1 そもそも何を目指しているんだっけ
【Coal】炭
[意味]
・石炭、木炭、燃えさし
・石炭を供給する、石炭を積み込む
・燃やして灰にする
[補足]
古英語「col (燃えさし、燃えかす)」に由来する。元は「木炭」の意で使われていたが、時代が進み、石炭のほうが燃料資源として主流になるにつれ、主な意味が「石炭」に変わってしまった。しかし、石油が主となった現代においては、木炭も石炭も等しく過去の遺物である。
「ロナルド先生、エミリオの手術日についてですが、20日に回して頂けませんこと?」
「また? もう2回も遅らせているんだぞ」
「仕方ありませんわ、ボーマンさんの盲腸が先です。彼は鉱山の第3委員長なんですよ。そもそも、エミリオの仲間がこんな事しなければ、ほかの手術日だってもっとスムーズに……」
「分かったわかった。じゃあ19日の夜にしよう。金曜の夜9時からだ、これで決定」
ロナルド医師はササッとカレンダーに書きこみ、朝の回診へ向かった。
「——失礼、刑事さん。調子はどうだ、エミリオ」
監視中の警官に断り、旧友の容態を確認する。
「手術日が正式に決まったぞ、19日の夜だ。3日後になる」
エミリオはいつものように反応せず、静かに横たわっている——かに見えた。
(ん、なんだ……?)
今までは話しかけても、何も答えなかったエミリオが、急に指を動かしたのだ。警官には見えないように、ロナルド医師の手の甲へ、そっと人差し指でなにか文字をなぞった。
(これは……『F』?)
ロナルドは口を開きかけたが、エミリオはすぐ指の動きを止め、顔を背けて目も閉じてしまった。
(F、F……どういう意味だろう)
昼はずっとそのことを考えて時が過ぎた。
夜の回診でエミリオの元へ行くと、彼はまた指を動かした。
(今度は『A』だ……『FA』、なんだろう『F・A』……ファッ?)
エミリオが伝えた『FA』が、何かの略字か、それとも誰かのイニシャルか。
あれこれ考えながら床に着いた。
(アーサー・フェルジナンドならA・Fだし……なんだというんだ……?)
翌朝。
(今度は『N』)
その夜。
(次は…………『L』?)
エミリオとの指会話は、ほんの数秒で終わってしまう。
(なんだ、なんだ。『FANL』『FANL』……考えろ、考えろ……人名では無さそうだ!)
手術が翌日に迫った、次の朝、書かれた文字は——
『O』
(F、A、N、L、O——ファンロ————ファンロン州か⁉︎)
まさか、ファンロン州に行きたいのか。エミリオ。
この俺に、ファンロンまで連れて行けと。
彼の手術まであと36時間を切っていた。
ボーン、ボーン。
宿屋カルカジオのロビーにある、麦わら帽子のクマ時計が夜0時を告げた。
日付は3月21日、火曜日の始まりだった。
「事件から手をひけって……」
いつもは高級茶の匂いが漂う部屋に、度数の高いアルコールの匂いが充満している。ラルク刑事は赤くなった指で、白いハッカ飴の棒をいじった。
「……貴方にそんな権限あるんですか?」
ショーンはいつもより強い口調で質問した。アンナが言い放った『権利も権限もないわ!』という言葉が、羊の角に反響している。
「いいや、権限はないが……進言はできる」
彼はハッカ飴を舐めながら、最後のニガヨモギ酒のコルクを抜いた。
どうとでも取れる発言に、ショーンの舌先がびりびり震える。
どうやってこの場をしのごうか、両手のひらが熱くなったが、【鋼鉄の大槌】を持って鼻息を荒くさせてる紅葉に気づき——すこし冷静になった。
「僕は……」
【帝国調査隊】として正式に警察の所属になる。
考えてみれば悪くない話だ。
周りの妙な頼みごともきっぱり断れるし、警官たちとより密に連携できる。
でも警察の方針を順守しなければならないし、紅葉を相棒にするのも難しくなる。
——僕はそもそも何を目指しているんだっけ。
Faustusの組織を見つけ出す。そして壊滅させる。
じゃあ、もし警察が、別の事件を追えと命じたら?
「……僕は警察には所属しません」
ラルク刑事に宣言した。
「でも、事件から手も引きません」
ショーンは、自分の椅子に座り直した。
紅葉は【鋼鉄の大槌】を握りしめ、背筋を伸ばしてショーンを見つめる。
ラルク刑事はニガヨモギ酒をひとくち含み、あまりの苦味に眉根を寄せた。
「では、キミはこのまま中途半端な形で調査を続けるつもりか?」
「そうです。その上で、ラルク刑事と取引したいことがあります」
「——何だと?」
『だから、どこの馬の骨とも分からぬ、若造のああたに頼んだんですよッ?』
図書館でのイシュマシュクルの叫び声を思いだし、ショーンはフフッと笑みを浮かべた。
「こちらのネタは、ヴィーナス町長から仕入れた情報です。彼女が警察に伝えたくない内容ですよ、特別です」
「…………ほう」
ラルク刑事は、ニガヨモギ酒を飲むのを諦め、テーブルに酒瓶をゴトンと置いた。
「——それだけか?」
「いいえ。カブジ駅長からも、コリンについて新情報を入手しました」
「それはエミリア刑事の報告書で読んだ。……まあキミが引き出した情報だが」
「ええ。いずれも、僕の『中途半端な』立場だからこそ教えてもらえた事です。警官服に萎縮することなく、皆のびのび話してくれる」
ショーンは胸を張って、自分がいつも着ているブワッとしたクリーム色の服を見せつけた。(正確に言うと、カブジのは紅葉が引き出したネタだったが、これは瑣末なことだ)
「しかし、警察にも立場というものが……」
「僕もアルバとしての立場と都合があります。これ以上なにか仰るなら、ロナルド医師の元妻に密告しますよ」
「チッ、そうくるか」
ラルク刑事は白ハッカ飴を強く齧った。隠れた前髪がザラリと揺れる。
「——フン、なるほど。キミにとって、警察はあくまで取引相手という訳か」
「 “協力” 相手ですよ、お互い大事にしましょう」
「聴かせてもらおう」
ショーンは真鍮眼鏡を掛け直し、この4日間で仕入れた情報を刑事に流した。
トレモロの夜が徐々に深まってくる。
ショーンは時折、湧き水のような味と香りの透董茶を口にしながら、ラルク刑事に話を続けた。
「なるほど、トレモロ創始家同士の確執、そして『ゴブレッティの設計図』の盗難……それがノア地区の大工事にも絡んでるという訳か」
「ええ。『設計図』の盗難については、僕と紅葉は、サウザス事件との関連も疑っているんです。サウザスでも相当数の財宝が、犯人によって盗まれましたから」
「ほほう……だがノアの大工事には巨額の金と人が動いている。税金もね。州警察としては、具体的に何か起きるまで介入したくない案件だ」
「了解です。僕もノアについては何とも言えません……が、本日ゴブレッティ邸の跡地が第三者に渡ったことで、近いうちに、ワンダーベル家とレイクウッド家の間で何か起きるかもしれません」
「留意しておこう」
トレモロ町の喧々諤々なお家騒動に、ラルク刑事は溜め息をつきつつ応じた。すべて詳らかにしたショーンは、頬を高揚させて満足した笑みを浮かべている。
「——で。取引というからには、何の情報が欲しいんだ?」
「はい。クレイトの大産院で、ヴィーナス町長の出産記録を調べて欲しいんです」
「は?」
ラルク刑事は、思わず白ハッカ飴の棒を口から落とした。




