてくれるとは思わなかった。さすがは事件をスピード解決したアルバ様……そう賞賛を贈ると同時に、カレ本人がスパイだという可能性も否定できない。
(こちらが『ターナーさん』と名字だけ出したにも関わらず、この男は『ショーン様』と名前のほうを呼んでいた……)
アルバートは酒に倒れて、グッスリといびきを立てている。
「……カレを懐柔したのは、果たしてどちらかしらね……?」
ヴィーナスは含み笑いでドレスを翻し、社長室を去っていった。
「ナッティ、アンナ、ずらかるわよ! お酒を飲んでしまったから、誰か運転を——あら?」
立派な廊下の片隅で、屋敷のメイドが、ナッティに縛られた時のままフガフガともがいていた。




